「ルビー文庫:D」の試し読みを公開中!

角川ルビー文庫

【試し読み】はなのみやこ『その後の後宮を飛び出したとある側室の話』

 潮風が、ふわりとリードの髪に触れた。

 かすかな潮のにおいを感じながら遠くを見れば、どこまでも続く水平線が広がっている。

 昇り始めた日の光に、キラキラと照らし出された水面がゆれている。

 見上げた空は青く澄み渡っており、空色のキャンバスの上を海鳥が気持ちよさそうに飛んでいた。

 甲板から下を覗いてみれば、ごうという音をたてながらエメラルドグリーンの海を船が進んでいく。

 巨大なガレオン船は、リサーケ商会とオルテンシア海軍が共同で開発したものだ。

 派手好きなフェリックスらしく、そびえ立つマストは高く、装飾も技巧を凝らされている。一見豪華な客船に見えるが、その実立派な軍艦でもあり、甲板の下には十数個の砲門も備えている。

 現代では、映画や歴史書の中でしか見ることが出来ない船はリードの目にはとても新鮮で、興味深く映った。

「髪が傷むぞ」

「ラウル」

 いつの間に、隣に来ていたのだろうか。

 気が付けば、王太子、ラウル・リミュエールが、リードの隣に佇んでいた。

 海を見るのに夢中で、気配に気付かなかったようだ。

 ラウルは持っていたスカーフをリードの髪へとかけると、そのままリードの見ていた海の方を見つめる。

 そういえば、以前にもこんなことがあった。確かあれは、サンモルテの教会で、のことだ。炎天下の野外で植物の手入れをしていたリードをラウルが気にかけ、スカーフを頭にかけてくれたのだ。

 あの時には、ラウルの行動に戸惑いの方が大きかったな。当時を思い出したリードの口に、自然と笑みが湛えられる。

 王太子妃になってから半年、リードの髪は、すでに肩に届くまでの長さになっている。

 今日も朝から念入りにルリが整えてくれたことを考えれば、あまり潮風にあたるのはよくないだろう。

「ありがとう」

 礼を言ったものの、ラウルがこちらを向く気配はない。

 やはり、まだ機嫌は直っていないようだ。

 リードはラウルには聞こえぬよう、こっそりと溜息をついた。




 話は、数週間ほど前に遡る。

 いつも通り、外交部での仕事を終えたリードが部屋へと戻る途中、女官長にリケルメからリードに贈り物が届いていると伝えられた。

 かねてより懇意にしているアローロとオルテンシアの間では、頻繁に書簡や贈答品のやりとりは行われていた。

 さらに、アローロ王の養子であるリードが王太子妃となってからは、大義名分を得たとばかりに、リケルメは事あるごとに何かしらの贈り物を送ってくれる。

 その多くはリードが興味を持ちそうな書物で、リケルメ自身も読んだ後なのか、添えられた手紙には簡単な感想も書かれている。

 だから、リードも本の感想も兼ね、返礼の手紙を毎回送っている。別に誰に読まれてもかまわない、政治の話など一切書かれてもおらず、他愛もない内容ばかりだ。

 そのように仲の良い二人の様子を、城内の人間もみな微笑ましく見守ってくれていた。ただ一人を除いては。

 ラウルが、自分とリケルメの書簡のやりとりを面白くないと思っていることは、リードもわかっていた。

 リードとリケルメが単純な義父と子の関係であれば、周囲の者たちのように温かく見守ってくれるのだろうが、二人の関係がそれだけではないことをラウルは知っている。

 今でこそラウルの妃となっているリードだが、四年ほど前までその立場は違っていた。

 かつてのリードは今では義父となったリケルメの側室として、その寵愛を一心に受け、何不自由のない生活を送っていた。

 そんなリードが、アローロの隣国であるオルテンシアの王太子妃となるまでには、様々な紆余曲折や試練があった。とはいえ、それは既に過去の事で、リードの中では既に清算されているのだが、ラウルにとってはそう簡単なものではないようだ。

