エフのセカイ

@HCE

第一部

プロローグ

 聖真人まひとの家から高校までの道のりには、三つの障害物がある。

 川と線路、それに高台の公園だ。

 これらを一気に飛び越せたらどれほど楽か――そう考えることは、健全に怠惰で横着な高校生ならば正常なことだろう。

 本当にそれらを飛び越せる能力を会得した後ならば、尚更だ。

 全力で走り、思い切り地面を蹴ればいい。それですべてを飛び越せる――


 友人と肩を並べて歩く真人が、あくびをかみ殺した。



「――真人、おい真人って!」


 往来に、制服を着込んだ四角い少年の声が響く。

 場所は少年たちが通学路に使ってる繁華街の一角。夕方なので人通りもそれなりにある。そんな中で大声で名前を呼ばれた真人は、あくび途中の間抜けな顔で振り向いた。

 振り返った真人も、その名を呼んだ友人も、どこにでもいるような、ごく普通の高校生だ。


「急に立ち止まって、大声でどうしたんだよ。

 何かあったか、陣内……うっ!?」


 真人と呼ばれた少年が息を呑み、振り返る途中の不自然な格好で固まる。

 その目は、ある一点を凝視していた。


「いや、お前……って、何を見てんだ?」


 陣内が真人と同じ方向を見る。

 視線の先には見慣れたアパレルの量販店があった。

 ショーウィンドゥの中には子供服用のマネキンがディスプレイされている。

 幼さを残しつつもスラリと伸びた手足のプロポーションと、染みひひとつない肌。

 ただ、男か女かは分からない。

 真人はそのマネキンを凝視していた。


「あのマネキンがどうかしたか?」


「いや……何でもない。

 あのマネキンがオレに似てる訳ないよな……あはは」


「似てるって、何を言ってんだお前?」


 陣内が首をかしげる。

 マネキンと真人の間には、微塵も似ている要素はない。

 真人は答える代わりに力なく笑うと、スマホを取り出した。適当に立ち上げたソーシャルアプリには失踪や家出などの物騒なタグが踊っている。


 流し見して重要な情報がないことを確認した真人が、ふうとため息をつく。

 その息は熱を帯び、意外に重い。

 再び顔を上げた真人がスマホをポケットに仕舞いながら、ぼそっとつぶやいた。


「なあ、陣内……俺はどういう風に見えてる?」


 陣内がバッグと荷物で塞がっていた肩を器用にすくめる。


「ごく普通の奴だよ。

 良い奴だというのは保証してやるが、それだけでは美形にカテゴライズされないな」


「大きなお世話だが、まあそうだな。

 そうだよ、普通の男だよ、うん。

 決して――ショタではない」

「……?」


 陣内は真人の意図が読めず、不思議そうな顔をしながら再び横に並んだ。

 二人は少しの間、無言で歩く。

 真人は何かを考えながら。

 陣内は友人の妙な言動に戸惑いながら。特に最後の一言に。


「なあ、ショタって何のことだ?」


「――ああ、そういえばさっき俺を呼んでたよな!

 用事でもあったか?」


 真人が慌てて話題を変える。

 少しのあいだ無言で真人を見ていた陣内だったが、おもむろに親指で肩越しに後ろを指した。


「ああ……何処へ行くんだと思って。

 帰り道は過ぎたぞ?」


 一瞬何を言われているか分からないという顔をしていた真人だったが、周囲の風景を見て我に返った。

 慌てて振り返えると、確かにいつもの道を通り過ぎている。


「あっ……ああっ!?

 じゃあ明日っ!」


「明日は休みだろ。

 何処かへ付き合えってんなら、別に構わない……」


「わ、悪い、明日は用事があるんだ。

 ちょっとアンテナが立たないところに行ってくる。

 ――代わりに週明け、話したいことがある。

 成功して……生きて帰れたら、相談に乗ってくれよ」


「お、おう?」


 遠ざかる真人の背中を見ながら、陣内が首をかしげる。

 最後の言葉が引っかかった。

 冗談にしてはボケが一切入ってない。


「あいつ、先月からどうも様子が変だな……?」




 真人は自宅のあるマンションのエレベーターからダイブするかのように飛び出し、廊下も全速で突っ走って家に飛び込んだ。


「母さん、ただいま!」


 玄関から部屋に飛び込んだ真人が速効で着替えを済ませる。

 着替えの速さは真人の持ってる変な特技の一つだ。

 入りと同じ勢いで部屋を飛び出してきた私服の真人が、スポーツバック片手に玄関から飛び出してゆく。


「じゃ、行ってくるよ!」


 扉を閉める前にそう叫んでダッシュすると、エレベーター前の小さな空間で一息ついた。

 経験上、外へ出てしまえば母親は追ってこない。

 家族には今日から明日まで友人宅へ泊りがけで遊びに行くと言ってあった。


 ――嘘はついていない。

 自分はここから、ずっと離れた場所にいる友人たちのところへ行く。

 いつもと違って今度は本当にだ。

 今日という日が無事に終われば、友人たちにとって記念すべき日になるだろう。

 それに立ち会える自分は幸運だと、真人は本心から思っている。


 思っている、の、だ、が……!


