宇宙人はトマトを食べない
高田れとろ
第1話 宇宙人
七夕の夜は曇った空でどうもすっきりしなかった。気温が高く、本格的な夏の始まりを感じさせる熱気が肌にくっついてきて、不快指数が高い。
私は小さなベランダで、息苦しくなりながらも深く息を吸った。思った以上に空気が入り、何だか不潔なものが体内に入り込んだような気がして、一瞬、自然に対して嫌悪感を抱いた。雨が降る前触れの匂いもした。明日は雨だろうか。天気予報を最近見ていない。
昨日封を開けた飲みかけの炭酸飲料は、ただの甘い水になり始めていた。私はそれを味わうことなくゴクリと飲み込み、空のペットボトルを足元に置いて、ぼんやりとした夜空を仰いだ。星も月も見えない。ただモクっとした雲がいくつか、暗空にぽかりぽかり、と浮かんでいるのが見えていた。
隣からは、いつも煙草の匂いがしてくる。ベランダの境には白いパネルが立っていて、隣室を覗く事などできないが、窓が開けっ放しなのだろう、隣人の会話がずいぶんとクリアに聞き取れた。顔を合わせた事は一度も無いが、生活音からカップルが住んでいると決め込んでいた。予想通り声は二種類だったが、両方ともあきらかに男の物だった。一つは低音が響く、厭らしいくらい男らしい声、もう一つは、低音をわずかに残しつつも高音を駆使したねちっこい声。二つの声は上手く混ざり合い、心地良いハーモニーを奏でていた。しかしその歌詞を聞こうとすれば、全く低俗の、安っぽい流行歌のように中身はなかった。
「明日夜、帰りは?」
「あー、たぶん十時過ぎる」
「えー、遅ーい」
「なんだよ」
「だって、記念日よ」
「なんの?」
「忘れたのー? 出会った日記念日じゃない」
「まじで?」
「そうよ、もう五年よ」
「悪い悪い。やっぱ暑いな、今日は」
低音の男がそう言うと、ガチャと窓が閉められた。カラッと音がして、ペットボトルが倒れた。その振動が伝わったかのようなタイミングだった。
炎天下。赤く焼ける炭。煙が肺にしみ込む。同時に風が吹き、瞼を閉じた。痛みに追い詰められ、逃げ場がない。頭頂部は長時間太陽に焼かれ、心臓の脈打つ度にズキズキと痛んだ。頭痛薬を飲み、ジリジリと燃える太陽に目を細めた。顔が歪むのが分かる。陽が隠れ始めるとその勢いは慌てるように早い。夏の夜が凶器を持って忍び寄る。音のない自然には恐怖を感じる。そして、昼間から酒を飲んでいる輩が、とうとう声を張り上げ始めると、憂鬱も絶頂となる。ここから去ろう。しかし、車に乗せて来られた私が、一人で帰る手段はない。上手い口実も見つけられない。薄闇にどんどん体が覆われ、私は無言で頭を抱える。
「お前、昨日はなんだよ。」翌日、龍平が言った。全く効き目のない頭痛薬に不満顔をしていたことにも「せめて、楽しそうにしろよ」と無意識な石をぶつけてきた。
龍平はひょろっと背の高い男だ。肩幅は広く、足が異様に大きい。靴のサイズは三十五センチ。色白で長い顔には黒縁眼鏡、鼻はのっぺりと重力に負けるように顔の中心部で垂れ下がっている。たまに笑う時には、口を半開きにさせ、口角を大きく上げる。見事な歯並びを見せびらかすが、眼鏡の奥に光る眼はちっとも笑っていない。最近、髪の毛を短く切った。しばらく美容院に行っていないんだ、と言いながら、厭らしくうねっているくせ毛の先端を、指でつまんで見せることも無くなった。
龍平は宇宙人だ。地球に存在しているすべての生命を、自分の支配下に置こうとしているのに決まっている。私は、まだわずかに残っていた頭の痛みを感じながらも、龍平に少しの笑顔を返した。愛想笑いは下手くそだし、嫌いだ。私のそんな笑顔を、龍平は確かめることなく去って行った。その後姿は、初老の男性のように前方に傾斜し、力ない。宇宙人は皆そうなのだろうか。
龍平は、日に一度、必ず私の前に現れた。
「お前ならどうする?」
その日は、いつもの自信に満ちた傲慢さはなく、突き刺すような視線も瞳には無かった。まさか、笑っているわけもない。どこを見ているのか、焦点を失ったような目つきで、私の背後、遥か彼方を眺めていた。
