第72話 レストア。

 夏休みも残すところあと三日。


 ひさしぶりに市瀬家に足を運んだ。油断禁物だ。真奈美さんが夏の暑さに負けて、お部屋に戻ってしまっているかもしれない。


 お部屋には戻っていなかった。


 呼び鈴を鳴らす前に判明した。


 玄関脇の小さな庭にジャージ色のヤシガニ真奈美さんがしゃがみこんで、なにやらやっている。丸めた背中は、いつもに増してヤシガニっぽい。


「なにしてんの?」


臆病な節足動物をおどかさないように、なるべくゆっくりと話しかける。肩越しに覗き込むと、錆びた金属を紙やすりで磨いていた。横には、ずらりと自転車の部品が並んでいる。大部分が新品。だけど、フレーム、サドル、ペダル、ハンドル、かご、そして、真奈美さんの持っているチェーンガードは古いものだ。


 見覚えがある。


 川の底に俺と共にダイブした自転車を釣り上げようとして、俺と妹が偶然に釣り上げた子供用自転車だ。川の底から間違って引き上げて、始末に困り交番に届けたものだ。自転車のフレームには防犯登録番号がついていて、それは相変わらず警察のデーターベースに残っていて、持ち主の自宅に電話があった。持ち主は真奈美さんだった。おそらくは、十年ほど昔の真奈美さんの自転車を、俺と妹が川の底からサルベージした。


「それ。真奈美さんの自転車だったんだって?」


隣に座って、たずねる。


「うん…」


そう言って、また錆を落としにかかる。


 こしこしこしこしこしこしこし。


 夏の日差しに、新品の自転車の部品がきらきらと光る。ホイール。チェーン。スプロケット。クランク。タイヤ。汎用品の部品は、今でも同じ規格で手に入る。古い部品は、十年前に流行ったアニメのロゴとイラストの描かれた部品。


 真奈美さんがチェーンガードを磨いている姿は、見ていても面白いものではない。


 暇だ。


 俺も暇つぶしに、紙やすりとハンドルを手に取る。ブツブツと赤錆の浮いた表面を紙やすりでじゃりじゃりとこする。男子高校生は棒状の物体をこする動作を日々練習しているから得意だ。


 こしこしこしこしこしこしこし。


 じゃりじゃりじゃりじゃりじゃり。


 錆がずいぶんと進行している。「花さかG」というフザけた名前の錆び落としを塗って、磨く。一部、ぼそぼそっとパイプに穴が空く。奥まで錆びていた部分だ。


 どうしよう…と思って周りを見ると工具箱の中にチューブを見つける。《切って、練って、埋める!五分で硬化》と誇らしげに書いてある。


「これ、試していい?」


一応、オーナーに確認を取る。


 こっくり。


 承諾を得て、その粘土みたいな金属パテを半ば穴から押し込むように、半ば周囲を包むようにして盛り付ける。多少大きく膨らむけど、固まってからやすりで削れると書いてあるのを信じる。


 長い間、水に浸かっていた金属部分は、ほぼ錆びだらけだ。ピンク色に塗装されていたフレームはマシだが、裏側が金属の地金丸出しだったチェーンガードとハンドルは、ほぼ完璧な錆び色だ。反して、プラスティックの部分は乾燥して枯れた苔を歯ブラシで擦り落としてやると、思ったよりも色が綺麗に残っている。水の下にあって、かえって紫外線や乾燥からは守られていたらしい。それでも、かごの部分を磨くときは気を使う。金色の塗装がされていたプラスティックは、ぱりぱりと表面が剥がれて白いプラスティックの下地がむき出しになる。


