第1話 翠玉色の瞳

 

チチチチチッ


 蕾が膨らむ枝に、小さな鳥がとまっている。そのさえずりは耳に心地よく、ほのかに香る花の甘い香りが冬の間に固くなっていた心を解きほぐしていく。空から降り注ぐ日の光も穏やかで、名も無い小さな村の丸太造りの家々を明るく照らしていた。

 そんな春めく村の小道を、一人の少女が軽やかに駆けて行く。

 頭部を布で覆い、露わになった顔は開花したばかりの花のように愛らしい。一際目を引く大きな瞳は、翠玉のような美しい緑色をしていた。彼女が着ている上下が繋がった木綿の服は、簡素だが清潔感があった。吹き抜けていく春風が彼女の服の裾をまるで戯れるようにふわりと翻す。

 この少女の名前はリリア。

 この春、十五歳になったばかりだ。

 リリアは一軒の家の前に来ると足を止め、開け放たれた窓から中を覗き込む。部屋の中では、彼女より三歳年下の少年が気持ちよさそうに居眠りをしていた。くせ毛の茶色の髪にそばかすのある顔には愛嬌が感じられた。

 リリアの顔に笑みが広がる。


「ティム!」


 リリアはわざと大きな声で少年の名前を呼んだ。ティムはびくりと体を揺らし、酷く驚いた様子で跳び起きた。


「! うわっ! す、すぐに薪割りするから! ……ん? あれ……?」


 ティムは寝ぼけた顔のまま不思議そうに辺りを見回している。焦っていたのは、薪割りをさぼって昼寝をしていたからだったようだ。

 窓辺でクスクスと笑っているリリアの姿に気付くと、ティムは『はぁ~』と、大きく息を吐いた。


「な~んだ、リリアか。かあちゃんかと思った」

「おじさんとおばさんは、まだ町から戻って来てないわ」


 応じながらもリリアはまだ笑っていた。ティムはちらりと視線を向けると、照れくさそうに頭を掻く。


「……そんなところに立ってないで、入ってくれば?」

「うん」


 笑顔で答えたリリアは、戸口へ回ると遠慮なくティムの家の中へと入っていく。ティムは部屋の入口に背を向け呑気に欠伸をしていた。リリアは部屋に入るなり、頭部を覆っていた布をしゅるりと解いた。


「で、どう……し──⁈」


 振り返ったティムがリリアの髪を見た途端、口をあんぐりと開けた。リリアの美しい金色の長い髪が、ほっそりとした首が丸見えになるほど短くなっていたからだ。

 顎が落ちそうなほど驚いているティムの姿に、リリアは少し困ったような表情を浮かべ、短くなった髪を指先で弄ぶ。


「似合ってない?」

「! そういうことじゃなくて! なんでそんなに短くなっちゃってんだよ!」

「自分で切ったの。でも、思ったよりも短くなっちゃった。ふふ」


 リリアは照れたように笑った。そのどこか呑気にさえ見える様子に、ティムは呆れたように溜息をついた。

 この国では女は髪を伸ばしているのが常だった。どれほど切ったとしても背中までの長さは保っている。特に貴族の女は髪を長く美しく保つために余念がないほどだ。その為、首が見えるほど髪を短くする女性など、そうそういないのだ。


「……その髪、若先生は知ってんの?」


 ティムが尋ねれば、リリアは目を伏せ、悲しそうに小さく首を振った。


『若先生』とは、リリアが兄のようにしたっている青年のことだった。シャイルという名で、この村で医師であったリリアの祖父の助手として一緒に暮らしている。

 だが、リリアのたった一人の肉親だった祖父は先月病気で亡くなっていた。それからは事実上、シャイルがリリアの保護者となっていた。


「……どうしても、シャイルが王都へ行くことを許してくれないの。だから、シャイルが一カ月ほど出かけている間に、ちょっと王都まで行ってくるね」

「ちょっと、って……」


 ティムは言葉を失う。

 王都はリリアが言うような『ちょっと』で行けるような場所ではなかったからだ。徒歩でなら宿泊しながら片道十日以上はかかってしまうようなところだ。そのことは、年下のティムでさえ知っている。


「ティムが言いたいことは分かっているわ。そんなに簡単に行けないって思っているのでしょう?」

「うん」


 素直に頷くティムを見て、リリアは微笑んだ。


「それがね、いい方法が見つかったの! 近くの町から王都へ向かう馬車が出ていたのよ。その馬車に乗れば、片道たった五日で行けるの!」


 リリアの翠緑色の瞳が輝く。彼女の瞳は美しいだけではなかった。その色は実はとても珍しいものだった。

 まず、村の中にも近くの町にも、彼女のような緑色の瞳を持つ者はいなかった。似たような色でさえいないのだ。


『いいかい、リリア。あまえの瞳の色はとても珍しい色なのだよ。だから、この村に居る者以外、誰にも見られてはいけない。良からぬことを企む者に見られでもしたら、攫われてしまうのだからね。この村から出る時は必ずフードを深くかぶるのだよ』


 リリアは物心ついた頃からずっと祖父からそう言われ続けていた。

 ティムは木の床の上にどかりと座ると、難しい顔で腕を組む。


「でも、やっぱり危ないって。リリアは女なんだぞ! ちゃんと分かってるのか?」

「もちろん! ちゃんと、分かってるわ。だから、髪を短く切ったのよ。これで男の子に見えるでしょ?」

「髪だけの問題じゃないんだよ! リリアは自分の事、全然分かってないだろ?」

「分かってるから、ティムにお願いをしに来たのよ」


 ティムの前にリリアは膝を付いた。


「? お、お願い……?!」


 ぐいっと身を乗り出してきたリリアに対し、ティムは逃げるように上半身をのけ反らせる。


「ティムの服を貸してほしいの。お願い!」


 そう言って、リリアはティムに向かって両手を合わせた。


「全然、分かってないじゃないか!」


 がっくりと肩を落とすティムだった。


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