8・おひめさま

「……なんか、すっげー疲れた」


 展望デッキの端でだらりと手すりに両腕を乗せて投げ出しながら、ひとりごちる。眼下に広がる、蒸気にけぶった街並みをぼんやりと眺めて、メビウスはしばらくの間そうしていた。

 エリーを捜して一悶着あったが、疲れるほど身体は動かしていない。疲れたのはむしろ、精神のほうだ。垣間見た人間の闇と、エリーの思い。エリーに明かしてしまった、本当の理由。


「エリーは……いずれ気付くと思ってたんだよな……」


 まるで弁解するように、小さく口にした。騒がしいこの街も見上げる時計盤よりも高く、地平線を見渡せるこの場所では風の音しか届かない。頬をくすぐる色素の薄い金髪をそのままに、彼はそっと息を吐き出した。


 そんな場所で。

 にゃあ、と和やかな鳴き声が聞こえ、メビウスは視線を落とした。黒猫が一匹、網目状の金属の上をしなやかな足取りでこちらへ歩いてくる。猫はそのまま彼の足もとにたどり着くと、ごろごろと喉を鳴らしながらするりと身体をすりつけた。柔らかく光沢のある毛並みはとても気持ちがよく、メビウスはしゃがみ込んで黒猫と向き合う。


「お前、迷子か?」


 メビウスの問いかけに、猫は座ってきょとんと首を傾げた。まるで言葉がわかっているかのような仕草に、少年は思わず顔をほころばせて黒猫に手を伸ばす。最初はされるがままに喉を撫でられていたが、カツン、と足音が聞こえたところで豹変し、触れていた手の甲を引っ搔いた。


「ありゃ。機嫌損ねちゃったかな」


 言いながら、立ち上がる。黒猫は彼に背を向けて、足音の主にまとわりついた。


「まったく。オルちゃんったら、こんなところにいたんですの?」

「君の猫?」


 猫を抱き上げて顔を上げたのは、まだあどけなさを残す少女だった。エリーやソラと変わらない年頃だろう。豪華ではないが一見して仕立てが良いとわかる膝丈のドレスをまとって黒猫を腕に抱く姿は、武骨な金属でできている展望デッキにはどうにも不似合いである。


「ええ。この子ったら獲物を見つけると、すぐ探しに行ってしまうので苦労してますの」

「……獲物? 鳥でもいたのかな」


 メビウスの答えには口を閉ざし、代わりに少女は意味深な笑みを浮かべた。


「こんなところで、誰とおしゃべりしていたんですの?」

「ひとりごと」


 みじかく返してから、メビウスは隣で笑う少女に違和感を覚えた。のぼりの昇降機は、彼が乗ったものが最終便だったはずだ。この少女は一体どこで、彼の呟きを聞いていたのだろう。


「君……展望台のほうにいたのかな。昇降機の裏側の」


 思わず向き直り、少女を眺めた。メビウスよりも色の濃い、たっぷりとしたハニーブロンドを風に遊ばせ、快晴の空を映した鮮やかなスカイブルーの瞳。整った顔立ちとその色合いは、あまりにも見慣れすぎたを彷彿とさせ、メビウスは息を呑む。

 硬い声に反比例するように、少女はどこまでも柔らかく微笑む。美しすぎる笑みに、背筋がぞくりとした。ルシオラの妖艶な笑みとも、ソラの神秘的な微笑みとも違う。整い過ぎているが故の、異質な美しさ。だからこそ、命の感じられない、作り物めいた表情。


「いいえ。ずっとから見ていましたわ。だってあなた、あたしの初めてのお仕事台無しにしちゃったんですもの」


 簡単なお使いすらできないと思われたら、どうしてくれますの?


 クスクスと笑いながら、少女はデッキの外へ手を突き出した。ずず、ず、とどす黒い瘴気のかたまりが現れ、彼女は白い手をためらいなくその中へと突っ込んだ。


「だから、あなたに責任取って頂こうって決めましたの」

「お前……魔族、か?」


 ジェネラルよりも、ドクターすらも上回る圧倒的な瘴気の量。いまのいままで、瘴気を微塵も感じさせなかった少女は、溢れんばかりの負のオーラを漲らせていた。こんなものを街中でまき散らされたら、大変なことになる。

 少女はメビウスの問いに、とってつけたような笑みを張りつかせた。瘴気のかたまりからゆっくりと手を引き抜き、黒猫は腕から飛びおりる。


「魔族だなんて。あたしは、。一歩進化した、これから世界を率いていくただ一人の存在」


 引き抜いた手には、少女の背丈よりも大きな鎌が握られていた。鎌の柄を肩に預け、左手でドレスの端をちょんと摘まむと優雅に一礼する。


「あたしは、アイン。みんなからは、って呼ばれてるわ。あなたは、そんなあたしのお使いを邪魔したの。万死に値すると思わない?」

「いや、邪魔したって、なにを」


 正直に、わからなかった。エリーを捜して一悶着あったが、それだけだ。

 それ、だけ――。


「……お前、ドクターの」


 答えは言葉ではなかった。怒りのこもった斬撃が、ぐるりと一閃する。だがメビウスも空気が動いた瞬間、手すりに足をかけると大きく跳躍していた。アインの攻撃を軽々と飛び越え、巨大化して飛びかかってきた黒猫の攻撃を抜き放った剣でいなす。デッキと塔内部に繋がる扉の前に陣取り、体勢を崩したままの双頭の黒猫を蹴り上げると外に向かって思い切り殴り飛ばした。猫は、瘴気を蝙蝠の羽のような形に変化させて宙に留まったアインの細い身体にぶち当たり、一緒くたに落ちていく。


