雪に咲く花。蜃気楼。
猫柳蝉丸
本編
産まれてから一度も異性に愛されなかったと考えている春雄にとって、その出会いは一種の奇蹟と称しても差し支えなかった。
「よかった、気が付かれましたね」
その声色には優しさと慮りが確かにあった。その声色は春雄がこれまでの人生で耳にした記憶が無い声色に感じられた。それほどまでに春雄に優しさを与える女は存在しなかった。その程度には春雄は外見や財力に優れてはいなかったからだ。
三日前のもう何度目か数え切れない失恋を経て、春雄は今朝、既に趣味のようなものと化している冬山登山を行った。登山自体が好きだったわけではない。たまに人と関わるのが煩わしくなって、山に逃げ込んでしまいたくなるだけだ。その逃避が趣味と言えるほどの回数に上ってしまっているだけだった。
特に冬山登山は失恋で自暴自棄になっている時期によく行った。春雄は何故か冬先によく女に振られる。その理由が、クリスマスシーズン直前、イベントに向けて増える恋人同士を見て焦り、破れかぶれで周囲の女達に愛の告白をして回っているせいだという事を、愚かしいながら春雄自身は気付いていない。
ともあれ冬山登山はいつも自暴自棄に行われた。装備も簡易にしか用意せず、熟練の登山者から見ると冗談としか思えない服装で冬山登山は何度も敢行された。誰の目から見ても、春雄がいずれは遭難して重篤な事態に陥ってしまう事は火を見るよりも明らかだった。案の定、今回の冬山登山で装備も準備も足りなかった春雄は雪山の中に倒れた。
そうして、俺の人生、何もいい事無かったな――とありがちな走馬燈を見ながら気を失い、気が付いた時には隣に純白の和装を着こなした青白い顔の女が春雄の顔を覗き込んでいたというわけだ。
「話せそうですか?」
もう一度、気遣った様子で女が春雄に訊ねる。
少しだけ身を起こして春雄は周囲の様子を探る。豪風の音が激しいながら吹き込んでこないのはここが洞窟であるからで、温かいと思ったらどうやら火が焚かれているかららしいという事までは春雄は理解した。
口を開いてみても意外にも口腔内はあまり凍傷で傷付いていないようだ。春雄は頷いてから小さく声を出してみる事にした。
「どうにか……。あなたは?」
「わたしはこの辺りに住んでいる女です。先程、激しくなる雪の様子を見に外に出てみたんですが、その時に倒れているあなたを見つけたんですよ」
「それは御面倒を掛けてしまったようで……」
「いえ、お気になさらず」
何でもない事のように微笑む青白い顔の女。目覚めたばかりの春雄でさえも、この状況がおかしいという事くらいは分かる。この辺りに住んでいる女? こんな豪雪地帯に住んでいる女が居るものか。仮に本当に住んでいるにしてもこんな洞窟に棲む必要が何処にある? それこそ全くあり得ないシチュエーションというやつだった。
気付けば春雄は訊ねてしまっていた。不躾で不用心かもしれないが、そもそも失っていたかもしれない、失っていても構わない命だったのだ。自らの置かれた状況を気にする方が身の安全より何倍も重要だった。
「突然すみません……、あなたはひょっとして山の民の方ですか?」
山の民。春雄が登山を趣味にしていると知って、職場の先輩が冗談交じりに教えてくれた話だ。戸籍を持たず山を転々としながら農業や狩猟を生業とする事で生きている人々。少なくとも昭和の時代までは実在を確認出来ていたらしい。
しかし、青白い顔の女はかぶりを振った。ある意味当然ではあった。山の民が現存しているとしても、こんな洞窟で真白の和装を着用して生きているものか。見る限り鳥肌すらも立っていないようだし……。つまり、この女は……。春雄の思考がそこまで至った瞬間には、女が先に答えていた。
「いいえ、わたしはイタカです」
「イタカ……?」
「あなたたちの伝承では雪女とも呼ばれていますね」
「雪女……ですか」
成程、と春雄は逆に納得した。豪雪の雪山に棲む白い着物の髪の長い女。まるでまさしく雪女そのものではないか。あまりにも単純過ぎる答えに笑いまで漏れてしまいそうだ。別に彼女が雪女でも構わなかった。春雄は存外にそういう御伽噺の如きシチュエーションが嫌いではない。もっと言うと現実の女よりそちらの方が好みでもあった。
「それでは雪女のイタカさん……という事でいいですか?」
「イタカは種族名でもありますが……、そうですね、『風に乗りて歩むもの』と呼ばれても困りますし、他に発音しやすい名前もありませんし、そう呼んで頂いて構いません」
「それではイタカさん、単刀直入に聞きます。どうして俺を助けてくれたんですか?」
「どうして、とは?」
「伝承のように俺の生気を吸い取るつもりですか?」
昔話でよく見た展開だ。雪女は男の生気を吸い取って生きる。
春雄はそれでも構わないと思っていた。そもそも不注意で命を落としても構わないと思っていたくらいなのだ。イタカに救われた以上、自分の命はイタカの物でもあると本気で考えていた。それは砕いて言えば軽い自殺願望でもあっただろう。山の下の女達は誰も春雄に優しくしてくれなかった。愛してはくれなかった。それならば一瞬でも命を救ってくれたイタカに全てを捧げても構わないと思えたのだ。
しかし、イタカはまたもかぶりを振ったのだ。どこか艶っぽく、色めかしく。
「いいえ、生気なんて必要ないんですよ、ええと……」
「俺は春雄です」
「それではハルオさん、雪女は別に男の生気なんて必要ないんですよ。たまに気が向いたら吸い取る事くらいはありますけれどね、そんな事をしなくても普通の食べ物の経口摂取で十分なんです。むしろ食べ物自体必要ではありません。わたしたちはそういう生命の常識には縛られない存在ですから」
言われてみればその通りだった。雪女が一般的な生き物であるはずがない。もっと、そう、神話的な存在のはずだ。そんな神話上の存在にどんな一般常識が通じるだろう。しかし、それならば、何故?