 婚礼の儀も何もかもを終えた頃にフェリックスから聞いた話によれば、リードがリケルメの子として嫁ぐことも、最後まで難色を示していたという話だった。

 確かに、リードもラウルと同じ立場であれば、もやもやとした感情は心に残るだろう。

 過去を変えられない事はラウルもわかっているだろうし、その事に関してラウルから責められた事は一度もない。

 だからリードも、事あるごとにラウルへ自身の気持ちを伝え、安心させるように努めてきたつもりだ。

 けれど、それでもなお、ラウルにとってリケルメは面白くない存在であることに変わりはない。

 元々が伯父と甥という関係で、リケルメもラウルを可愛がっていたし、ラウル自身、リケルメの事を敬愛していたというのもあるのだろう。

 さらに、次期王としての立場もあるのだろうが、国家元首としてのリケルメにラウルは対抗意識も持っていた。リケルメ自身も、そういったラウルの負けん気の強さを小気味よく思っていたきらいもあったし、二人の相性はもともと悪くはない。

 そんな風に、どこか似た部分を持った二人ではあるのだが、それでもリードに関することには妥協することが出来ないのだろう。

 リードがラウルと出会って三年、期間だけを考えるなら短いようにも感じられるが、リードにとってそれはとても濃密な時間でもあった。その時間のほとんどを、側近としてラウルのすぐ傍にいたということもあるのだろう。

 王太子妃となった今では、さらに距離は近くなった。

 リケルメの側室としてアローロの後宮で過ごした十年という時間に比べれば、短いかもしれない。

 それでも、リードはずっとこの先も、妃としてラウルに寄り添っていくのだ。 

 ラウルの心の内にある不安も、時間と共に消えていくだろうし、リード自身もそれを望んでいた。

 けれど、だからこそリードは今ほとんど使われることのない自分の寝室に、リケルメからの溢れんばかりの届け物を見た時、顔を引きつらせた。

「ルリ……これって……」

「陛下……失礼いたしました。リケルメ王からの贈り物ですよ、さすがというべきか、もう良質な物ばかりで……!」

 アローロにいた頃からのリード付の侍女であるルリが、嬉しそうにその声を弾ませる。

 確かに、リードもちらと自分に近い場所にあった箱を開けてみたが、中からは美しく輝く宝石を使った装飾品が出てきた。

 すぐさま閉じようとしたが、カードも一緒に入っていることに気付き、手を伸ばす。

『愛しいリードへ 少し早いが誕生祝いだ。返礼は絨毯にくるまったお前でいいぞ。また会える日を楽しみにしている』

「絨毯……?」

 リードが隣にいたルリへカードを渡せば、ルリが首を傾げた。

「クレオパトラじゃないんだから……」

 昔、寝物語としてリケルメに話した古代の王国の女王の話だ。

 自らの美貌を利用し、時の権力者に近づくため、一糸まとわぬ自身の体を絨毯に包ませ相手に贈ったという。

 リケルメらしいエスプリの効いたメッセージに、リードの頬も緩む。

 だが、すぐにはたとして目の前の贈り物へと目を向ける。

「これ……どうしよう……」

 ラウルに、なんと説明すればよいのだろう。

 アローロの資金力を見せつけるかのような品々は、ラウルにとっては面白くないものだろう。

「とりあえず、明日時間があるときに、二人で整理致しましょう。ラウル殿下には、いつも通り贈り物が届いたとだけ伝えれば大丈夫かと」

 リードの心境が伝わったのか、ルリが気遣うように声をかけてくれる。

「そ、そうだよな。ラウルだって、わざわざ見に来たりはしないよな」

 見られる前に、早々に片づけてしまおう。

 そう思い、とりあえず食事をするために二人は部屋を出た。ところが。


「……アローロから、また何か届いたのか」

 寝室の扉を開けた瞬間、明らかに機嫌のよくないラウルの声が聞こえ、リードは内心ぎくりとした。

「あ、うん……。まあ、いつものことだよ」

 努めて、なんでもないことのようにリードは言う。

「そんなことより、レオノーラ様に例の手紙、送ってくれた?」

 早々に話を終わらせたかったこともあり、リードは朝方ラウルと話していた内容へと話題をかえる。

 ラウルは僅かに訝し気な顔をしたが、すぐにリードの問いに答えてくれた。

「ああ、明日には母上の元に届くんじゃないか。ただ、母上が引き受けてくれるとは思えないけどな」

「うーん……レオノーラ様が適任だと思うんだけどな」

ラウルの母であるレオノーラは、首都であるセレーノから少し離れた場所であるフエントの離宮で、今も生活を続けている。

 二人の婚礼の祭にはもちろん駆けつけてくれ、国王であるリオネルや、その側室であるエレナとも楽し気に話していたものの、一週間もしないうちにフエントへと帰っていってしまった。

