21・世界の恩恵
エリーをウィルに任せ、重たい身体を引きずるように階段をのぼるとメビウスは客室の扉に額をつけた。たった三日で体力が戻るはずもない。全力で動きまわれる時間は、自分で思っていたよりもずっと短かった。致命傷になっていてもおかしくない上半身の傷も、的確な処置とルシオラの万能薬を使っているとはいえ、激しく動けばいつ傷が開くとも知れない状態だ。騙し騙し身体を動かすのは、体力以外に気力も使う。自身の身体に気を使いながら戦うというのはこんなに疲れるものなのかと、メビウスは下を向いたまま小さく息を吐く。
「……ほんと、バレんの早すぎだぜ」
苦い笑いとともに愚痴をこぼすと額をはなし、扉を開ける。このまま、ベッドに倒れ込んでしまいたかった。
――が。
足を踏み入れた瞬間、ぞわりと肌が粟立つ感覚にも似た違和感が少年を包む。耳鳴りがして頭を振ると、代わりに耳朶に届いた声は聞き覚えのあるバリトンだった。
「夜の散歩は、楽しかったかね?」
「……な、んで、お前……」
驚愕に見開いた朱の瞳に映ったのは、長いコートに身を包んだ魔族の男だ。慌てて扉を開けようとするも、背後にはなにもなくなっている。背後どころか、部屋に入ったはずなのに壁も天井もなく、立ってはいるが、そこが床なのかどうかすらわからない。備え付けの家具だけが薄闇のなかで存在を主張しており、その他はただただ真っ黒な闇に閉ざされている。男は、ベッドの向こう側の椅子に腰かけていた。
「なに、話をしにきただけだ。疲れているのだろう? 貴様も座るといい」
ジェネラルの声が、ひどく近くで聞こえる。めまいのような揺れを感じてぐらりと身体が傾ぎ、咄嗟に頭を押さえる。ふんばろうとした足は自分の意思に逆らい、ちからがはいらない。気が付くと、すとんと椅子に座り、ベッドを挟んで男と向き合っていた。
「邪魔が入らないよう、貴様の部屋に少しだけ干渉させてもらった。この空間は魔界に近い。私の意思一つで、貴様の行動などどうとでもなることを覚えておけ」
「強引だな。ここまでして話したいことってのは、なんだよ?」
腕を組み、あくまでも強気な態度で見上げる。
「魔王さまの気配が出現したのに、放置しているのは何事かと思ってな。小娘は貴様に任せたはずだ」
「ソラちゃんには――!」
「焦るな。まだ手を出すときではない、と言ったはずだが。それに、あの娘になにかあればルシオラ・ウルズ・アーキファクトが黙ってはいないだろう。あの女も、小娘にかなりご執心の様子だ」
「……ルシオラ、が?」
聞き返してから、違和感に気付く。ジェネラルは、ルシオラの存在を知らないはずだ。ジェネラルは少年の言葉を聞き、ぎろりとねめつけた。
「あの女が貴様の後ろにいるというのは、やはり本当なのだな。先日の取引は、あの女の差し金か?」
「……ドクターだな。ああ、ルシオラが一緒なのは認める。でも、隠してたわけじゃねえし、交渉を持ち掛けたのはオレの意思だ。あいつは関係ねーし、このことは誰も知らねえ」
「なんの証拠もなく、その言葉を信じろと? あの女はブリュンヒルデの娘だ。私の、私たちの仇に一番近い存在だ。そしてそれは、あの女にも当てはまる。魔族は、母の仇だ」
嫌悪の光を乗せた黒の視線を跳ね返すほどに。
きっと睨み返した太陽の瞳に浮かぶのは、憤怒とほんのわずかな憐憫だった。
「証拠なんてねーから、信じろと言うしかねえな。ただ、これだけは言っておく。あいつは、ブリュンヒルデの仇なんか取りたいとこれっぽっちも思っちゃいねえ。子供に罪はねえ、ってよく言うけどな、そんなの言葉のうえだけさ。人間からも神族からも疎まれて、あいつはどこにも居場所がなかった。ブリュンヒルデは確かに母親だけどな、あいつを必要としたのはあの、封印の後始末だけだ。そんなことだけやらせておいて、なにが母親だよ」
「よく知っているな」
「
得物の柄を指でなぞりながら、メビウスはぽつりと言葉を落とす。
「そのちからの使い手に人間を選んだのも、あいつなりの思惑があるのかな」
「……なに?」
「いや、だってよ。利用してやるってんなら、自分で使ったほうが手っ取り早いだろ? それも、好きなように使い倒せる。人間に使わせるなんて、面倒じゃねえか?」
もちろん、彼がそのちからを手にしているのは、自分が封印の鍵だからだということは理解している。自衛のためのちからとして、ルシオラが渡したものだ。たとえ激動の
それは、じゅうぶんわかっているのだけれど。
ふと、疑問がわいてしまった。
自衛のためのちからと言えど。
使いこなせなければ意味がない。ブリュンヒルデのちからのすべてを剣に込めたのは、ルシオラにしては雑なやり方な気もする。使い切れないぶんは、自分の足しにしたほうがマシだと思える。
