第二章・荒野と天使と世界の本棚

プロローグ

 そこはまるで、巨大な本棚とも言えるような景色だった。

 ルシオラの拠点ごと転移し、小さな集落を抜けて広がったのはどこまでも続く荒野だ。乾いた地面とわずかな緑の点在する大地を進むと、突然それは現れる。

 眼下に存在するに、ソラは感嘆の声をあげて走り寄った。


「ソラちゃん! 危ないよ!」


 慌てて金髪の少年が、空色の少女の手をつかんで引きとめる。少女の足もとにはもう、地面がなかったからだ。

 荒野に刻まれた深い谷。赤茶けた岩肌に色とりどりの扉がくっついていなければ、そこに谷があることに気が付かず、足が空を切っていたかもしれない。

 吹き上げる風に青を反射する銀髪を遊ばせながら、ソラはゆっくりと覗き込んだ。大地を切り裂くように走る渓谷。切り立った崖に、嘘みたいに張り付いている無数の扉。よく目を凝らしてみると、扉の横や上に煙突にも見えるものが飛び出ていたり、下には道――というよりは足場と言った方が良さそうだ――と呼べそうな細い段差がついているのが見て取れた。

 つまり、ここは。


「……これは、街?」


 ぱちぱちと夜空色の大きな瞳を瞬かせて、少女は問う。


「そう。ここが目的地。世界の本棚だ」


 一段と強く吹き上げた谷風に、大胆にドレスの裾をはためかせながらルシオラは微笑んだ。






「……世界の本棚?」


 最果てに戻ったルシオラの拠点で、少し早めの夕食を食べたあと。

 次の目的地を淡々と告げた少年に対し、訝しげに目を細めてウィルが言った。ああ、とメビウスはつまらなさそうな顔で答える。


「あそこはもう散々調べ尽くされた遺跡でしょう。今更、なにが出てくるって言うんです?」

「あれ? ……そっか、お前とは行ったことなかったか」


 一瞬驚いたように青年の顔を見つめたメビウスだったが、すぐに納得した顔で首を縦に振った。


「あの遺跡には、続きがあるんだよ」

「はあ?」


 ますます訳がわからないと眉をひそめたウィル。おぼつかない足取りで食後のコーヒーを運んできたソラに笑顔を向けて、メビウスは話を再開する。


「あそこは、遺物や発掘されたものから判断して神界に帰らなかった神族が最後まで隠れ住んだ地とされてるだろ? それは間違っちゃいないし、確かに調べつくされた枯れた遺跡だよ。表向きはな」

「……表向き」


 見た目がおもしれーから本の街とか言われてるけどな、と少年は続けて湯気を立てるコーヒーを一口飲んで……難しい顔をするとカップの中にある黒い液体をじっと見つめた。


「……うむ。これがソラちゃんの味」


 呟いて、コーヒーカップを静かにテーブルに置く。少年の脳裏をよぎったのは、ラゼルでアンナの作ったシチューについて話に花を咲かせていたソラの姿だ。一瞬、切なげに視線をさまよわせたメビウスだったが、なにごともなかったかのように遺跡について話し始めた。

 ちなみにウィルはそんな少年の様子を見、なにかを察したのか一度手に取ったコーヒーカップは口を付けずに脇に置いてある。


「あそこはな、見た目だけじゃなく、本当に本の街なんだ。本というか、記録の街、だな。あの街ができてからいまこの一瞬まで、すべての事柄が街に隠された本の中に記録され続けているんだぜ」

「そんな……。そんなことが可能だとは思えません。第一、そんな記録媒体があるのならとっくに見つかっているはずです」

「だから、表向き、なのさ」


 ふいに加わった艶やかな声に、ウィルは弾かれたように振り向いた。そこに立っているのはもちろんルシオラだ。手にはコーヒーカップを持ち、後ろにはソラが控えていた。少女が椅子に座るのを確認するといつものように不敵に弧をえがく形の良い唇を開き、彼女が少年のあとを継ぐ。


「その本に触れられるのは、神族だけだ。人も魔族も触れられん。私以外には見つけることすらできんだろうな」

「えーと、オレにも見えます」


 控えめに手をあげて少年が主張する。それを冷ややかに見つめ、ルシオラが言い放った。


「お前の場合は、ブリュンヒルデの影響が出ているだけだろう。大体、悪いほうに影響が多いことを忘れたか」


 しゅんとして手を引っ込め腕を組むと、横を向いてぼやく。


「そーなんだよなあ。神族って根に持ちすぎじゃねえ? つーかオレは直接関係ないし」

「……悪いほう、ってなに?」

「ブリュンヒルデは神族に嫌われてっから。そのちからを使ってるオレにもあんまりいい顔はしねーってこと」


 ソラはわかったようなわからなかったような曖昧な表情で頷いたが、今度はウィルが真剣な顔で食いつく。


「しかし、それならルシオラさんは」

「私なら大丈夫だ。子供に罪はない――そういうことだな」

「……理不尽」


 オレだって好きで使ってんじゃねーんだけど、とぼそりと言い、がしがしと頭をかいた。ただでさえ、好き勝手飛び跳ねている金髪が余計にあちらこちらそっぽを向く。


「ま、ともかくだ。あそこには、すべてが記録されている。だから、ソラちゃんの過去についてもなにか情報があるんじゃねえかと思うんだ。そのほかにも、色々、な?」


 ちらりとルシオラへ視線を走らせてから、ぐるりとテーブルに着く全員を見やる。随分と含みのある言い方だが、第一の目的はソラについてなのだろう。太陽の色によく似た朱の瞳は、少女を見据えて止まっている。少年の瞳から逃れるように、ソラは大きな目を伏せた。細い指は、自分の前に置かれたコーヒーカップをいじっている。