 今回リードがレオノーラに依頼したかったのは、今度作られる予定の女子大学の学長の任だ。

 女学校を卒業した後、大学に進む女子の数が未だ増えないのは、年頃の女子が多くの男性に囲まれることに不安を感じる父母の声が強いからだ。

 そのため、女子が周囲の目を気にせず、学ぶことが出来る女子専用の教育機関が作られることになった。

 さらに、王妃であるレオノーラが学長を務めるとなれば、入学に興味を持つ女子も多くなるかもしれない。レオノーラ自身も様々な学問に精通しているため、女子教育には理解があるはずだ。そんなレオノーラなら、学生にもたくさんの事を教えることができるだろう。

 そういった考えもあり、ラウルから手紙を書いてもらったのだが、学長に就任すれば生活の基盤をフエントからセレーノへ移さねばならない。

 それを、レオノーラは望まないだろう、とラウルは始めから口にしていた。

「まあ……月が替わったあたりで二人で会いに行って話してみるか」

「あ、うん……ありがとう」

 リードが礼を言えば、ラウルが僅かに口元を綻ばさせた。

 喜怒哀楽を表に出すことが少ないラウルだが、リードの前では様々な表情を見せてくれる。巷では、冷たい美貌、と称されてはいる容姿も、微笑めばとても優しい顔になる。

 自分にだけに見せてくれるラウルのそんな顔が嬉しくて、リードもつられるように笑顔になる。

 視線が合い、ゆっくりと二人の唇が重ねられる。

 穏やかな幸せを感じながらリードは、静かにその瞳を閉じた。

 だからリードは、すっかり油断していた。

 あれだけの荷物が届けられたのだ。簡単にではあるが、中を確認した城の人間の口から、アローロから届いた贈り物の噂が聞こえてこぬはずがないことを。




 翌日の午後。外交部にまで乗り込んできたラウルの表情は、明らかに苛立ったものだった。

 あまりの迫力に、自分も付き添う、というシモンの申し出をやんわりと断る。

 どんなにラウルが憤怒を感じていたとしても、それで自分に対して手をあげるようなことは絶対にないとリードもわかっているからだ。

 仕事を早めに切り上げ、寝室へ二人で戻る。

 重厚な扉がぱたりと閉じられた途端、ラウルがその眦をつりあげた。

「……あの贈り物の量はなんだ」

 声を荒げることはなく、静かにラウルはリードへと問うた。とはいえ、その声色は地を這うように低い。

 その言葉に、リードの顔が引きつる。予想してはいたものの、ラウルの口ぶりからは既に実物を確認していることもわかった。

「ご、ごめん。その、別に隠したつもりはなかったんだ。確かに、いつもより量が多かったけど……」

 後ろめたさもあるため、リードにしては珍しく要領を得ない言い方になってしまった。

 そんなリードの言葉に、ますますラウルの眉間の皺が濃くなる。

「そんなことを聞いているんじゃない、どうして伯父上はあれだけの量を贈ってきたと聞いてるんだ!」

 さすがにラウルも我慢がならなかったのか、言い方は思った以上に強かった。

 普段なら、特に公務に係わる事であればラウルとの口論など日常茶飯事なのだが、今回ばかりはリードの中に後ろめたい気持ちもあるため強くは出られない。

 渋々、といった気持ちでリードはその口を開いた。

「それはその……誕生祝だから」

「……は?」

「さすがに早すぎるし、量が多いから俺も驚いたんだ。昔から、誕生日は色々なものを贈ってくれるんだけど、今回は数年分溜まっていたこともあって、あの量になったみたいで。だから、別に特別な理由があるってわけじゃ……」

 贈り物の中には、マリアンヌからの言伝も入っていた。

 リードがアローロから姿を消した後も、その誕生日の度にリケルメは贈り物を用意していた。そのため、今回は渡せなかった数年分のものが、全て含まれている、ということだった。