「何?」
龍平は私の声にハッとして、我に返り、閑散とした食堂を見渡した。近くのテーブルに誰もいないことに安堵したのか、龍平はいつもの調子で、勢いよく私の向かい側に腰を下ろした。
「消えたんだ。」
ぬるっとした声だった。
「消えたって、何が?」
「弟。」
「弟?」
「ああ。」
「消えたって、どういう意味?」
「居なくなった。」
「え、なんで?」
「知らないよ。」
龍平は声を張り上げるものだから、人気のない食堂に声が響いた。
「悪いけど、のびるから、食べてもいい?」
私は、手にしたばかりのうどんを指さし、龍平に許可をもらった。
「いいよ。でも、食べながら聞けよ。」
「もちろん。」
私は、この食堂で一番安いメニューであるうどんを、龍平の前で遠慮がちにすすったが、いつもの味はしなかった。
「うちの弟さ、もともとおかしかったんだよ。なんというか、宇宙人的なさ。」
龍平の口から、宇宙人という言葉が出てきて、私は、口の中のうどんを丸のみしてしまった。咳込んで、むせた。
「大丈夫か? お前は、いつも病人みたいだな。」
「そう?」
「ああ。」
「子供の頃は、喘息がひどかったけど、今は人並みに健康だよ。」
「そういえばそうだったな。幼稚園の弁当の時、お前死ぬかと思ったよ。あの発作。まだ覚えてるよ。」
龍平はいつになく嬉しそうに言って「ははは」と例の笑顔で笑った。
「それで?」
「ああ。昨日、家に帰ったら、誰も居なかったんだ。たぶん、弟と一緒に、母さんも居なくなったんだと思う。」
「お母さんも?」
「母さんは分からないんだけどね。居なくなったのか、外泊してるだけなのか。」
「お父さんは?」
「居ないよ。だいぶ前から。」
「そうだったっけ。」
少しの沈黙が流れたが、私は再びうどんの麺を何本かズルズルとすすってから、会話を続けた。
「それで、つまりは、弟が居なくなって、お母さんは、帰ってくるかどうかわからないってこと?」
「そういう事になるかな、まとめると。僕も、何か食べるもの買ってくる。」
龍平はそう言って立ち上がると、ちょっと笑顔になった。龍平が私と食事をするのは珍しい。今まで、この食堂で一緒に何かを食べた事など一度もなかった。
慣れない食堂で、龍平は食券を買う事にすら戸惑っていた。何とか食券を買い、その後、トレーを一枚手に持つと、立ち止まって、キョロキョロとした。そのうち、私の方を見ると、ここ? というようなジェスチャーを見せるので、私は別の方向へ右手人差し指を向けた。私の指示で動くしかなかった龍平の横顔は、ふてくされたように見えた。
「ここで食べるの久しぶりだから、どうやって注文するのか、迷った。お前、毎日ここで食べてるのか?」
「毎日じゃないけど、でも結構来る。」
「あ、そう。もう、これしかなかった。」
そう言って大事そうに運んできたのは、カレーライスだった。
「美味しそうじゃん。」
「ここのカレー食べた事あるか?」
「ないけど。まずいカレーなんてないんじゃない?」
「いや、前に一回だけ食べた事あるけど、ここのは、まずいよ。」
宇宙人の口にカレーは合わないのか、と一瞬頭に浮かび、少し笑ってしまった。
「何かおかしいか?」
「何も。」
私は誤魔化すのも下手くそなのだろう。龍平にすべてを見透かされているように思えて、箸を持つ手が少し震えた。
「警察に届けたら?」
「嫌だよ、そんなこと。」
驚いたのか、周りには誰も居ないと分かっているのに、辺りを再び見渡し声を潜めて龍平は言葉を続けた。
「分かるんだ、なんとなく。警察に届けたら、大変なことになるって。」
「大変な事ってどういう意味? まさか犯罪が関係してるとか?」
「分からないけどな。」
龍平が、私のうどんの器を覗き込む中、麺の無くなったそれを両手で持ち、残りの汁を無くなるまですすった。
「汁、全部飲んだのか?」
「うん。美味しいから。」
「いつも全部飲むの?」
「そうだよ。」
「へえ。」
「この味が好きだから。」
「どんな味?」
「安っぽい味。」
「なんだそれ。」
「龍平も食べてみれば分かるよ。」