「あとで塗りなおさないとね」


「…うん」


 こしこしこしこしこしこしこし。


 真奈美さんは、ほぼ錆びの塊になったチェーンガードを裏側から磨き続ける。たまにぼそっと表側に突き抜ける。


「真奈美さん、ちょっと待って。それ。そこに置いて」


俺がそう言うと、真奈美さんが手を休めてチェーンガードを庭の芝生の上に寝かせる。俺はポケットから携帯電話を取り出して、なるべく正面から写真を何枚か撮る。


「写真を撮っておいて、あとでパソコンで絵を再現しよう」


写真を液晶画面で確認しながら、真奈美さんに意図を伝える。前髪の間から鳶色の瞳が覗く。吸い込まれるような透明な瞳は、子供の目みたいだ。


「…できるの?」


「わかんないけど」


その調子で錆が表に貫通している部分が周囲を巻き込んで崩落し続けると、跡形もなくなる可能性がある。とりあえず、現状程度のデータは残しておきたい。


「…できると…いいな」


真奈美さんが、ぼろぼろになったチェーンガードを撫でる。古いアニメの絵の痕跡だけが残っている。大量生産の十年も川の底に沈んでいた自転車。


 真奈美さんの自転車。


 気がつくと、首の後ろと腕がひりひりと日に焼けていた。一方、長袖ジャージに顔まで全面前髪で覆った真奈美さんのUV対策は完璧だ。でも、熱中症対策は心配だ。


「ちょっと中に入って、なにか飲まない?熱中症になるよ」


お客の俺のほうが言うのはずうずうしい気もするが、黙っていると、このまま何時間でもこしこしやっていそうだから仕方ない。脇においてあったプラスティックコンテナに、磨きかけの部品と新品の部品を一旦全部入れて、手に持つ。


 玄関を開ける。


 ただいまー…と、言いそうになってストップする。あぶない。妹に毒されすぎた。


「おじゃましますー」


「にーくん!おかえりっすーっ!」


市瀬家の居間から、二宮家の次女が二宮家の長男におかえりと叫び返してくる。ワンダーワールドだ。


 市瀬家の居間に行くと、うちの妹がミニスカートをぴらぴらさせてカーペットの上に転がりながらサイダーのペットボトルを片手にゲームをしていた。パンツが見えそうな姿勢だ。よその家でのくつろぎレベルが高すぎると叱るべきだろうか、もうあきらめた方がいいのだろうか。


「真菜、美沙ちゃんは?」


「しらないっすー。朝からいないっすよー」


めまいがした。


 どうやら、うちの妹はクラスメイトの家に、クラスメイトが留守なのに遊びに来て、居間のカーペットの上に転がりながらゲームをやっているようだ。


 あまりの非常識っぷりに、軽く感動すら覚える。


 やっぱり叱ろう。


 俺は、カーペットの上に転がる妹を踏みつけた。頭を、だ。


「ふぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ。あにするっすかー」


「教育。お前、もう少し礼儀ってものを覚えろ」


具体的に、なにをしてはいけないのかを列挙したい。しかし、クラスメイトがいないのにクラスメイトの家に上がりこんでいる時点からしかるべきなのか、勝手にカーペットの上に転がっていることをしかるべきなのか、そのサイダーはどこから持ってきたのか問いただすべきなのか、そう悩んでいる間に真奈美さんが同じサイダーを冷蔵庫から、俺の分と自分の分を持ってきてくれて、まさか、このバカ勝手に冷蔵庫を漁ったんじゃないだろうな、だとしたらよそのお宅の居間で妹に垂直落下式DDTをお見舞いするのは、失礼じゃないだろうかなどと、とめどなく思考が流れる。つまり、俺の脳の処理能力を妹の無礼力が凌駕している。


 うちの妹はあなどりがたい。


「ただいまー」


玄関から、透き通った声が聞こえてくる。美沙ちゃんだ。


「あ。お兄さん…と、真菜。来てたんですね」


「うん。たいへんお邪魔しています。特にこいつが…」


「ふぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ。美沙っち、にーくんが私とSMプレイをエンジョイしてるっすー。ストンピングプレイっすー」


「プレイ?お兄さんっ!?」


少なくとも、家に帰ってから妹にジャーマンスープレックスホールドをぶちかましてやることを心に決める。


「プ、プレイじゃないよ!しつけだから!」


「調教されてるっす!」


調子に乗るな。このバカ。


「ちょ、調教!?お兄さんっ!」


つかつかと美沙ちゃんが詰め寄る。ノースリーブのゆるふわワンピースの襟元が可愛らしくて、たゆんとDカップが揺れて素敵だ。でも状況はあまり素敵ではない。美沙ちゃんの迫力に、つい一歩下がって、妹を足元から解放してしまう。


