妖怪がお医者さん

たけのこ

1.依内メンタルクリニック

依内メンタルクリニックにアルバイトに来るようになって、思えば早一週間が経った。

「いっちおくねんとーにせんねんまえかっら、ああーいーしーてーるうー」

「……今日も元気ですね、加藤さん」

 メンタルなクリニックということで、院内の裏側は今日も慌ただしい――わけもなく、僕の知る限り今日も患者さんはゼロ。夕方からの勤務とはいえ、加藤さんたちが仕事した形跡が見当たらないので、やっぱり患者は来なかったのだろう。

 というわけで、暇を持て余したのか、パソコンに向かってカルテを整理しながら熱唱していたのは加藤さん。どこかの地獄少女を思わせるような黒髪と無表情、そして犬耳と犬しっぽが愛らしい――第一印象を抱かせておいて、そんな美少女的イメージを軽々と粉砕してくれるエキセントリックさが売りのナースさんだ。事務所どころか院内に医師も患者もいないのをいいとこに、たまにこんな風に歌っている。もしくは一人デュエルしている。

「はっちおくねんすぎたーころかーらー、もおっとこいしくなあーったー」

「八千年じゃないですか?」

「やまざきくんはこまかい」

 くるくると椅子を回しながら器用に指を差してくる加藤さんにお茶を出して、僕も部屋の隅の椅子に腰を落とした。事務所というか事務室ほどの広さもないような部屋だから、たとえ隅に座っていても院長の席が遠いわけではない。院長は僕の淹れたお茶を飲みながら経済新聞を広げていた。

 そして加藤さんのお向かい、だらんと机に頭を投げ出しているのが桜井さんだ。この人は根本的に働く気がないんじゃないかと思えるほどに、今日も今日とて元気がない。四六時中妙に元気な加藤さんとは正反対だ。とりあえず桜井さんの机にもお茶を置いておいたけど手つかずのままだ。

 僕も仕事がないのでぼーっと空を見ていると、おい、と低い声で呼ばれた。桜井さんだ。

「山崎、食事の意義を言ってみろ」

 突然何事だ。

 戸惑う僕を促すように、桜井さんの鋭い目が僕を睨みつけてきた。依然頭は机に乗せたままだ。この人の首は本当に柔らかいと思う。

「……栄養摂取ですか?」

「三十点だ、馬鹿野郎」

 妙に辛い点数だった。

「お前はたかがそれだけのために飯食ってるのか。もう一生栄養剤でも飲んでろ」

「……味を楽しむこと、他人とのコミュニケーション、ですか?」

 昔むかし、小学生の頃の家庭科で習ったような気がする言葉を羅列すると、桜井さんは不満げながら頷いた。

「そうだ。味だ。大事なのは味だ。どんなに栄養に万能な食材でも不味けりゃ何も意味がない」

「……つまり?」

「そろそろ美味しいごはんが食べたい、ってことでしょう?」

 日経新聞から顔を上げて院長が口を挟んできた。眼鏡のよく似合うそれなりのイケメンだろうが、なんだかぱっとしないのが惜しい。額に角栓みたいな角があるのがのがさらに惜しい。そして前髪にちょろんと白髪が一本跳ねているのがなおさら惜しい、そんな惜しいところだらけの高橋院長だ。

 そしてこちらははっきり端正、目つきが悪いことを抜きにしても美男子な桜井さんがぎりりと奥歯を噛みしめた。どこからどう見ても不機嫌だ。触らぬ桜井さんにたたりなし。僕はまた窓の外を見た。

 紫から漆黒に変わりつつある空を眺めること数秒、ほとんど間髪入れずに、ねー、と再び声がかかった。今度は加藤さんだ。

「やまざきくん、やまざきくん」

「はい?」

「ぼくのーじごくーに、おんーがーくはたえなーい、ていうところのさいごのびぶらーと、あげる? さげる?」

「下げるんですよね」

「せーかい。たえなああーい!」

 何をそんなに気に入ったのか、それとも元々大好きなのか、加藤さんが歌うのはきまってアクエリオンだ。しかも一番だけエンドレスリピート。さすがの僕でも一番は空で歌えるようになった。

「いっしょにうたおうよ」

「ヤですよ。恥ずかしい」

「やまざきくんはしゃいだ。うたういぎをしらないんだ」

「加藤さんは知ってるんですか?」

「しらない。わたしはいぬだもん」

 だろうと思った。

 加藤さんはほっといてもいい。三度空を見上げると、ちょっと、とまた声がかかった。院長直々のお呼び出しだ。

「山崎君。お茶菓子を頼めるかな」

「あ、はい」

 院長の用事はいつもまともで僕も安心する。さながら戦場の中のオアシスみたいな感じだ。そこまでくると大げさな感じはするけど。

 事務所から直通の沸騰室に行くと、ほどなくして棚に生八つ橋と赤福を発見。生八つ橋を常温で放置して大丈夫なのか若干不安だが、まあ加藤さんも桜井さんも院長も人間じゃないので大丈夫かな。生八つ橋をチョイスした。

「八つ橋でいいですか?」

「ありがとう。わあ、おいしそうだね。いただきます」

 穏やかに目元をほころばせて院長がまず八つ橋をぱくり。よっぽど八つ橋が好きなのだろう。そのくらい院長は幸せそうな顔をしていた。

 次に箱を加藤さんに持って行くと、待ってましたとばかりに腕が伸びてきた。――箱に。

 慌ててガードした。

「全部あげるわけじゃないですからね!?」

「けち」

「みんな一個ずつなんですから。ほら加藤さんの分」

「むー」

 何だかんだ言いながら加藤さんは大人しく八つ橋を一つだけ持って行った。これで一番の難関は突破したようなものだ。

 最後に僕は桜井さんに箱を持って行った。桜井さんはまだ元気がなかった。

「八つ橋ですよ。美味しいですよ」

「ああ……」

 のっそりと桜井さんが顔を上げた。ぼーっとした目で箱を見つめて、まったりとした動きで手を伸ばした。

 僕の腕に。

「ちょ、ちょっと、桜井さん、気を確かに! 八つ橋は一人一個まで――」

 言い終わる前に、僕は桜井さんに、腕を噛まれた。がぶりと。

 ほげー!



○依内メンタルクリニック……鬼の子高橋院長、犬神の加藤、吸血鬼の桜井による心療内科クリニックである(山崎のメモより)

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