水の通り道

賢者テラ

その1『水の通り道』

 水谷菜穂は、幼いながらも死を覚悟した

 小学校のプールの時間

 あってはならないことだが、排水口からゴウゴウ音がする

 菜穂はたまたまその時、排水口のそばを泳いでいた

 水をかいてもかいても、体が底へ吸い込まれていく

 叫び声を上げたが、その声は水の中へと空しくかき消された

 ……母さん、助けて



 息ができない

 こらえられなくなった菜穂の鼻を、口を、液体が犯した

 どうして、私が——

 なぜ?

 私、何か悪いことした?

 謝るから

 謝るから、水の上に上げて

 そして「心配したんだから!」って言う友達に

「ゴメンゴメン、大丈夫。心配した?」って言いながら、もとの生活を続けたい



 お願い

 何でもする

 何でもするから

 私を死なせないで!





 我はお前の叫びを聞いた

 お前の嘆きを聞いた

 我は悠久の時を生きる水の精霊



 お前と契約を結ぼう

 今より私とお前はひとつとなる

 お前は水使いとして、残りの生を生きることになる

 お前の好むと好まざるとに関わらず

 世界を変えうる大きな力を得る



 それをどう使うかは、お前次第

 私はお前の判断には一切口出しをせぬ

 すべてお前が責任を負うのだ——




 菜穂は奇跡的に助かった

 排水口のカバーが外れ、恐ろしい勢いで水を吸い込んでいた

 小学生の力では抗えないはずだった

 学校関係者は犠牲者を出さずに済んで、胸を撫で下ろした

 でもその日から——

 菜穂は変わった

 誰もが首を傾げた

 異様に大人びた雰囲気になった

 いつもおよそ子供らしくない、憂いを帯びた目をするようになった



 菜穂は自分が助かったことと引き換えに変わってしまった

 異常にはすぐに気づいた

 水と話ができるのだ

 命じたとおりに自在に動く

 重力というものさえ無視して、菜穂のどんな指示にも形を変えた

 風呂でも、台所でも、洗面所でも——

 菜穂はその力を、水で好きな形や像を作って遊ぶだけにしか使わなかった

 そうして、小学生時代が終わりを告げた

 菜穂は中学生になった




 菜穂は自分の数奇な運命を受け入れるには幼すぎた

 同じ年頃の友達と心の底から笑えず、遊べず

 自分でも分析不可能なやるせなさを背負い

 彼女は水の精霊の力を自分のために使った

 水泳部に入り、ジュニア日本新記録を作った

 瞬く間に時の人となり、すっかり有名人になった

 菜穂がその気になれば、大人の世界新記録を超えることだって簡単だ

 極端な力の使い方をして怪しまれるといけないので、そこはセーブした

 年齢相応のスピードに調節して、大会に勝ち続けた

 水は、菜穂の言いなりだったから



 虚しかった

 菜穂はちやほやされたが、本当は一人ぼっちだった

 真の自分の力ではない栄光

 ファンは皆、菜穂の栄光を慕っているのである

 菜穂という一人の人間を見てくれているわけではない



 高校生になっても同じことを続けた

 彼女の次回のオリンピック出場は確実視されている



 ……私の本当にやりたいことって、何?



 菜穂は自分というものが分からなくなり、見失い——

 憔悴し、体力が落ちた

 食事ものどを通らない

 痩せた

 食べては吐いた



 何でよ

 何で私だけこんな……

 菜穂には水泳 No.1 の座など欲しくもない

 欲しいのは、今の自分からの解放

 この忌まわしい、人とは違う力からの解放 



 菜穂は大きな川のそばをフラフラと歩いた



 ……死のうか



 時々そう考えた

 一度、プールの中で溺れてみようと思い力を抜いてみた

 水が、菜穂を死なせはしなかった

 何故なら彼女は、世界に存在するすべての水の王だったから

 水中にどれだけいても死ねなかった

 肺が水でいっぱいになっても平気な体になってしまっていた

 かといって、菜穂は違う自殺の方法を試そうとはしない

 そんな自分の弱さと身勝手さに、自嘲気味に笑うのだった




 水音がした

 それは、とてもとても小さな音

 普通の人間の耳には聞こえないほどの——

 およそ3キロ先の上流

 菜穂にはそこまで分かった

 いや、それ以上のことが分かった

 その水音の原因が何であるかも



 菜穂の目の色が変わった

 彼女の体の周囲に、ブルーのオーラが揺らめいた

 この瞬間菜穂は、自分の苦しみを忘れた

 初めて自分以外の者のために力を発動した

 瞳の色がマリンブルーに染まる

 時は、満ちた



 アクア・トルネード!



 とてつもなく大きな渦が、一瞬にして川の中央に逆巻く

 一気に30メートル上空にまで、太い水柱が上がった

 まるで蛇か何かの生き物のように身をくねらせた水柱は——

 その白い波頭の先端に担ぎ上げたものを、川岸に降ろした

 それは、水遊びをしていて流されてしまった幼稚園児だった



 菜穂は花束を片手に、病院で助けた小さな女の子を見舞った

「これからは、気をつけなさいね」

「うん」

 病室を出て、戸を閉めた菜穂は空を見上げた

 病棟の廊下の、広めの窓から見える斜陽

 菜穂は笑った

 弱々しい微笑だったが、今までのどの笑いとも違う

 病院をあとにした菜穂は、駅前通の人ごみの中に消えていった

 その謎めいた微笑を浮かべたまま——




 アフリカ大陸で、不思議なうわさが流れた

 あちこちで、東洋人の女が不思議な術を使って水を出すのだ

 渇き切った大地に川を生み出し

 枯れた井戸を蘇らせ

 作物を生き返らせ

 瀕死の状態にあった村を潤し、救っている——

 ある部族などは、水の神だと言って拝みさえした

 その後、干ばつの激しいオーストラリアにもまとまった雨が戻ってきた

 学者は、気象学上は説明のつかない奇跡、だと言う



 時を同じくして、水谷菜穂という人間が消えた

 蒸発したのである

 必死の捜索がなされた

 誰もが、日本の水泳界を背負って立つ逸材を失ったことを嘆いた



 その後菜穂がどうしているのかを知るものは、誰もいない——

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