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     ***


 ウルハシの女子達は、女森からこっそり持ち帰ったコトノハをそれぞれ隠し持っているのだと、そうスガソが言っていた。

 確かにスガソの遺品の中にはちぎれたコトノハやすっかり乾いてしまった葉があった。

「こんなだから使えるかどうかわからないけれど」

 スガソの母はそう言いながら、一番まともそうな一枚を取って手渡す。

「ああ、それと、」

 織物に包まれた耳飾りをカナギの手の平にのせ握らせた。織物越しに感じた耳飾りの輪郭があの日の会話を思い出させる。

 ツンと鼻の奥が痛くなって泣きそうになった。カナギはぎゅっと瞼を閉じてこらえる。

「それ、形見として持ってってくれないかな」

 スガソの母は「迷惑でなければ」と付け足した。

「迷惑なわけあるか。ありがたくもらうよ」

 スガソはこれで願掛けをするのだと言っていた。コトノハの木ではなく大樹という違いはあるが、御事参りに持っていってやろうと思った。




 二年ぶりのオンコトの森は、以前よりも険しく感じた。

 きっと二年の牢屋暮らしのうちに体力が落ちたせいだろう。こんなことでは案内役の仕事に戻れないかもしれないなと考えながら急登を登り切る。

 この先はそれほど起伏が激しくないから楽ができるな、などと思った矢先。酷い悪臭が鼻腔に入り込んできた。

 鼻と口とを咄嗟に押さえたが、何が起きているかすぐには理解できなかった。

 これは大人たちが言う悪臭だということはわかった。だが、どうして自分が感じているのだろうと混乱した。

 体格は二年前とほとんど変っていないはずだ。声変わりだってまだ途中で、これで『大人になった』というには弱い。もっとガラガラの声で案内をしている男子だって見たことがある。

 だとしたらどうして自分は悪臭を感じているのか。

 それも、大人たちから聞いて想像していたものよりずっとずっと酷い匂いだった。まさかこんなことになるとは考えもしなかったから、いつも参拝者に持参するよう言っている厚い布など持っていない。服の袖で口と鼻を覆うしかない。

 何度も吐きそうになりながらカナギは森を進んだ。

 大樹のもとへ急ごう。あそこに行けば匂いから解放される。その一心で足の回転を上げる。とはいえ、森の中では出張った根などが邪魔で大股に歩くわけには行かないから、速度はそれほど上がらない。

 一歩一歩を確実に、素早く踏む。

 それを繰り返して進んだ。

 匂いがあまりに酷くて頭が痛くなってくる。

 何が糞尿だ。何が薬草だ。それらとは比べものにならないくらいの悪臭がカナギを襲う。

 参拝者たちはこんなものを耐えていたのか。そこまでしなければ会う権利などないのだと、この場でふるいにかけられているのだろうか。

 息が苦しい原因が、匂いのせいなのか体力が落ちたせいなのか。わからなくなって、「もうどちらでもいい、楽になりたい!」と叫びたくなったとき、枝の重なりの向こうに、差し込む光がようやく見えた。

『あそこに着いたら楽になるぞ』

 と参拝者たちにかけてきた言葉を自らに投げ気持ちを奮い立たせた。

 もう少し、もう少し。

 吐き気と闘いながら歩く。

 光は段々に強く明るくなってきて、うっすらウキヨトの姿が見えるようになってきた。

 さらに進むと、ウキヨトの不機嫌さが伝わってくる。

 悪臭に耐え境界の間際までたどり着くと、ウキヨトの大きなため息がカナギを迎えた。

「無様だな」

 ウキヨトはまず一言目にそう言った。それに対しカナギは「久しぶり」と返した。悪臭はすっかり感じなくなっていた。

 ちぐはぐな会話を交しながらウキヨトの表情をうかがう。ウキヨトは哀れむような目でカナギを見ていた。

「俺、大人になったみたいだ」

 カナギは苦笑する。

「あれはお前の魂の匂いだ。人を殺めたことで腐敗してしまったんだろう」

 ウキヨトは言った。

 オンコトの森で大人が感じる悪臭の正体は、その者自身の魂の匂いだと言うのだ。

「大人になるということは汚れるということだ。大小問わず罪を重ね、人を欺き誰かを妬みとしているうちに魂は汚れてしまう」

 残念だなと言ったウキヨトにカナギは食い下がる。あの非道な男を殺めたことを悪事とは認めたくない気持ちがまだ残っていたようだ。

「あれはそれほどの罪だったのか? 誰かの命を奪えば悪なのか? 狩りをした身でも何ともなかったのに、悪者を退治した途端あんな匂いに苦しめられるなんて、そんなのおかしいじゃないか。それとも何か? 森の動物よりもあの男の命の方が尊いとでも言うつもりか?」

「お前は獣をどうして殺める?」

「どうしてって、食うために決まってるだろ」

「そうだな。糧にするためだろうな。それは生きるための行為だ。ではあの男を殺めたのはどうだ。生きるために仕方のない行為だったか?」

「それは……」

 何でもいいから言い返さなければと思ったが、適当な言葉は何もでてこなかった。

 カナギはうつむき拳を握った。

 そんなことをしたってどうにもならないけれど、そうすることしかできなかった。

「お前の魂の汚れ方では『可』は望めぬだろうな」

「それなら俺はどうすればいい?」

「己の為すことは己にしか決められない。お前はどうしたい」

「俺は……」

 カナギは大樹の幹を睨みつけた。

 本当ならば自分が持って来たコトノハはそこに飲み込まれて愛しいスガソの姿に変るはずだった。

「俺は、スガソに会いたいよ。こっちにいちゃそれが叶わないって言うんなら――」

 境界を越えて光の方へ。それでも構わないと思った。

 しかしウキヨトはそれを止める。

「人の命はそいつだけのものじゃないと、そう言ったのはお前だったはずだが」

 フンと嗤いながら境界線に寄った。光と陰のぎりぎりの所に立つ。

「それを寄越せ」

 そう言ってカナギの手にあったコトノハを指差した。

「人は会わぬうちに死者の姿に己の願望を付け足すらしい。もしかしたらお前が見てきた『可』の者たちの不可解な表情と言うのは、つくり上げた理想と現実との乖離に落胆した者の顔だったのかもしれないな」

「それとコトノハがどうつながるんだ」

「こちらに来る前に確かめるべきではないか。お前が共にありたいと願う相手は、ここにいる者と同じかどうか」

「それは……だけど俺じゃあ無理なんだろ」

 自分の魂の汚れなど見えるはずもないのに、カナギは自然と自分の胸の辺りに視線を落としていた。

「お前では無理だ。だから寄越せと言っている」

「どういうことだよ」

「私がその娘に会いたいと、コトノハと大樹に願えばいい」

 ウキヨトは自信たっぷりにそう言った。


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