26話 天然ギャルにキスされた。

 504号室に、ピピピ、とくぐもった電子音が響いた。

 モゾモゾ、と布団の中で腕を動かし、腋に挟んだ体温計を取り出す赤霧さん。恥ずかしそうに渡してきたソレを受け取り、僕は表示された体温を確認する。


「38度ちょうど、ですか……結構ありましたね」


「うん、自分でもビックリっス……」

 

 ベッドに横になったことで、朧気だった意識がハッキリしてきたのだろう。赤霧さんの口調も元通りになっていた。

 タメ口の赤霧さんというのも、新鮮味があっていいけれど。

 さておき。


「疲れが溜まっていたんですね。すみません、僕の食事提供を毎日していたから」


「それは関係ないっスよ。私が好きでやってたことなんスから」


「いいえ」

 

 体温計と一緒に薬箱の中から持ってきた『冷えピタピタ』を赤霧さんの額に貼りながら、僕は頑として譲らぬ口調で続ける。


「好きなことでも疲労は蓄積されます。つまりは、僕のせいということになるんです」


「ちがっ、ちがうっスよ。ミッチーのせいじゃないっスよ」


「僕のせいです」


「ちがう!」


「ここは僕のせいにさせてください。じゃないと、赤霧さんの看病ができない」


「うぐ」


「それとも、僕が赤霧さんの看病をしちゃダメですか?」

 

 そう言うと、赤霧さんは「うぐぐ」とさらに言葉を詰まらせ、ジト目で僕をにらんできた。


「その言い方は、ズルイっスよ……」


「赤霧さんは意外と頑固ですから。こうでもしないと聞き入れてくれないと思って」


「……じゃあ、ミッチーのせいにする」


「はい。されました」

 

 布団をかけ直し、僕はベッド脇に立ち上がった。

 女の子らしい、かわいい小物や化粧品などで埋め尽くされたリビングを出て、台所に向かう。

 壊滅的料理スキルの持ち主である僕が料理を作るわけにはいかないので、冷蔵庫からミネラルウォーターと、ウサギさんにカットされたリンゴを取り出す。

 このリンゴはきっと、僕の食事提供でおかずに添えようとしていたものなのだろう。

 胸中で申し訳なさを倍増させつつ、赤霧さんの下に戻る。


「赤霧さん、お水です。それと、リンゴがあったので拝借しました。食べられそうですか?」


「いまはちょっといいっスかね……」


「わかりました。それじゃあ、水だけでも」


「うん、ありがとう」

 

 赤霧さんの背中に手を添えて、上体起こしをサポートする。

 触れた背中も湯たんぽのように熱い。いまはとにかく熱を下げることが先決だ。

 水を飲んだのを確認したあと、背後のテーブルにペットボトルを置き、再度赤霧さんの身体を寝かせようとする。

 すると。赤霧さんが「あの」とこちらの様子を窺うようにして口を開いた。


「汗かいちゃったから、シャワー浴びたいんスけど」


「シャワーはさすがに許可できませんね」


「でも、ベタベタして気持ち悪い……あ、それじゃあ」


「服だけでも着替えちゃいますか? それなら、僕は一旦外に出ますけど」


「ううん。洗面所にハンドタオルと風呂桶があるから、持って来てもらってもいいっスか? 桶にはぬるめのお湯を入れてほしいっス」


「ああ、なるほど。わかりました」

 

 言うが早いか、僕は洗面所に向かい、ハンドタオルと風呂桶を持って来た。桶の中にはお湯がたんまりと入っている。

 濡らしたタオルで身体を拭く。お風呂に入れないときの常套手段だ。

 ハンドタオルをお湯に浸け、程よく絞る。すこし水気を残すのがポイントだ。


「はい、どうぞ。赤霧さん」

 

 濡れたタオルを手渡そうとすると、赤霧さんは不意にこちらに背を向けて。


「ふ、拭いてほしいっス……」

 

 と、上に着ているTシャツをガバッ、と一息で脱いだのだった。

 神のいかずちをも越える神速で視線をそらし、僕は困惑気味に口を開く。

 それでも、赤霧さんの火照ったなまめかしい背中と、脇の隙間から覗く豊満な胸の横シルエットは、僕の網膜に焼き付いてしまっていた。

 赤霧さんって、意外と着やせするタイプ……。

 いやいや、そうじゃなくてッ!!