 さかさかさかさか。


 妹が床にはいつくばったまま、トカゲのような動きで足の届かない範囲まで脱出する。


「お兄さんに言いたいことがあります」


「は、はい」


十五センチの身長差を埋めようと、爪先立ち気味に俺に迫る美沙ちゃん。


「実妹を調教とか意味がわかりません」


調教ではなくてしつけだし、これ以上妹を調子付かせると、市瀬家に対して俺の立場がないと思うのだが、なぜかその市瀬家次女に怒られている。しかし、ここで理屈が通じてしまったら美沙ちゃんじゃなくて宇宙人が送り込んできたニセモノかもしれないと疑う必要がある。


 理屈が通じなくてこその美沙ちゃんである。


 俺も、だいぶ美沙ちゃんが分かってきた。


「調教するなら、私ですよねっ!」


ですよねっ!と言われても、なにが、ですよねっ!であり、なぜ調教するなら美沙ちゃんなのかわからない。美沙ちゃんの超論理は本日も安定の飛距離である。いろいろ飛び越えて、思わぬところへ着弾する。


「いや…あまり、美沙ちゃんを調教する意味がわかんない…んだけど…」


俺、すごいぞ。エクストリーム状態の美沙ちゃんに口ごたえしている。俺は自身の蛮勇におののく。


「それが意味わかんないんです!」


同意だ。俺もわかんない。金星人を理解しようとする火星人の気分だ。


「お兄さん!今、私と付き合いたくないのは分かりますけど、だったら付き合いたくなるようになるまで、私のこと調教すればいいじゃないですか!お口に合うように品種改良しちゃってくださいよ!」


台所で美沙ちゃんのお母様がこちらをご覧になっておられるので、たいへんに居心地が悪うございます。


「み、美沙ちゃんは…その…」


美沙ちゃんは、お口に合うどころかパーフェクトで百パーセントまじりっけなしの俺の理想の具現だ。品種改良だなんてとんでもない。市瀬美人遺伝子は、七十億のホモサピエンスの頂点に立つ完璧なDNA塩基配列であり、四十億年に及ぶ生命の歴史の到達点だと断言できる。


 だが、俺にも照れというものがあるのだ。


 だって、そんなことを言ったら告白みたいじゃないか。つーか、まぁ、告白なんだけど。


 だけど今の俺は、美沙ちゃんとはつきあえない。そんな判断が理屈になる時点で、つきあう資格がない。美沙ちゃんの恋人になるのは、俺の細胞のひとかけらまで美沙ちゃんのことだけを想っていなくてはいけない。今の俺は、そうじゃない。浮気細胞だらけだ。


「私は、お兄さんが好きですよ。つきあって欲しいです。お兄さんの好みに合うようになんだってします!」


美沙ちゃんが爪先立ちのままこちらに身体を倒してくる。


 うおおおっ。


 俺の胸に美沙ちゃんのDカップの圧力が!


 一瞬かかって、すぐに消えた。


「美沙っち落ちつくっすーっ!」


背後から妹が美沙ちゃんを羽交い絞めにしていた。このバカ余計なことをしやがって、帰ったらDDT(※デンジャラス・ドライバー・オブ・天竜)を食らわせてやる。


「美沙は、本当に直人君のことが好きなのねー」


台所から、お母様…由利子さんが参戦する。


「でも、真奈美も直人君のこと大好きよね」


むぎゅ。


 背後から真奈美さんボディが俺に押し付けられる。押し付けるのは、市瀬由利子さん。意味がわからないよ。ここはあっちもこっちも分からないワンダーランドだよ。あと、さっきから俺に押し付けられる物体が、あっちもこっちも柔らかすぎる。


 そこに、硬い物体が側頭部めがけて飛んでくる。


「あぶねぇ!」


ミニスカートをはいた二宮真菜の三百六十度後ろ回し蹴りだ。すごい切れ味だ。スウェーバックでかわしていなかったら、頭が取れていたかもしれない。俺はモビルスーツじゃなくてホモサピエンスなので、たかがメインカメラをやられただけでは済まずに死ぬ。最後に見た光景が妹の水玉パンツとか、悲惨すぎる。


