愁いを知らぬ鳥のうた

蜜柑桜

第1話 女子高校「秋風祭」朝

 ——で、舞台には立つんでしょ?


 ——もちろんです。


 一週間前、酷い捻挫をした左手の三角巾を見た部長朝倉先輩に答えた。耐え切れないほどもどかしい一週間を思いつつ、春菜は鬱陶しい白布から解放された左手を撫で、タクシーの運転手に頼む。


「すみません、次の角曲がったら、校門の前で止めてください」


 十字路を左に曲がると、秋晴れの中に校門が見えて来た。普段とは違ってポップに飾られた門の上に、紅葉と銀杏の切り抜きで囲まれた『秋風祭』の文字と、道の両脇に列を成す出し物の看板。


 開演まで二時間を切ったところだ。大丈夫、間に合う。

 春菜はスマートフォンを取り出し、メールアプリを起動した。


 ***


「着替え終わった人から柔軟と発声やってください。今日は通しはやらないから、各自で苦手なところ不安なところ、最終チェックしてー」


 はいっ! という威勢のいい声のあと、すぐに部員たちが部屋の隅に散らばった。朝倉めぐみ達の女子高校の大ホール棟にある多目的室だ。学園祭の期間、めぐみたちの『音楽劇部』その他、ホールで出し物をする舞台系の部活それぞれに、四つある多目的室が割り当てられている。


「メイクは崩れるからあとにしてねー! それから男役はシークレット・ブーツ、今から履いて慣らしておいて! あとスタッフさんは三十分前まで自由時間ですが、申し訳ないけど校内回る時にビラ配りお願いしまーす」


 部屋のあちこちからはーい、と返事が上がる。緊張と熱気。学園祭本番独特の空気だ。三年目の今日、演目は『ウエストサイド・ストーリー』。めぐみには最後になる、この空気。


「うおっ、やべっ」


 部員の様子を眺め回していためぐみの斜め下から、女子らしからぬ小さな叫び声が上がった。見下ろせば、主人公の一人であるトニー役の美菜子が着替え途中の中途半端な格好でめぐみを見上げている。


「どしたの」

「サラシ、一枚部室に忘れた」

 確かに、美菜子の胸回りに巻かれている布は一枚だ。男役の体型に合わせて調整するためのものだが、いつもは二枚巻いている。

「っもー……なんでうちの部員は女役より男役の方がみんな胸がでかいのかなぁ……」

「あはは、しょうがないじゃん」

 悪びれずに笑いながら、美菜子は花柄ピンクのポーチから安全ピンを取り出した。

「おまけにやたら乙女だし」

「いやん、言わないで」

 上半身布一枚巻き付けた格好でしなを作って言われても、いつものことすぎてめぐみには突っ込む優しさも起こらない。持っていた台本を開きっぱなしの学生鞄の方へ放り投げ、代わりに制服のカーディガンを拾い上げた。

「仕方ない、私もう衣装がえ終わったし、ひとっ走り行ってくるよ」

「美菜さーん! こっち追加のタオルあるー!」

 部屋の隅から声を掛けたのはジョット団の一人を演じる後輩だ。

「ありがと投げてー」

「いっきまーす!」

 丸めたタオルが待合室の弧を描いて宙を飛ぶ。立ち上がった美菜子が、片足を後ろ九十度に蹴り上げてキャッチした。

「よっしナイスキャッチ!」

「背中は垂直!」

 明るく叫ぶ美菜子に、すかさず振付指導の三年にしてマリア役、優里の檄が飛ぶ。即座に美菜子の身体が美しい直角を作った。おおっ、と部員中から声が上がり、片足を戻した美菜子がそのまま続けてピルエット。「トニー素敵ー!」「美菜子さーん!」とあちこちから高い声が上がり、美菜子が満面の笑顔でポーズを決めた。

 調子がいいのを確認できて、めぐみは内心、安堵する。美菜子は極度のあがり症なのだ。


「発声は喉潰さないようにコントロールね! あと今日寒いから、しっかり身体温めといて!」


 はいっ! と再び威勢のいい声が揃って、着替えの続きをする子、早くも発声を始める子、鏡の前で振り付けの確認をする子と、皆が銘々に動き始める。めぐみは自分も床に座って身体を伸ばし、腹式呼吸を整えた。鼓動がとくとく、小さな音を立てる。まだ全面には出てきていないが、静かな緊張が部屋中に広がっている——半年間、脇目もふらずに取り組んできた演目。学園祭二日目の今日が最後なのだ。


 喧嘩もハプニングも多すぎるほど多かったけれど、今日が最後だ。


 目を閉じて呼吸に集中する。すると、部員の発声が乱れる中で、携帯のバイブレーションが鳴った。飛び起きて画面を見ためぐみは思わず叫んでいた。


「優里っ! 兄さん着いたって!」

「まじで?! 良かった!」


『いま校門です。』——短いメールはベルナルド役の春菜からだ。一週間前に体育の跳び箱十段に失敗して手首の捻挫。そのまま病院送りで、放課後の部活に帰ってきたら腕には見事な三角巾つき。医者に言わせれば一週間は固定ということだ。この時ほど、マリアの兄役でシャーク団リーダーのベルナルドとジェット団リーダー、リフ役を一日目と二日目でダブルキャストにしておいた自分に、「よくやった!」と思った日はなかった。


「誰か今日出ない子、春菜、玄関に迎えに行って! 絶対にあいつに荷物持たせないで!」

「あたしが行くよ」

 この熱気の中でクールな声は多目的室の入り口からだ。三年スタッフの松江涼子が立っていた。

「涼子いいの? 勉強受験勉強は?」

「んー、今日くらいいいでしょ。舞台終わったあと修二くん担任が教員室の机、貸してくれるって」


 大学までエスカレーター制の我が女子校で、大学受験をする生徒は少ない。めぐみたち三年部員の中で、外部受験生は涼子だけだった。それでも三年最後の部活を完全には捨てられない、と音響・照明設定と舞台監督補佐を兼任し、受験勉強道具を抱えて夏合宿まで参加した。本番の今日は舞台スタッフに回っている。


「じゃ、頼むわ。教員入り口から入るって」

「おっけい、らじゃった」

「十五分したら《五重奏》合わせる。間に合うかな」

「あれま。走るわ」

 そういうと涼子はポニーテールを勢いよく揺らし、上履きを蹴って飛び出していった。それを見送っためぐみは『入り口で待ってて!』とメールに打ち込み、ふぃー、と息を吐く。お腹に息を溜めて、発声がわりに声を張った。


「兄さん着いたら《五重奏》、合わせるからねー。《五重奏》出ない子にも見てもらうから!」


(続く)

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