「ふうん。」
食事中の会話は、途切れ途切れになってしまい、なかなか進まなかった。
提供のピークを終えた食堂では、白い帽子とマスクで表情の見えない人らが片づけ始め、食器同士のぶつかり合う音が響いていた。暇を持て余した学生のグループが、食堂隅のテーブルでトランプをして遊んでいた。時々、歓声が上がるが、周りを気にしてか、それは小さな声の波だった。気を抜くと、眠気を誘うような静かな音声だ。
「さっきも言ったけど、弟さ、ちょっとおかしいんだ。知能がね、足りなくて、よく迷子になって、母に怒られてた。」
「なんとなく、知ってたけど。」
「そうか? お前、弟に会ったことあったか?」
「いや、無いけど、小学校の頃、学校で何となく聞いた覚えがあるだけ。噂で。」
「へえ。そう。」
龍平の不満そうな顔は、この世で一番恐ろしい物だった。無表情以上に何もない。私は、龍平の気をそらすように、
「じゃあ、迷子になってるんじゃない?」と聞いた。
「今まで、迷子になってもちゃんと帰ってきてたんだ。」
「だったら、帰ってくるかもしれないじゃない?」
「だから、それは、母さんが連れ戻してたからなんだって」
「ああ、そういうこと……。じゃあ、そのお母さんが居ないなら……」
「二人揃って、消えたんだ。どういう意味か分かるか?」
「え?」
「僕はね、多分もう、この先ずっと一人ってこと。」
龍平は、まずいと言っていたカレーを、大事そうにスプーンですくっては口に運んだ。手にしたスプーンは、体の大きい龍平の手にはミニチュアのおもちゃに見えた。スローモーションのような動きを見ていたら、龍平のカレーは永遠に無くならないように思えた。
龍平がまずいと言っているのは、食堂のごはんだ。カレーだけを器用にすくって食べる龍平の退屈そうな表情が印象的だった。
「探したら?」
「は?」
「弟とお母さん。どこか心当たりを探してみたらどう?」
「何で僕がそんな事しなければならないんだよ。」
「だって、家族だし。居ないと困るでしょ?」
「困らないよ。何も。」
「でも、どうすればいいのか、分からないんでしょう?」
「ああ」
「それは、お金とかの問題?」
「まあ、そうだね。別に家に誰も居なくてもいいんだ。その方が静かでいいし。でも、お金がないんだよね。先の事を考えると、家賃とか電気代だって……。」
「まだそんな心配するの早くない?」
「は?」
「帰ってくるかもしれないでしょ。」
「その可能性はないよ。」
「結論出すのは早いんじゃ。」
龍平の機嫌がどんどん悪くなるのが分かった。私の返答がいちいち気に入らないらしい。
「分かったよ。お前の意見はもういいよ。」
龍平はそう言うと、食べ掛けのカレー皿が乗ったトレーを持って立ち上がり、私を斜め上から凝視し、ゆっくりと消えた。
私は龍平が食堂から出ていく姿を確認して、空っぽの器をしばらく眺めた。麺つゆの甘い香りが残っていた。龍平のせいで、さっぱり味わう事が出来なかった。昼食三百円、無駄にしたような気がして、たまらなくなった。
学食から出て、昼過ぎの大学構内を歩く。午後の大学は、静まり返っているのが常で、一人で歩いているとどこへ向かうべきなのか、不安が襲う。時々、学生の集団とすれ違う。広い廊下を横並びで歩いてくるのを、私は立ち止まってやり過ごす。
月曜日は食堂で昼食を済ませ次第、急いで大学から去るのだ。
下宿部屋を入ってすぐ右には洗濯機があり、向かい合うように冷蔵庫が置いてある。少し進めば流し台と、それとまた向かい合うようにしてトイレと風呂が並んでいる。狭い廊下と八畳の部屋との境目には、ガラスの建具一枚があって、それをガラガラと引きずって外界との境目を作り上げる。
ベランダで育てていたミニトマトが一つ、やっと赤くなり食べ頃を迎えたため、軽く水で洗って、そうっと口に入れた。口の中でパチンとはじけると、トマトの汁が、ゆっくり鼻腔をくすぐった。
夏の始まりを予感させる味だった。
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