六、ドッペルゲンガー

ドッペルゲンガー - 01


 横断歩道を渡っていると、誰かの視線を感じて振り返った。

 すると人波の向こうから、自分がこっちを見ていた。

 鏡やガラスに映った自分ではなく、自分と同じ顔をした……別の自分。

 どこからどう見ても自分が、あたしが、人と人の間からこちらを見ていた。


「……あたし?」


 口から小さな声が零れると、向こうにいる自分はにこりと笑って踵を返す。

 そして視界を他の人に遮られると次の瞬間にはもう一人の自分は消えていた。


(……見間違い?)


 毎日洗面台で鏡越しに見る顔が、何故か別人の顔に貼り付いていた?

 それとも他人の空似? それはありえなくもない。

 だが、そもそもどうして視線に気付いたのだろう?

 誰かから見られているのがはっきりと感じられて、不安に駆られて慌てて振り返ったのだ。

 この世界には説明しきれないもの、納得できないものが紛れ込んでいるということを知っている。

 みよ子は、それを知っている。

 信号機が青く点滅しているのを見て、彼女は慌てて向こう側へと駆け足で渡った。

 皆騒ぎから逃げるように、走った。




 ×   ×




 大学に到着すると、みよ子は今日の授業をそっちのけでまっすぐゼミ棟へと向かった。

 というより、授業のこと等頭から抜け落ちて足が自然と向いた、という方が正しいだろう。

 思考停止のままただゼミ棟へと駆け込み、真っ直ぐ廊下を進んで行って力強くドアを開く。

 慣れてしまったほこり臭い部屋へ入り、奥のドアを無我夢中で開けた。


「……あれ?」

「みよ子さん? どうしたの、そんなに慌てて」


 しかしそこにいたのはこのゼミに所属している文野という学生だけだった。

 真っ黒な男を探したが、彼はどこにも見当たらない。


「あの……嵯峨さんは」

「あー嵯峨? そういや今日は見てないな……。アイツに何か用だった?」

「……いえ、別に……用という程じゃ」


 文野に問われて、みよ子は改めて首を傾げた。

 自分はあの男に何を聞こうとしたのだろう? 一体、彼に何を……? と。

 ドアノブを握ったままボーっと立ち尽くすみよ子を見て、文野は大丈夫かと彼女をソファへとうながした。

 そして上の空なみよ子を横目に、流し台に立ってお茶を淹れ始める。


「大丈夫? 突然ドアを開いて入って来たから、何か急ぎの用じゃなかったのかな?」

「……えっと、急ぎかというと……そうでもないような」

「でもいつものみよ子さんらしくないよ。ボーっとしてるし、体調が悪いとかは……」

「あ、いえ。ちゃんと元気です、はい」


 ぱちりと目が覚めたようにみよ子は背筋を伸ばして声を張った。

 このままでは文野に要らぬ心配をさせてしまう。と顔を上げると、文野はそれならよかったと軽く笑った。

 あの妙な胸騒ぎがどうしても気になり、今でも何故か鳥肌が立っている。

 しかし体調不良が原因ではないとみよ子はわかっていた。

 横断歩道で見かけたもう一人の自分のせいだということも……。


「ま、嵯峨はいないけど。オレでよければ相談に乗るよ。一応先輩だし」

「えっ……でも、その……相談といっても」

「可笑しな話、ってところかな?」


 嵯峨でないと信じてくれないような、奇妙な体験でもしたのかい?

