記憶の断片から

蓮見庸

1

「お客様、このたびはカモメタクシーをご利用いただき、誠に有難うございます。生体認証を行いますので、こちらをご覧ください」

 運転席から振り向いたアンドロイドの目が黄色く光り、男は吸い込まれるように覗き込んだ。一瞬の後その瞳は澄んだブルーに変わった。

「マサトさん、有難うございました。これからどちらへお連れすればよろしいですか?」

 そう話す顔は、キメの細かいなめらかな白い肌にパチリとした目、小さな鼻、そして上品な口元。中性的な顔つきで、表情はないが、怖いとか、無愛想というわけではなく、普通の人間となんら変わりない印象を受ける。

「53R地区のZ4Tだ」

「53R地区のZ4T、第4ターミナルでよろしいでしょうか」

「ああ」

「承知いたしました。目的地まではおよそ30分で到着いたします。シートベルトをお締めください」

「30分だと? いつもの倍以上じゃないか」

「本日は通行規制が行われているため、普段より時間がかかります。ご了承ください」

 アンドロイドは話し終えると丁寧にお辞儀をし、くるりと前を向いた。続いて車はゆっくりと音もなく走りはじめた。

「ちっ、ついてないな。これじゃ鉄道を使った方がぜんぜん早いじゃないか」


 タクシーは明るい青を基調としたボディーに白いカモメのマークが描かれ、ビル影の落ちたアスファルトを滑るように進んでいく。

 交差点を曲がると、ふいにマサトは暖かさを感じた。振り返るとちょうど太陽が沈もうとしているところだった。日中は突き刺さるようだった光にもかげりがみえはじめている。

「このごろは日が落ちるのも早くなったな」と何気なくつぶやくと、「そうですね。本日の日の入り時刻は午後5時38分です。2週間前より20分早くなりましたし、南中高度も低くなりました」とアンドロイドは答えた。

 そんな答えが聞きたいわけじゃない。「じゃあ月の出入りは…」どうなんだと皮肉のひとつも言いたくなるが、機械相手に腹を立てても仕方ない。やり場のない気持ちを押し殺し、憮然として窓の外に目をやった。


 高層ビルが立ち並ぶ区画に入ると、その長い影はタクシーに覆いかぶさり、あたりは急に薄暗くなった。車内はひんやりとしてくる。

 ほどなく鉄道のレールをくぐるトンネルが見えてきた。入口は誘導灯が見えるだけでほぼ真っ暗な闇であり、テールランプの明かりを残した車が次々と吸い込まれていく。トンネルは歓楽街に続き、一晩中消えることのない明かりが空を赤く照らしている。

 信号が青になり、マサトの乗ったタクシーも誘導灯に導かれ闇の中へと入っていく。トンネルの中は明るく、オレンジの光に照らされ走っていくが、出口の直前で止まってしまった。

 前を見ると、歓楽街へ入る道路をふさぐ人々の長い行列が見えた。そろいのはっぴを着てしずしずと歩き、その周りを警官が取り囲んでいる。歩道には見物客の人だかりができている。

「これか」

「今日はオオキ祭です。名前の通り大きな木のお祭りです。その起源は不明ですが、もう何千年も続いているといわれています。前回お祭りが行われたのは54年前で、前日の夜は強い雨が降っていました。参加した人数は…」

 どうりで初めて聞く祭りだ。しかしこのあたりに大きな木なんてあっただろうか…。まあ今はそんなことより、車がなかなか動きそうにないのが問題だ。

「ちょっとそこを左に曲がってくれないか」

「お客様、それは」

「抜け道を教えるから大丈夫だ。行ってくれ」

「承知しました」

 タクシーは交通整理の警官に誘導され、車線を変えて左へ曲がる。車は行列に近づき、その人々を近くで見ると、老若男女入り混じってはいるが、みんな同じはっぴを着ているためか、どの顔も似た印象を受ける。その厳かな雰囲気とは対照的に、街の騒音が車内にまで聞こえてきた。

「そこを右だ」

「次を左に」

「あのビルの角を………あのビルは、何だ?」

 迷った。勘を頼りにさらにいくつか角を曲がるが、完全に迷った。狭い区画のはずなのに、大通りに出られないばかりか、どこにいるのかすらさっぱりわからない。仕方ない、あとはタクシーに任せるか…そう思ったとき、車はスピードを緩め道路脇に止まった。

「お客様、申し訳ございません。エンジントラブルです」

 今日はついてない。

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