第二話 狭山くんは意地悪……ですわっ!

「マジかよ……」


 色褪せた畳の上に寝そべりながら呟く。

 あれから志賀郷は確かに俺の隣の部屋に入っていったのだが未だに信じられない。


 なんせガレージには高級外車がショールームの如く並び、プライベートプールまで完備された邸宅に住んでいたらしい志賀郷が六畳間のワンルームで一人暮らしをすると言っているのだ。落差が余りにも激しすぎるのではなかろうか。エベレストの頂上からマリアナ海溝の海底まで飛び降りるくらい激しすぎると思う。


 それにしても……薄い壁のすぐ向こうに志賀郷が佇んでいると思うと胸のざわめきが収まらず妙に落ち着かない。彼女は今何をしているのだろうか。成り行きで考えてみたが、頭に思い浮かんだのは先程見せた志賀郷の愛らしい笑顔だった。


「く、駄目だ……」


 何故か頭から離れない。志賀郷が「ありがとう」と言った数秒が脳内でループ再生されていく。可愛かったな――ってこんな事を考えてはいけないだろう。煩悩退散だ。

 俺は両手で頬を叩き、気を紛らわすようにして起き上がる。コンビニに行って気分転換してくるか……。

 安物の長財布を尻ポケットに突っ込んで玄関に向かう。しかしタイミングが悪かったらしく俺の行く手は早速阻まれてしまった。


 コンコンコンッ


 軽やかなノック音が三回鳴った。誰か来たようだ。


「あー、はいはい」


 遠慮がちに叩かれた音から推察すると呼び出した相手は概ね想像が付く。カメラ付きインターホンは無いが、代わりに音で誰か判断できるから案外便利なものである。

 気だるげな声で返事をしたが淡い期待も少々込めつつ玄関のドアを開ける。するとそこにいたのは俺の予想通りのアイツだった。


「志賀郷か……どうしたんだ?」

「お腹が空きましたわ」


 どこか不服そうな表情でこちらを睨んでくる志賀郷。しかしそんな姿ですら美しく見えるのだから志賀郷は恐ろしい。彼女の無意識な誘惑にまんまと引っかからないように気をつけないと。


「報告ありがとう。俺は用事があるから、じゃあな」

「ちょ、待ちなさいな!」


 ドアを閉めかけたところで志賀郷に掴まれる。まあ俺も本気で会話を断ち切ろうとは思ってなかったけどね。


「お腹を満たせる食べ物を持ってないかしら。私、ディナーの前に一食挟まないと倒れちゃう性分ですの」

「それなら……今からコンビニに行ってくるから菓子でも買ってこようか」

「いいえ、私は今すぐ食べたいのですわ。それに庶民のつまみ程度で私のお腹は満足しませんわよ。せめて和牛のフィレ肉ステーキぐらいボリュームが無いといけませんわ」

「どんだけ食うつもりだよ。思いっきり夕食のレベルじゃねーか」


 本当にここで暮らす気があるのか? この調子だと三万円の所持金も三日で底を尽きそうな勢いだな。


「私はこれが普通なの。……ねえ狭山くん。A5ランクの和牛とは言わないから何か美味しい物を私に食べさせてくれないかしら」


 志賀郷は瞳を潤せながら上目遣いで懇願してきた。こいつ……人に物をねだる術を熟知してやがる。あざとい態度が丸見えだ。

 しかしどんなに可愛くせがまれても限度というものがある。牛肉という高級品を俺が今すぐ出せる訳が無い。ならばここはひとつ、庶民の定番品とやらを教えてあげるとしようか。