「な、なななな、なにをしてるんですかー!! なにを……え、その、なにをー!?」


「だ、だって、背中とかは自分じゃ拭けないっスから……ひとにやってもらったほうがいいかなって、思って……」

 

 尻すぼみに声を小さくしていく赤霧さん。

 その耳は、熱のせいではない、ひどく真っ赤に茹で上がっていた。


「だ、だからって急に脱ぐだなんて……ああ、そうだ! 背中だったらこう、乾布摩擦をするお爺さんみたいにタオルを伸ばして――」


「……看病するって言った」


「うぐ」


「看病してくれるって言った!」

 

 拗ねた子どものように訴え、赤霧さんがこちらを振り返った。

 僕はスパン、と自分の右頬を殴ることで強引に視線をそらし、狼狽気味に返す。


「い、言いましたけど……女性の肌に触るだなんて、そんな……握手とは訳がちがいますし」


「く、くしゅん! あー、このままだと寒くて、もっと悪化しちゃいそうっスねー。あーあ、誰かが早く背中を拭いてくれればなー」


「うぐぐ!」

 

 チラチラ、と僕の視界の端に顔を覗かせる赤霧さん。

 くしゃみが嘘くさいことこの上なかったけれど……仕方ない。

 看病すると言ったのは、たしかにこの僕なのだから。


「……わ、わかりました。で、では、背中をこちらに」


「は、はいっス」

 

 覚悟を決めて、あらためて赤霧さんの背中と真正面から向き合う。

 タオルの水気を再確認し、シミひとつない背中にそっと押し当てた。


「ひぅ」


「なはぁッ!? ど、どうしました僕なにか間違えましたかすみませんして土下座しますか!?」


「い、いや、大丈夫、ちょっと驚いただけっス……続けてください」


「そ、そうですか……それじゃあ」

 

 ぐっ、とわずかに力を込めて、赤霧さんの背中を拭いていく。

 弾力があって、けれど力を込めたらすぐにでも崩れてしまいそうな、そんな不思議な感触だ。

 腰のくびれ部分には、ほんのすこしのぜい肉が見られたけれど、それでも充分に細いほうだろう。


(これが、女性の肌なのか……)

 

 はじめての体験に感動しつつも、なんとか背中から腰にかけて拭き終わると、僕は一仕事終えたとばかりに大きく息をついた。


「お、終わりましたよ、赤霧さん」


「ど、どうもっス……あの、ついでに、なんスけど」


「『前もお願い』、だなんてラブコメ的なお願いは聞きませんからねッ!?」


「そんなえっちなこと言わないっスよ! そうじゃなくて……ここ、ここもやって?」

 

 そう言って、赤霧さんは左手で胸元を押さえつつ、右手でうなじの髪をかきあげた。

 人間のフェロモンは、耳の裏から背中にかけて発生すると言われている。

 だから、というわけではないのだろうけれど、赤霧さんがうなじを露呈させた瞬間、この部屋の濃度が一段階上がった気がした。


「ひとりだと、髪が邪魔して拭きにくいんスよ……だ、ダメっスか?」


「い、いえ、ここまできたらもうなんでも来いですよ!」

 

 息巻いて、タオルをお湯で絞り直し、眼前のうなじをやさしく拭いていく。

 背中のときよりも、赤霧さんの息遣いが間近に感じられる。

 汗と赤霧さんの匂いとが混ざり合って、僕の意識がこの部屋と同化していく。

 手折れてしまいそうな細い首をなぞるたび、赤霧さんがビクッ、と肩を震わせた。

 僕は、そんなどこか官能的な反応を前に、顔を真っ赤にしながらうつむいた。

 



 

 身体を拭き終わった赤霧さんが眠りに就いたのは、午後十二時を回った辺りだった。

 起こさないように温くなった冷えピタピタをそっと外し、額に手を当てる。倒れたときよりはだいぶ下がってきている。


「この様子なら心配ない、か……」

 

 それでも倒れてしまったのは事実なので、一度は病院に行かせないといけないけれど。

 ともあれ。これで一安心だ。

 新しい冷えピタピタを貼り、503号室に戻るため、僕は静かにベッド脇に立ち上がった。

 と。不意に。

 ギュッ、と赤霧さんの手が僕の服の裾を掴んだ。

 起こしてしまっただろうか? と寝顔を見やるも、まぶたは開いていなかった。寝息からするに、寝た振りをしている様子もない。どうやら無意識に裾を掴んでいるようだ。


(器用に掴んできたな)

 

 漫画のような掴み方に苦笑しつつ、僕はその場に屈み、赤霧さんの手をゆっくり解いていく。

 そのときだった。


「――お父さん」

 

 赤霧さんの口から、そんな一言がこぼれた。

 その声音は、溺れてしまいそうなほど涙にまみれていた。


「いかないで、お父さん……」


「――――」

 

 僕は。

 僕は、赤霧さんの手を、自分の手でギュッと握りなおした。

 すると。赤霧さんの表情がスッと安堵のソレに変わった。いつぞやのミツミのように。

 ミツミのときとちがうのは――僕の心情だ。


「……なんなんだ、僕は」

 

 気付いてしまった。

 赤霧さんを見ていると、庇護欲にも似た感情が湧き上がってくる。お弁当を作ってもらったときにも覚えた、原因不明のアレだ。

 

 その感情の正体に、いま、僕は気付いてしまったかもしれなかった。

 

 そもそも。どうして僕は、赤霧さんの安全を確認したがったのか?