「わたしの、過去……」


 口に出してみても、なにも感じない。過去という言葉にいまいちピンとこないのだ。いくら自分の記憶を探ってみても、メビウスに出会う以前の思い出はカップの中の液体のように黒く塗りつぶされてしまっている。それはどこか、漆黒のしねないいきものを連想させて少女はきゅっと目を閉じた。


「怖かったら無理しなくていいよ。どーせほかにも聞きたいことはたくさんある。遺跡に行って無駄になるってことはねえさ」


 顔を上げないままのソラを見て、メビウスはへらりと言った。その言葉に、ソラはふるふると首を横に振る。


「大丈夫。わたしは、自分を思い出すって決めたから」


 顔を上げ、メビウスの瞳を凛と見つめ返した。少年とは対極を成す夜空色の瞳には、ほんの少しの迷いも浮かんでいたのだが、朱の瞳が柔らかく細められると迷いの色はふっと消えた。


「そっか。じゃ、決まりだな」

「……あ」


 破顔したメビウスの横でルシオラが頷きながらコーヒーカップを優雅に口元に運ぶのを見、ウィルが思わず声をあげたが時すでに遅し。猫舌の魔女は、ちょうどほどよく冷めた中身を一口含んだところだった。メビウスの表情が笑ったまま凍り付く。ルシオラの白い喉がこくりと動いた。


「……ふむ。鼻に抜ける香りは素晴らしい。だが、非常に興味深い味だ。雑味もエグみもなにも感じない。実にクリーンだ」


 ルシオラは感想を口にしながら、液体をじっくりと観察する。彼女にかかっては、も好奇心の対象になるらしい。カップの中身とそれを淹れた少女に交互に視線を飛ばしながら、ルシオラはもう一度コーヒーカップを傾けた。


「……やはり、面白い。いくら味わっても味がしないな。だがお湯かと言われればそうでもない。……ん? 皆、なにを見ている?」


 いつの間にか三人の視線が集まっていたことを知り、魔女は不思議そうに首を傾げた。


「……ルシオラ。それ」

「ああ。こういう味だと理解してしまえば飲めないものではない。しかし、なぜこうなったのかは非常に興味があるな。ソラは私が言うとおりに淹れただけだぞ? どの過程で味が抜け落ちたのか、どうすれば再現できるのか、むしろ興味を持つなというほうが難しい。ソラ」


 名を呼ばれ、少女はびくっと肩を跳ねさせる。コーヒーカップを持ったままルシオラは立ち上がると、ソラの肩に手を置いて「ついてこい」と有無を言わせぬ口調で言った。


「もう一度淹れてみろ。どうしたらこうなるのか実験したい」

「え、あ……」


 椅子から立ち上がる時間ももどかしいと言わんばかりに腕を掴まれて、ほぼ引きずられるようにルシオラの後ろを歩きながら振り返り、唖然と成り行きを見守っていた少年を見やる。

 その大きな瞳は、潤んでいるようにも見えたのだけど。

 メビウスはふるふると首を横に振る。耳には届かなかったが、彼の口は「ごめん」と動いたようにソラには見えた。

 二人の姿がダイニングから消えたあと。メビウスはふーっと大きく息を吐き出して「ごめんな」と口にした。


「……ルシオラがあーなったら止められねーんだ。あいつの好奇心を満たしてやってくれ」

「坊ちゃん。はルシオラさんの興味をあそこまでそそるほど恐ろしい味なんですか」

「さあ? 知りたかったら飲めばいいだろ。そもそも、ソラちゃんがせっかく淹れてくれたコーヒーを一口も飲まないとかもったいない」


 じとっと睨み上げると、メビウスは立ち上がった。


「じゃあ、オレも部屋に戻るかな。あそこに行くなら体力温存しとかねーと」


 言いながら、一人座ったままカップを見つめて飲むか飲まないか葛藤しているウィルの肩にぽんと手を置いて身をかがめる。


「大丈夫。毒じゃねーから」

「……ちょっ、坊ちゃん!」


 軽い口調とは裏腹な、真剣な声音での耳打ち。

 ぎょっとして立ち上がるも、少年は片手をひらひら振ると三つ編みを揺らして部屋から出て行ってしまう。

 残された青年はすとんと椅子に腰をおとすと、全身全霊でため息をついた。

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