「カップラーメンならあるけど……食うか?」

「カップラーメン……! あぁ、確か四十代の独身サラリーマンが切なさに溺れて泣きながら食べるあの食べ物ですわね!」

「どういう覚え方をしてるんだよお前は」


 確かに独身サラリーマンは好んで食べてそうだけど。手軽でコスパも良いし。


「私、一度食べてみたいと思ってましたの。対価はお支払いますから用意をお願いできます?」

「いやいや、金はいらないから。安いし」

「そうですか? …………はっ! それともまさか私の身体を要求するおつもりで……!?」


 志賀郷は一歩後ろに下がり、自分の身を守るように胸元を両腕で隠した。待ってくれ、俺をどんなゲス野郎だと思ってるんだよこのお嬢様は。


「アホか。今回の見返りは求めないから安心しろ。ほら、分かったらさっさと部屋に上がってくれ」

「……ありがとうございます。お邪魔します……」


 それでもまだ警戒しているのか、志賀郷は俺との距離を広げたまま恐る恐る玄関に足を踏み入れていた。



 さて――普通に志賀郷を家に招き入れてしまったが果たして問題無かったのだろうか。そもそも女子を部屋に入れる事自体初めてなので善し悪しも分からない。今になって緊張してきた……。


「私の部屋と構造は同じですわね。シンクの位置が反対になってますけど……」

「ま、まあな。アパートはこういうものなんだよ」


 無駄に動揺してしまい、声が若干上擦ってしまった。だが志賀郷は俺の返事には目もくれず辺りをきょろきょろと見回していた。恥じらっている様子は見受けられない。


「なにか珍しい物でもあったのか?」

「いえ……同世代の男性の部屋にお邪魔するのは初めてだったもので……。意外と綺麗に整理されているのですね」

「まあ物が少ないからな。ぐちゃぐちゃにしたら底が抜けそうで怖いし」

「ふふ、確かに怖いですわね。でも……隠している物もあるのではないですか? その……タンスの裏とか押し入れの奥とか……」


 急に頬を赤く染めて顔を俯ける志賀郷。いきなりどうした、と思ったが男が自室で隠す物と言ったらおのずと答えが分かってきた。

 素直に返事をするのも癪なので、少し回りくどい事をしてみる。


「えーなんだろう。もっと具体的に言わないと分からないよ」

「そ、その……アレですわよ、アレ……」

「アレって?」

「ぬぅぅ……。だから……え、え、え……えっちな本とか」


 後半は早口でまくし立てた志賀郷だったが、その顔は林檎のように真っ赤で瞳には若干の涙が浮かんでいた。


 意地悪し過ぎたか……でもエロ本を口にするだけでこんなに恥ずかしがる志賀郷も純粋過ぎるのでは無いだろうか。お嬢様故に道を外さず大切に育てられた、ということか。


「なるほど、えっちな本ね。残念だけど俺は持ってないんだよな。ごめんね」

「何故狭山くんが謝るのか理解に苦しみますけれど……。というか、本当は気付いていたのではありませんの?」

「え、さあ、何のことかなあ」

「私に言わせるように仕向けた意図が見受けられましたが……しかし、種を蒔いたのは私ですし、この件は水に流して差し上げますわ」


 志賀郷はふんっとそっぽを向いてしまったが、頬はまだほんのりと紅色に染まっていた。余程恥ずかしかったみたいだな。


「……可愛いなあ」

「え……」


 心に留めておくつもりだったのだが、俺はどうやら声に出してしまったらしい。見かけによらず純粋な志賀郷に対する感想ではあるが本人に聞かれると非常に気まずい。俺は心臓の鼓動が急激に速くなるのを感じた。


「きゅ、急に変な事を言わないでください。私が可愛いのは周知の事実ですし、からかってもむ、無駄ですわ」

「…………その割には照れてるようだけど」

「やかましいですわっ!」


 志賀郷はぺしっと俺の二の腕を叩いて反抗した。なんという照れ隠し……。可愛過ぎるだろ。


 思わず悶えてしまうような今の状況を切り抜けるべく、俺はシンク横にある戸棚に向かった。余計な遠回りはせず、さっさとカップ麺を食わせて帰らせよう。このままだと緊張と動揺で意識が吹っ飛んでしまいそうだからな。

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