さえ無ければなあ……」


 エレベーターを待つ真人が愚痴る。

 そうしていると箱が来た。

 慌てて飛び込もうとする足が止まる。中に人がいたのだ。

 四角く切り取られた空間には、妹の真千佳が飾られたように立っていた。

 彼女はただいまと、いってらっしゃいを続けて呟くと、エレベーターから半分降りながら扉を手で押さえ、兄に場所を譲る。

 譲られた真人が、ギリギリと軋む音を立てるように妹に向き直った。


「い、いってき……ます」


 いつもなら素っ気なく身振りだけで済ますところだが、今日に限っては何か気まずい。

 お互い何となく見つめ合ってしまう。


「どしたの?」


「いや……その、なんとなく」


 そこへ食事の支度中だった筈の母親が、珍しく扉から出てきた。

 後ろから声が飛ぶ。


「真千佳、お帰りなさい。

 真人、相変わらず落ち着きがないわね!

 向こうに着いたら何でもいいから一言連絡ちょうだいね。

 いってらっしゃい」


「お、憶えてたらね、じゃあ!」


 真人は妹と母親に手を振ると、今度こそエレベーターに飛び乗った。

 一階まで降りるとエントランスから飛び出す。

 少し先にある公園まで一気に駆け抜けた真人は、そこでやっと一息ついた。

 空の色は青いままだ。まだ時間は充分ある。


「これで明日までは帰らなくても大丈夫として……さて、どこへ行こう?」


 泊まりがけの理由を探すのに手一杯で、その後のことを考える余裕がなかった。

 真人がこれからのことを頭の中で整理する。


「今日は寝るだけでは済まないらしいから、身を隠せる場所を探す」


 真人が周囲を見渡す。

 住宅、住宅、住宅、住宅……下町とはいえ、腐っても東京都二十三区内である。

 監視カメラがある可能性もあった。


「とにかく、まずは場所探しだ。

 人目に付かず何時間か眠れて、その後……消えても問題にならない場所を。

 下水の奥でも廃墟でもどこでもいい、探せばどこかにある筈だ」


 真人がブツブツいいながらも歩みを進める。

 当てがあるわけではなかったが、駅前の方が建物も多いので選択肢も増えるだろうという希望が少しあった。

 なら、立ち止まってるより動いた方がマシだ。


 止まれば余計状況が悪くなる――


 この辺りが真人が落ち着きのない奴と呼ばれる理由の一つでもあるが、本人はこの性分を欠点だとは思っていない。

 真人がふと立ち止まった。そのまま雑踏を見渡す。

 周囲にはごく普通の風景が広がっている。


「ああ、そっか……

 あの人たちは、これを見たくて必至に頑張っているんだ」


 真人の胸に不思議な感慨が湧いてくる。

 旅に出た時、ふと故郷を強く思い出した時のような、そんな気分だった。

 そのまま空を見上げる。

 青い空は、どこまでも青い。


「この空を越えて、別の世界へ行く……か。

 行くのはいい。いいさ。行けるとこまで行ってやる。

 だけど……やっぱりが、なあ」


 小さく溜息をつくと、真人はほんの少しだけ肩を落としながら駅へと向かい始めた。




 駅前ロータリーの周囲には駅ビルを中心に大小様々なビルが並んでいる。

 真人はキョロキョロと周囲を見渡すが、適当な場所は見あたらない。


「飲食店は論外。

 いっそ公衆トイレ……は、どうしても思いつかなかった時の最終手段にしよう。

 今ならトイレでも寝られる自信あるけど」


 真人が、あくびをかみ殺す。

 この日のために昨日あまり寝ていなかったから、場所さえあれば寝入る自信はあった。

 だが、どこで?


「最悪トイレ、最悪一歩手前は学校。後は、どっか他にあれば……」


 学校も抵抗があった。見つかったらとても不味いことになるだろう。

 かき集めた小遣いが一万ほどあるが、ネットカフェは未成年だけでの利用が禁じられている。ホテルは高校生一人だけを泊まらせてくれるか分からない。


 何も思いつかなかった真人は、仕方なく駅ビルに入ることにした。

 改札を出入りする人の数は徐々に増えている。

 真人は雑踏を横目に、小さな駅ビルの入り口にある案内板をボーッと眺めた。


「飲食店……だから駄目だって。

 カラオケボックス……は、ないか。あってもカメラあるしな。独りで入る根性もない。

 いっそ服か何かの試着室……も、駄目か。

 やっぱり学校……いやいや、何かある筈だ」


 案内図横にある階段を登ろうとして、真人は店舗の裏と階段脇通路との間にある扉に気づいた。

 頑丈そうな金属製で、スタッフオンリーと書かれたプレートが貼ってある。


「これは……バックヤード?」


 恐る恐る触ったドアノブを触る。幸い鍵はかかってない。

 手早くのぞき込むと、扉の先には殺風景な通路が続いている。人の気配はない。

 真人はそっとバックヤードへ滑り込んだ。


 周囲に気を配りながら人気のない方へ進むと、薄暗い階段脇に小さな自販機コーナーを見つけた。

 カップ式の自販機と、その影に小さなベンチがポツンと置いてある。

 ベンチに座って少し待ってみるが人の出入りはない。ふと気づいてごみ箱の中をこっそり覗くが、空っぽだ。


「うん、ここでいいか」


 真人はスポーツバックを寄せて眠る体制に入った。

 目を瞑って二、三度深呼吸すると、頭の芯がじんわりと痺れてくる。

 睡眠不足は効いているようだ。


「お店の人、ご免なさい……おやすみ」


 真人が小さく呟く。

 しばらくすると、真人の寝息が静かに響き始めた。

 どうやら寝入ったらしい。


 ――その瞬間、真人の身体が一瞬だけ淡く光った。

 同時に小さく唸るような音が響き……すぐに収まった。

 バックヤードは、また静かになった。

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