春雄がそれを口にする前にイタカが微笑んだ。春雄が滅多に目にしない女の笑顔だ。
「伝承にはもう一つ雪女が取る行動があるでしょう?」
「もう一つ……? もしかして……」
「そうです、ハルオさん。わたしはあなたに一目惚れしてしまったんですよ」
「まさか……」
それこそまさかだった。そう考えるよりは、イタカが雪女であると考える方こそ現実味があった。少なくとも春雄に一目惚れする女が存在する可能性の方が現実では遥かに低かったのだから。それほどまでに春雄は山の下の女達に傷付けられてきた。
「おかしいですか?」
「だって、俺はこんなだし……、不細工でイケメンでもないし……」
「それは日本の女達の感性の話でしょう? 雪女には関係の無い話です」
「金だって持ってないし気も利かない……」
「お金に何の価値があります? 気なんて後から幾らでも身に着けられますよ」
「それでも、誰かに好きになってもらえた事なんて、もらえる自信なんて俺には……」
呟いて俯く春雄の手をイタカが優しく両手で包み込んだ。
その手のひらは意外にも冷たくはなかった。温かくて優しかった。
「いいじゃないですか、わたしがあなたに一目惚れしてしまったんですから」
「ど、どうして……」
「誰かを好きになるのに理由なんて必要ですか? わたしは山で倒れているあなたを見つけて愛おしくなった。この人と番になりたいと思えた。ずっと歩んでいきたい。この人となら永遠を生きていけると直感で思えんです。そもそもわたしたちイタカ――雪女はそのためにこの星に降臨したんです。この星で叫び声を上げそうなほど悲しんでいる人たちに寄り添うために。そんな人たちを愛するために」
「わ、分からないんだ、俺には……」
分からなかった。春雄には分からなかった。子供の頃から女たちに半ば無視されて生きてきた春雄には、女に愛されるという感覚が分からなかった。春雄は振られ続けてきた。傷付けられ続けてきた。好きだと言ったら拒絶された。拒絶されるどころか気味悪がられ気持ち悪がられた。外見や財産を補うような才能も持ち合わせていなかった。女を好こうと思いながらも、唾棄され続ける存在でしかなかった。
しかし、イタカは春雄を愛すると言ってくれた。突然の愛に涙まで溢れ出た。
「いいじゃないですか、ハルオさん。人間の、しかも狭い日本という地域の価値観に傷付けられなくてもいいじゃないですか。ハルオさんの素晴らしさが分からない女たちの事なんていいじゃあありませんか。わたしが愛します。わたしがあなたの妻になります。子供だって産んで差し上げます。そうして幸せになりましょう。ハルオさんの良さを何も分からない女達なんかよりずっとずっと幸せになりましょう。約束します、ハルオさん。伝承の雪女のように夫婦になりましょう。わたしの正体は既にハルオさんも知っているんですから、わたしの方からハルオさんを捨てる事なんてもうありません。幸せになれるんですよ、わたしとハルオさんなら。大勢の子供たちと一緒に」
言った後、イタカは春雄の唇を奪った。
他人より遥かに遅いファーストキスは甘美で、春雄はイタカに夢中になり始めた。イタカは雪女ではあるが……、いや、雪女であるからこそ、自分を幸せにしてくれるのではないか、と春雄は考えて始めていた。
吹雪く豪雪の音を耳にしながら、春雄とイタカの優しくて甘い睦事が始まる。
◇
その後、春雄はイタカの言う通り幸福になれた。
山を下りる事はせずイタカと子供を五人作り、山仕事に精を出して幸福に生きた。
イタカは裏切らなかった。イタカは春雄を妻として支え愛し続けた。
春雄は死ぬまでイタカと子供たち共に幸福な生涯を終えた。
全員女の子であった子供たちは成人女性ほどの外見年齢まで育つと、世界中の山々に散って春雄と同様に他人に愛されなかった人間達を愛し、慰め、更に子を成した。春雄とイタカたちの子孫は各地に広まっていく。
他人に愛されなかった人間など、探すまでもなく各地に遍在していた。
世界中の人間にイタカの血が混じり続ける。
加速度的に、ネズミ算式に、イタカの娘、孫娘たちが増加する。
孤独な人間たちも冷酷な同胞より優しくて温かいイタカの血との子を望んだ。純粋な人間が減少している事に気付いた時には手遅れだった。そもそも分かっていても、自分一人くらいならとイタカの血と交わる人間は後を絶たなかった。
結果として人類の血筋を宿す人間は減少し、僅か三百年で地球の覇者はイタカに取って代わられ、人類は完全に絶滅した。イタカとはそういう星を渡って星を支配する種族だった。何も嘘は言っていない。イタカは春雄を死ぬまで愛し続けた。結果的に人類が滅亡してしまっただけだ。
春雄は雪女の伝承について一つだけ知らなかった。雪女という御伽噺は、真冬に吹雪が戸を叩く音から突然の訪問者を幻想しまった、孤独な人間たちの伝承だという説がある事を。待ち侘びた都合のいい訪問者など幻でしかないという事を。
全ての愛や優しさは幻想に過ぎないのだ。
しかし。
その幻想が春雄や愛されなかった者たちを癒したのは、間違いない。
雪に咲く花。蜃気楼。 猫柳蝉丸 @necosemimaru
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