ブリュンヒルデがすべてを巻き込んだのは、仕返しなのではないかと嘯いたことがあったが。
もしかしたらルシオラも、残されたものとして、思うところがあったのかもしれない。
「なるほど。確かにそのほうが楽だろう。人間は短命なうえに魔力が少ない。適合者が死んだ場合、次にちからを扱えるものを探し出すのも手間だろうな」
ジェネラルの疑問がルシオラ自身から移ったのは良いものの、今更ながら、かなり綱渡りの会話をしてきたことにメビウスは気が付いた。無意識のうちに、
「で、話ってそれだけか? 悪いが、成れの果てについてはソラちゃんが万全じゃねえんだ。放置してたわけじゃねえ」
その言葉に、壮年の男はすっと目を細めてメビウスをつぶさに見る。
「……なんだよ?」
「先ほどからずっと、右肩をかばった動きをしている。足への体重のかけかたも不自然だ。貴様も本調子にはほど遠いのだろう? そんな調子で小娘を守り、魔王さまをどうにかできるとは思えんな」
「わかってんだったらわざわざ口出しにくんなよな。オレだって好きであんなのとやりあうわけじゃねーんだよ。だけどあれは――」
ソラちゃんに、関係のあるもんなんだろ。
拗ねたように横を向いて言ったメビウスに、ジェネラルは一言「そうだ」とはっきり返した。
「だったら、オレのやることは決まってる。大体な、お前がそんなこと言える立場かっての。前のときは、
痛烈な皮肉を吐いて、メビウスは口角を持ち上げる。
「だから、うまくやるさ。今回は二度目だし、ルシオラもいる。まったく対処法がないってわけじゃねえ」
「ふむ。あの魔女も一緒ならば、確かに前よりはマシかもしれんな」
「ジェネラル。オレも一つ聞きたい。魔界がからっぽって意味は、なんだ?」
笑みを消して問うた言葉に、ジェネラルが真意を測りかねて「どういう意味だ?」と聞き返す。
「オレは、魔王派の魔族なんてほとんどいないって意味のからっぽだと思ってた。それも、間違いだとは思っちゃいねえけど、文字どおり、言葉どおりの意味で魔界にはなにもないんじゃねーのか?」
一瞬、視線が交錯する。
「……なぜ、そう思う」
「隙間を抜けてきた魔族に会った。人間よりずっと貧相で、強大なちからもなにも持ってなかった。それなのに、オレが人間だから攻撃してきて、オレも魔族が攻撃してきたから応戦した。ただ、それだけなんだ。そいつもな、魔界にはなにもないって言ってたんだ」
しばしの間があった。壮年の男は、少年の肩から覗く剣の柄を見つめ、もとより低い声をさらに低くして、腹の底から響くような重たい口調で答えた。
「言葉どおりだ。魔界にはなにもないのだよ。仮にも、テラリウムは神界、人間界、魔界の三つで成り立っている。種族同士いがみ合ったとして、世界は繋がっていた。二千年前、ブリュンヒルデが一方的に魔界を封印という形で閉じ込め、世界という概念から切り離したことによって、魔界は世界の恩恵を受けられず、息絶える寸前なのだ」
「……だから、お前は」
「いつまで経っても現れない魔王さまに、幻滅するやつらがいるのは知っている。だからこそ、私は魔王さまを魔界の希望として、連れ帰りたいと望んだ。それだけだ」
――あの子は暴走がすぎたわよ。
いつかの、オオハシの言葉が胸に浮かぶ。
「ブリュンヒルデは、そこまでわかって」
「さてな。長々と喋りすぎた。貴様の身体にも障るだろう。もう、眠るといい」
メビウスの言葉を断ち切り、闇がうごめく。耳元で言葉が響く。咄嗟に立ち上がろうと、した。
「……な、話は、ま――」
――だ、と最後まで紡がれなかった声が途切れ、どさっと目の前のベッドに小柄な身体が沈む。一瞬先に意識が落ちたのだろう。眉を寄せた表情が眠気に抗った事実を示しているが、倒れ込んだまま静かな寝息を立てている。
ジェネラルは、眠りに落ちた少年を無表情に見おろした。
「……こうしてみると、ただの子供なのだがな」
だが、いまこの空間の中は、魔界並みの瘴気が漂っている。それでいて、なんの影響も受けていない。瘴気に慣れていると言ったが、これほど濃い瘴気が集まる場所など人間界にあるとは到底思えない。
ならば彼は、どうやって瘴気に慣れたのか。
いとも簡単に使う禁呪は、命を削りながら戦っているようにも見える。
ブリュンヒルデのちからを借りているとはいえ、勝ち目の見えない戦いにおいても折れない精神力は、子供故の無謀さからくるものか。
しかし、剣を合わせれば、彼が戦い慣れていることはすぐにわかった。
それでいて、交渉に出てくる大胆さも持ち合わせている。
なにかが、腑に落ちない。
メビウスの少年然とした外見と、年齢にそぐわない瘴気の慣れ方や戦い方はあまりにもちぐはぐで、得体が知れなかった。