「にーくん!デレデレしてだらしないっす!」


さっきまで、カーペットの上でダラダラしてた妹に言われる台詞ではない。


「あらあら。真菜ちゃんも、お兄ちゃん大好きなのね」


こいつは俺が好きなんじゃなくて、単純に俺に嫌がらせしたい粗暴な妹だ。


「す…しゅ、しゅ…」


妹が興奮しすぎて、顔中を真っ赤にしてる。大丈夫か、こいつ。ついにイカれたか。いや、イカれているのは、元からか…。


「美沙、真奈美…真菜ちゃんも、そういうことだから、あんまり抜け駆けしちゃだめよ。特に十八歳未満は、逆レイプとかしちゃだめよ」


由利子さんは、たぶんあのダンディなお父様を非合法な手段で落としている。この美人お母様の脳内では、告白≒逆レイプになっている可能性がある。


「私…十八歳になってるし…」


「お姉ちゃんっ!?」


「真奈美っち!?」


真奈美さんは、逆レイプの意味も知らないくせに年齢部分にだけ反応をする。


「真奈美さん…今のお母様の言ったこと、意味分かってる?」


確認してみよう。


「…な、なおとくんのやってたゲームみたいの?」


おっと。そうだった。真奈美さんは恋とかキスとかデートとかは知らないけど、逆レイプとか触手とかは知っているんだった。


「ま、まぁ、そういうゲームもあったかな…」


予想外のヤバ展開に冷や汗が背中を伝う。お母様もここにおられるので、大変に居心地が悪うござる。


「な、なおとくんも、お、お○んぽ…ミルク出りゅ?」


出ない。俺のお○んぽは居心地の悪さに縮みあがっている。


「…って、なおとくんのゲームで言ってた…けど。お、お○んぽミルクってなに?」


今、俺は悲鳴をあげて、耳を両手でふさいで逃げ出したい。


「そんな簡単に出ないわよねー。直人くん」


お母様も黙れ。頼む。


 俺は超美少女と、前髪さえどければ美少女と、美女に囲まれている。しかし、美女に囲まれているのになぜか居心地が悪い。自殺を考慮するレベルで居心地が悪い。


 なぜだ。


 脳内で記憶を巻き戻す。


 なぜ、こんなことになってしまったのか。


 そうだ…。


 とあるバカが『調教』とか言い出したからだ。


「お前のせいだーっ!」


「ふぎゃーっ!」




 俺は妹にデンジャラス・ドライバー・オブ・天竜をぶちかました。


 体罰完了。




「いただきます」


「いっただきまーすっすー。にーくん肉っすー」


そのまま辞去するタイミングを逸したまま、市瀬家の御当主であるお父様が帰宅して、俺と妹も夕食の席にまでお邪魔している。二宮家ではあまり食卓にのぼらない洋風な食事に、妹も大喜びだ。にくにく言っている。


「お前、本当に他所の家でも、まったく緊張とか遠慮とかしないのな…」


「してるっふほぉー」


カツレツを口に入れたまま、俺の隣で答える妹。俺の乏しい観察力では、遠慮の欠片を見つけることができない。斜め向かい側に座る真奈美さんの方が十倍以上緊張して見える。真奈美さんは前髪の間から、じーっと俺ばかり見ながら黙々と付け合せの野菜を食べている。


 真奈美さんが、お皿に盛られた白飯を引き寄せる。


 もくもくもくもく。


 白飯終了。


 真奈美さんが、付けあわせを食べ終わって、カツレツだけが残った皿を引き寄せる。


 もくもくもくもく。


 おかず終了。


 真奈美さんが、水の入ったコップを両手に持つ。


 ぐぐーっ。こぷ。


「……ごちそうさま」


真奈美さん。ご飯を作るのはあんなに上手なのに、食べるほうはシングルタスクだ。


「…すごくおいし…かった」


じーっと俺から視線を外さずに真奈美さんが言う。


「あらー。真奈美に料理褒めてもらうと自信ついちゃうわ」


なるほど。お母様でも、真奈美さんに料理を褒めてもらうのは誇らしいレベルなのか。納得ではある。真奈美さんは、ミシュラン三ツ星レベルの料理上手だからな。ミシュラン三ツ星のレストランなんて行ったことないけど、真奈美さんの作る料理の驚異的な美味さよりも美味い物とか想像できないから、たぶんミシュラン三ツ星で間違っていないだろう。