「初めての、お使いね」


 グレッグの用意した子供を、ドクターへ引き渡す。恐らくはそれを邪魔したことを怒っているのだろうが、そんなことはもう問題ではない。いまはあれを、どうやり過ごすかが最大の問題だ。

 この狭さでは、大きな得物は振り回せない。星屑で牽制することはできるだろうが、いかんせん自分の動きも制限されてしまう。アインのように空が飛べたら話は別だが、できないことをどうこう言ってもなにも進展しない。

 だから、まずやるべきことは。


「おっちゃん! 早く下に降りて、警備員と一緒に広場にいる人を避難させろ!」

「わかった、君も早く乗って!」


 手招きする運転士オペレーターに背を向けて、メビウスは展望テラスに繋がる扉の前に立ちはだかる。


「オレは、あいつらを足止めする。魔獣組合ギルドに、メビウスが応戦中、って伝えればわかる」


 魔獣組合ギルドの名前を出すと、男は納得したようだった。それだけ、この街では魔獣組合ギルドは信頼されているのだ。すぐに昇降機のぶ厚い扉を閉めると、下への操作を始める。キリキリと軋んだ音を立てながら、箱がゆっくりと降下を始めたのをちらりと確認し、メビウスは朱の瞳を空へと走らせる。

 ひゅっと風を切り裂く、鋭い音。遠心力に任せて振るわれた大鎌の一撃を、ギリギリで受け止める。ちからのせめぎ合いのなかで、アインは余裕で口を開いた。


「あら、一緒に下に降りなかったのね」

「そうしたら、箱ごとぶち抜くつもりだったろ?」

「なあんだ、わかってたの」

「オレでもそうする」


 にっと口の端を持ち上げて、少年は刃を振り抜いた。力負けして少女は簡単に吹き飛ばされる。初めての、と自分で言ったとおり。アインは瘴気の量こそ圧倒的だが、使い方も戦い方もまだ未熟なままだ。それでも、空を自由に飛び回れるというのは、この場所においてあまりに大きなアドバンテージになる。


 なんとか、塔の中に誘い込めれば。

 足場さえどうにかしてしまえば。得物ブリュンヒルデを振るう場所を確保できれば。

 どうすればいい。

 どうしたら、中に引きずり込める?

 考えろ……!

 考えろ……ッ!!


 仕掛けてくる少女の刃を受け流しながら、メビウスは思考をフル回転させる。巨大な刃を弾くたび、金属のこすれる耳障りな音とほとばしる瘴気の残り香が、ちりちりと肌を焼く。痛み自体は大したものではなくとも、不協和音も重なるといまいちうまく集中できず、焦りだけが募っていく。


 何度か、一進一退の攻防を繰り返したあと。

 背後で、軋んだ音を立てていたワイヤーが止まった。運転士オペレーターはどうやら地上に降りることができたらしい。直後、塔内部の歯車が動き、警報のように鐘が打ち鳴らされた。時間をしらせる鐘とは明らかに違う激しいリズムで鳴り響く鐘の音に、広場に残っていた人間はなにごとかと塔を見上げつつも散り散りに逃げていく。デア・マキナの住人ならば、いまの鐘の音が危険をしらせるものだと知っているからだ。


 とりあえず、無関係な人間を非難させることには成功したようだとメビウスが表情に安堵をにじませたときだった。

 少年の、太陽の光を宿した双眸に。

 人気の消えた広場に駆け込んでくる白い影が一瞬、飛び込んでくる。

 ――なんで。

 ソラちゃん……!


 動揺が顔に表れたのだろう。少女は無邪気に笑うと、大鎌をちから任せに振り抜いた。ソラに気を取られ、注意が散漫になっていたメビウスは間一髪で刃を弾きはしたが、中途半端に受け止めたためちからを殺しきれずに時計塔の壁に背中から叩きつけられる。瞬間、肺の中の空気が一気に吐き出され、息が詰まった。


「オルちゃん。それ、

「お前が腹立ててるのはオレにだろ! ソラちゃんは関係ねえ!」

「そうよ、あなたに怒っているの。だから、ね?」


 歌うように告げて、アインは真っ直ぐにソラのもとへと向かう。「待て!」と焦って飛び出そうとしたメビウスの前に立ちはだかったのは、先ほど落ちていった双頭の猫だった。獅子程の体躯にくわえ、猫にもまた黒い羽が生えているのを見、メビウスは舌打ちをする。

 だが、いまなら名前を聞かれる心配もない。まず一匹――と少年が、右手に構える武器の真のちからを引き出すためにみじかな詠唱を紡ごうとしたとき、オルトロスは彼の足もとに爪を立てて飛び込んだ。メビウスは慌てて飛びすさる。


 金属が引き裂かれる、かん高くて耳障りな音。

 ぞわりと背骨を冷たく駆けあがる、浮遊感。


「なッ――」


 壊していいわ、とは。

 メビウスを放置して、猫は主人のもとへと戻っていく。自分の役目を果たしたからだ。

 崩壊を始めたら止まらない。ただでさえ、重力を無視した場所にとってつけたようなデッキだったのだ。破壊され、落ちていく金属に連鎖するように、がらがらと展望デッキを構成していた金属が重力に従って落ちていく。金属よりは身体が軽いため、瓦礫の雨には当たらずに済んだが足場が壊されたのだ。楽観視できるような状況ではまったくない。


 ふわりと、内臓が持ち上げられるような気持ち悪さを感じ。


 自由落下が、始まる。

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