あからさまに、人間としておかしいわけではない。瘴気については体質かもしれない。戦いにおいて、天賦の才があるだけかもしれない。そんな言い訳が効くぶん――余計に引っかかるのだ。
無防備に晒している細い首を掴んで少しちからを込めれば、あっけなく折れるだろう。
それどころか、寝息を立てているベッドに顔を押し付けてやるだけで、簡単に殺せるだろう。
人間など、その程度の脆弱ないきものだとジェネラルは知っている。長い時間が過ぎたとて、短い生と身体の弱さはほとんど変わっていない。
ルシオラという、神族に劣らぬともしれない魔女が少年の背後にいると知って、彼の返答次第では始末するのもやむなしと考えていた。
メビウスの忌々しいほど真っ直ぐな気質は、嫌いではない。嫌いではないが、決して相容れないことだけははっきりしている。どうせいつかは相まみえるのだ。ならば、いまここで芽を潰しておいたとして――。
だが、それ以上に利用価値がある。
「……小娘に免じて、いまはまだ生かしておいてやる」
呟きはまるで、自身への言い訳だった。その言葉を残し、男の姿は黒い空間とともにかき消える。
「……ぅ……」
小さく呻いて、メビウスはうっすら目を開いた。ここ数日のうちに見慣れた窓から入ってくる朝日が眩しくも心地良く、身体を丸めてもう一度瞳を閉じようとし――じん、と頭を締め付けるような鈍い痛みを感じて二度寝をやめた。
寝起きの頭はもやがかかっているようで、どうにもぼおっとしている。起き上がるのも億劫で、しばしのあいだそのまま寝転がっていた。
「……オレ、いつ戻ってきたんだっけ」
ベッドに身体を沈めたまま、ひとりごちる。本調子とは程遠い気だるさが全身を苛んでいた。しかし、疑問を言葉に出したことで、もやが少しずつ晴れていく。
部屋の、扉を開けたあと。
――夜中の散歩は、楽しかったかね?
聞き間違えるはずもないバリトンが、脳内でたずねる。
「――ッ!!」
一気に昨夜の記憶がよみがえり、がばっと上半身を起こす。荒い息をついてきょろきょろと辺りを見回し、剣を背負ったままの格好に気が付いた。いつの間にか、ベッドに倒れ込んで眠っていたようだ。
否。
眠らされたのだ。
「……ち、くしょ……ッ」
呟いて、ベッドを殴りつける。
「あいつ、好き勝手しやがって」
いらいらと頭を掻いて、メビウスは憤りを吐き出す。終始、ペースを掴まれっぱなしだった。
だが、それでも。
魔界はからっぽ、という言葉の謎は解けた。同時に、隙間があれば魔界から逃げ出してくる魔族がいる理由もわかった。
「……オレが、封印を、鍵の役目を、放棄すれば……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐ。このまま断絶された状態が続けば、いずれ人間界、はては神界にも影響が及ぶのではないかと、テラリウムという世界そのものが壊れてしまうのではないかと。恐ろしい確信にも似た予感が、脳裏を
種族が衝突しあうことも、世界には
種族が愛しみあうことも、世界には
ブリュンヒルデには――罪などなく。
一方的に大罪人とされ、なにも聞き入れられず、心を殺した彼女が罰を利用して本当に仕掛けたことは。
じわじわと背筋を這いあがってくる悪寒に飲み込まれそうで、メビウスはぶるぶると頭を振った。これはただの想像でしかない。それも――飛び切り悪趣味な想像だ。
大きく息を吐いて、思考を強引に止める。これ以上、想像に付き合っているひまはないと、何度も自分に言い聞かせる。
そうだ。
「……ソラちゃん」
ジェネラルが、本当になにもしていないとは限らない。メビウスはふらりとベッドからおりると、いつもの笑みを貼り付けることすら忘れて隣の部屋の扉を叩いた。
「メビウス……?」
案の定、扉は簡単に開いて、空色の少女がきょとんと見上げている。治療のために少女と距離を置いていたのにも構わず、メビウスはソラの華奢な身体を抱きしめていた。
「良かった。ソラちゃん……」
「メビウス、凄い汗。治療の時間はまだだけど、苦しいの?」
「いや、大丈夫。ちょっと、ソラちゃんの顔が見たかっただけ」
「離れたほうが、見えると思うけど」
「うん、知ってる。でも、ちょっとだけ、このままでいさせて」
言いながら膝から崩れ落ちるメビウスに引っ張られて、ソラもなし崩し的に座り込む。
「……メビウス?」
「君は、オレが守る。これだけは、誰にも譲れない。オレのすべてをかけて、守ってみせる」
華奢な身体を抱きしめて、腕の中に確かなソラの体温を感じながら。
ルシオラに、安い誓いと一笑に付された本気の想い。
それすら、口に出して確認せねば、決意が揺らぎそうだった。
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