 下手に取り繕うよりは、真実を話した方がいいと思ったリードは、ありのままを伝えた。けれどラウルの反応は、リードが想像していたものとは違っていた。

 切れ長の瞳を見開き、信じられないものを見るような瞳でリードを見ているのだ。

「あの……ラウル?」

 さすがに心配になり、リードが口を開けば、被せるようにラウルが言った。

「誕生日が……近いのか?」

「え? あ……うん」

「いつだ?」

「えっと……」

 リードが、自分が産まれた日、誕生日をラウルへ伝える。

 同時に、頬が引きつって行く。もしかして、ラウルに自分の誕生日を伝えるのは、初めてではなかったかと。

 そして、そんなリードの予想は見事に当たってしまったようだ。

「なんで」

 ぽつりと、ラウルが零す。

「どうして、俺に言わなかった!」

 憤りを含んだ言葉に、リードは一瞬怯む。

 確か、昨年の誕生日には既にラウルの側近となっていたが、ちょうど週末が重なったこともあり、サンモルテの方で誕生祝をしてもらったのだ。

 オルテンシアに入国し、サンモルテで世話になるようになってから、誕生日はいつも教会の人々が祝ってくれた。

 アローロにいた頃のような豪勢な食事が振る舞われるわけではないが、皆に祝われ、とても温かい気持ちになったことを覚えている。

 それをラウルに説明すれば、ますますラウルの瞳が鋭くなる。

「そんな重大なことをなぜ黙っていた……!」

「いや、そんな大したことでも……」

 オルテンシアでも、国王と王妃の誕生日は国を挙げて祝われる。

 けれど、ラウルはまだ王太子であったし、リードも自ら自分の誕生日を伝えるような性格ではない。控えめ、というよりどちらかといえば無頓着なのだ。

 ラウルの方も聞いてくることがなかったため、リードも伝えなかった。

 伝えなかった、というより伝える機会がなかった、の方が正しい。

 隠すようなことでもないのだ、聞かれればリードだって答えていた。

「大したことじゃない!? 何を言ってるんだお前は!」

「だ、だって聞かれなかったし!」

 リードが咄嗟に口にした瞬間、鋭かったラウルの瞳が見開かれる。

 そして、ほんの一瞬、ラウルは傷ついたような顔をした。

 しまった、と思った時にはすでに遅かった。

 二人の間に、なんともいえない、気まずい空気が流れる。

 その夜から、ラウルの機嫌は周囲にもわかるほど、目に見えて悪くなってしまった。

 機嫌が悪いと言っても、別にリードの事を無視することはないし、用があればラウルの方から話しかけても来る。

 ただ、いつもより明らかにその口数は少なかった。

 そして、その状態は十数日経った今もなお、続いている。




 表情は見えないが、おそらく仏頂面のまま、ラウルは海を見つめているはずだ。

 ラウルの気持ちは分からなくもないが、さすがにそろそろ機嫌を直してはもらえないだろうか。

 せっかくだし、ラウルにも旅行を楽しんでもらいたい。

 そんな風に思いながら、リードが隣を見つめていれば、ようやくラウルがこちらを向いた。

 自分を見据える蒼い瞳に、少しばかりリードが怯めば、小さくため息をつかれた。

「業腹だ」

「へ?」

 やはり、まだ怒っているようだ。だけどいい加減、しつこくはないだろうかとリードは内心思ったが、それを言えば火に油を注ぐようなものだろう。

 この件に関しては、リードだって多少なりとも責任を感じていたため、とりあえず黙っておく。

「甲板になんて絶対出てやるものかと思っていたはずなのに、楽しそうなお前の顔を見ていると怒りがだんだん収まっていく……全く、腹立たしい」

 ラウルが、拗ねたように呟く。

 そんなラウルの様子に、思わずリードはくつくつと笑ってしまう。

「おい!」

「ご、ごめん。だけど、ラウルがもう怒ってなくてよかった。だって、せっかくの旅行なんだからさ」

 リードがそう言って微笑めば、ようやくラウルの眉間の皺が薄くなる。

 小さく微笑んだリードが自身の手をラウルの手のひらにそっと近付ければ、強く握り締められた。

「旅行じゃなくて、視察だろう」

 あ、機嫌が直った。

 リードがそう思うほどに、ラウルの声色はどことなく弾んでいるし、その表情も明るかった。

「まあそうなんだけど。でも、こんな機会滅多にないんだし、楽しもうよ」

「……そうだな」

 ラウルも、薄く微笑む。リードも、ラウルの手を強く握り返した。




 国土の多くを海に接しているオルテンシアは、たくさんの島も有している。

 人の手が入っていない、自然なまま残っている島もあるが、中には建国当初から貴族の領地となっているものもある。今二人が向かっている島も、その一つだ。

 王都・セレーノの港から船で三時間ほどかかる島、パラディソス島。

 よく晴れた日には城の上からも見えていたため、以前からリードも気になっており、一度足を運んでみたいと思っていた。

 今回はそういった意味でも、とても良い機会だった。

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