 答えなんて、ひとつしかない。

 ひとつしか、あってはいけない。

 友達であるという認識と、友達ではありえないこの状況。

 その明らかな齟齬に、僕は葛藤を余儀なくされる。

 二律背反、自己矛盾。

 こんなに『近い』僕たちは、果たして――


「僕たち、友達ですよね……?」

 

 つぶやいた声に、リビングの無言が応えた。

 


     ◇

 


 翌朝。

 小鳥のさえずりと差し込む朝陽で、赤髪の天然ギャル――赤霧ナコが目を覚ますと、彼女は自分がなにかを握っていることに気付いた。

 視線を落とすと、自分の右手の先に、ボサボサ髪の少年――黒田ミツカゲの姿があった。

 ナコと手を繋いだまま、ベッド脇に顔を乗せて、くーくー、と小動物のように眠っている。


「……ずっと、付き添ってくれてたんだ」

 

 思わず頬が緩む。

 自分が寝たら帰ると思っていたのに、こんなサプライズはズルい。

 だから、やりがいがあるのだ。

 根幹の罪悪感を忘れるほどに。


「友達としてのお礼」

 

 そう言って、ナコはミツカゲの頬をなでると、そっと上半身を屈めて、その唇を――

 


     □

 


「ん、んん……」


「あ、起きたっスかー?」

 

 妙においしそうな匂いがしたかと思うと、そんな聴き慣れた声が耳朶じだを叩いた。

 朧気な意識に鞭打って、重たいまぶたを開けて辺りを見回す。

 目の前のテーブルに、子どもの大好物を詰め込んだような料理がズラッ、と並んでいた。

 対面には、いつもの笑顔を湛える赤霧さんの姿が。


「ちょうど朝ごはんできたところっスよー。ちょっとハリキリすぎた感はあるっスけど……まあ、昨日の晩ごはん分もかねて、ってことで!」


「あ、赤霧さん、熱はもういいんですか?」


 いつの間にかかけられていた毛布をどかしながら問うと、赤霧さんは二の腕に力こぶを込めて。


「モチのロンっスよ! ミッチーが看病してくれたおかげっス。ありがとー」

 

 にへら、とこちらまでうれしくなるような笑顔を見せる赤霧さん。

 朝陽に照らされたその肌は血色よく輝いている。嘘をついているわけではないようだ。


「よかった……安心しました」


「ふひひ。ほんとにありがとーっス。ささ、そんなお詫びも込めた朝ごはん、せっかくだから暖かいうちに召し上がってくださいなー」


「はい。それでは遠慮なく」

 

 そう言って、僕は姿勢をただし、赤霧さんと「いただきます」と声を合わせたのだった。

 およそ十二時間ぶりの食事に、全身がキタキター! と喜びの声をあげていた。それが美味なものとくればなおさらだ。

 小食なのに箸が止まらない。胃袋が裂けるまで食べられそうだ。

 なんて、そんなことを考えていたときだった。


「ミッチー」

 

 赤霧さんが食事をしながら、すこし真面目な口調で口を開いた。


「これから、食事は一緒にしないっスか? やっぱり、タッパーを洗う手間が面倒だし」


「え……」


「ダメっスかね?」

 

 赤霧さんの真っすぐな瞳が、戸惑う僕を射抜く。

 友達同士であることを主張するために、タッパーという言い訳を使ってきた。

 それを、取り除く。

 それはつまり、友達以上の関係になる、ということにほかならない。


「ミッチー、どうっスか?」

 

 ついには箸を置き、赤霧さんは僕の返事だけを待つ姿勢に入った。

 期待と不安が入り混じったその目を前に、僕は数十秒、沈黙の中で思考する。

 そして。意を決したようにゆっくりと茶碗と箸を置くと、自分の気持ちに従ってこう答えた。


「よ、よろしくお願いします」


「……ッ、ふひひ! うん、よろしくっス!」

 

 ホッと胸をなでおろした風に、笑顔で食事を再開する赤霧さん。

 

 こうして。

 明確に、けれど順当に、僕たちの不可侵条約は棄却されたのだった。

 



 

 余談。

 自宅に戻ったあと、顔を洗うために洗面所で鏡を見てみると、左頬に赤い虫刺されがあった。

 もう蚊が出てきたのだろうか? いや、それにしてはかゆくないし。

 ……虫刺され、だよね?

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