 それにしても、真奈美さんの超料理はどこで覚えたんだろう?美食倶楽部だろうか。


「真奈美さんって、どこで料理覚えたの?パリ?ミラノ?」


リヨンか、もしかしたらシチリアのシェフに師事したのかもしれない。


「…台所…で、おぼえたの」


キッチンを指差す。思ったよりも近いところだった。


「真奈美は、料理上手だものな」


お父様が、ほんの少しの緊張を含んだ声音で真奈美さんを褒める。それを聞いて思う。真奈美さんが食卓にいる光景は、まだ市瀬家の日常になりきれていない。


「…な、おとくんが来るとき…わ、私、つ、作っても?」


「だめ」


真奈美さんの小さな勇気を踏み砕くのは美沙ちゃんだ。氷の声音だ。目からもちゃんとハイライトが消えている。ヤンデレモード発動。


「お兄さんには私の手料理を食べさせるの」


食べないと、包丁が料理以外にも使われそうだ。


「あらあら。直人くんモテモテねー」


「にーくん。私が作ってやるっすよ。ぺヤング」


ぺヤングは料理じゃねーよ。好きだけど…。あれは食事というよりおやつだ。


「私も、お父さんを落とすとき、手作りのお弁当を毎日持って行ったわー。今でも、毎日作ってるけど…ねー」


そう言って、美人のお母様が隣に座るダンディなお父様に甘える。ラブラブだ。


「由利子…あ、ありがとう。感謝してるけど…職場で食べづらいメッセージ性は控えてもらえると嬉しい。今日のは…ちょっと」


そんなにラブラブなお弁当だったんだろうか。


「全部、ハート型にするの大変だったのよ。お豆とか小さくて、一個ずつハート形にするのにデザインナイフで一晩かけて頑張ったのよ。ご飯の上のラブレターも一文字ずつ切り抜くの大変だったんだからねー。照れちゃやだぁー」


由利子さんの旦那さんへの愛は、結婚後何年経っても健在みたいだ。腕に抱きついてすりすりと甘えている。


「お兄さん。私もやりますよ」


「あ。美沙、じゃあ今度は二人で徹夜でやろうねー」


「うんっ。お母さん、教えてー」


微笑ましい母娘の会話だ。けっして、一晩中台所で背中を丸めた美沙ちゃんとお母様が並んで、豆を一つずつハート型に彫刻している姿を想像してはいけない。


「今日は、お父さんのお弁当にうずらのタマゴを入れてね」


「うんうん」


「食紅でタマゴにもラブレターを書いたのよ」


「わぁ」


微笑ましい母娘の会話だ。けっして、うずらのタマゴに食紅でラブレターが書いてあるビジュアルから、お米にお経が書いてあるアレを想像してはいけない。しかも赤い字だ。


「あとね。お弁当のフタのほうにも『好き好き』って百回海苔で書いて貼り付けちゃうの。びっくりさせちゃうのよー」


「それ、絶対可愛いよーお母さん!」


二回くらいなら可愛いと思うが、百回か…。少しやりすぎかもしれない。


 お父様にちらりと視線を向ける。お父様は黙って、食後の紅茶を飲んでいる。ダンディだ。由利子さんの愛を受け止める、大人の度量を感じて尊敬の念を禁じえない。


「と、時々は真奈美さんも、作ってくれると嬉しいな」


毎日、美沙ちゃんの愛情がつまったお弁当では愛情過多になりそうだからね。


「うん」


真奈美さんが前髪をゆらしてうなずいた。


「にーくん、私も作ってやるっすよ。ぺヤング」


そのお弁当は、わざわざお前に作ってもらわなくてもいい。購買で売ってるし、お湯もある。




(つづく)

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