 その言葉に返す言葉が見つからず、否定も出来ず、みよ子は口をポカンと開けたまま固まってしまった。


「ふむ、図星か……なるほど。それなら切羽詰まってたわけも、嵯峨を探してた理由もわかるな」

「……すみません」

「謝ることはないよ。アイツがそもそも可笑しな存在だからなぁ」


 ハハハと文野は笑ったが、その笑いが何か別の意味も含んでいることは何となくみよ子にもわかった。

 どこか皮肉にも聞こえる、乾いた笑い声。

 だがその心中を聞ける度胸はみよ子にはなかった。


「それで、みよ子さんもここに出入りしてしばらく経つから何となくわかってるだろうけど。そういう話を信じるのは何も嵯峨だけじゃないよ」

「えっ、そうなんですか……?」

「オレも、こないだ会った那澤も、嵯峨に付き合わされてるようなもんだからさ。それで、何があったんだい?」


 文野の言葉は極めて落ち着いたものだった。

 また、全て話してもいいし、話したいことだけを話してもいい、と。

 そう暗に言っていることも伝わる声音だった。

 みよ子自身、奇妙な出来事に遭遇することは、実は過去の誘拐事件以来だった。

 いつもあんなに嵯峨から趣味の悪い話を聞かされていても、結局のところそれは人から聞いた誰かのどこかの話であり、自分がそれに直接関わったというわけではなかった。

 だから突然、何の前触れもなく、奇妙なそれが目の前に現れて、みよ子はどうしていいかわからなくなった。

 別に何かをする必要も今回はなかったわけだが、それでも。

 この不安を一人で抱えきるなんて、怖くて出来なかった。


「……あの、別に大したことじゃないんです。でも、何か嫌な感じがして……怖くなっちゃって」


 笑って誤魔化しながら、みよ子は今朝遭ったことを文野に話した。

 自分の顔をした誰かがいたこと、そのもう一人の自分から明らかな視線を感じてどうしてこちらを見ていたかわからなかった、怖かったこと。

 言葉をつっかえながら、一つずつ話していくと文野は静かに話を聞いていた。

 そして話し終えると「なるほど」と頷いて口を開く。


「それ、『ドッペルゲンガー』の類じゃないかな?」

「……あっ」


 ドッペルゲンガー。

 そんな定番な、よくある言葉を聞いてみよ子の中で合点がいった。

 そうだ、自分そっくりなもう一人の自分を、都市伝説では「ドッペルゲンガー」と呼ぶんだ、と。


「そっか、そうですよね。そういうのがいたんだ……」

「古くからある代表的な都市伝説だよね。まぁ、この地球上には自分とそっくりな顔をしたそっくりさんがいるとか、自分と同じ顔をした人間は三人いるとか。そういう説も唱えられてるけど」


 けど、という言葉で区切り、続ける。


「普通の人にすれ違いざまに見られたからって、はっきりと嫌な視線として感じることはまぁないね」


 文野はその言葉で、ドッペルゲンガーの存在を肯定した。

 みよ子が遭遇したのは、彼女のドッペルゲンガーだったのではないか、ということだ。


「で、でも文野先輩は、こないだの包丁の話を信じてない感じがしたんですけど……」

「基本オレは半信半疑だよ。誰だって大概そうだろ? 神様を信じるか信じないかなんてその時々の心持ち次第さ」


 クリスチャンでもない限りね、と彼は笑う。


「で、やっぱりみよ子さんはあの話を信じてたわけだ」

「……」

「そんな顔しなくても、なんとなくあの時の雰囲気でわかってたから大丈夫だよ。たった今言っただろ? 半信半疑だからって」


 みよ子の過去を知らない文野には、彼女がどうしてこの手の話を心から信じるのかはわかっていないだろう。

 しかしそれでも彼は、信じるならそれでいいじゃないかとみよ子を笑うことはなかった。


「それより、そのドッペルゲンガーだ、問題は」

「ドッペルゲンガーって他に何か逸話ありましたっけ?」

「まぁ、よく怪談として言われているのは『ドッペルゲンガーを見ると三日以内に死ぬ』とか、『ドッペルゲンガーに三回会ったら死ぬ』とかかな」


 やけに三という数字が登場するな、と思いつつもみよ子はゾッとした。

 もし今回のアレが本物のドッペルゲンガーだとして、そういう人を殺せるような影響力があると、遭遇してしまった自分の命が危ない。


「その真偽を確かめる、なんて方法は……」

「流石にないなぁ、所詮は怪談、オカルトの類だし」

「そんなぁ……」

「確かに、ドッペルゲンガーが『死の前兆』とされるのは、死期の近い人間の前に現れるからだとは言われてる。ただそれは都市伝説における口上で、誰も証明なんて出来てないし……」


 対処は出来ないが、誰も証明なんて出来ていない。

 もしあのドッペルゲンガーが本物だとしても、それはただのそういう存在だったり現象だったりして、何も害がないかもしれない。

 オカルトや都市伝説の類なんて、結局のところそんなものだと文野は主張した。


「嵯峨なら何か小話を一つでも知ってそうだが……アイツ来ないなぁ」

「てっきりあの人ここに住んでると思って来たのに……肝心な時にいないんだから」

「そういう奴だよアイツは」


 はぁ……と重いため息が二人の口から飛び出た。

 答えの出ない疑問に振り回されるのは疲れるものだ。


(どうしよう、ドッペルゲンガー……だとして、何であたしの前に? いや、でも一つ可能性があるとしたら……)



 ドッペルゲンガーなのは、あたしの方なんじゃ?

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