ねぇ。
やちちち
第1話
貴方は此処を箱庭と呼んだ。
白が基調とされた狭いワンルームにベッドと小さな冷蔵庫があるだけの部屋。
キッチンもお風呂も機能性なんてまるで無視されたようなお粗末なものがあるのみ。
それでも、私達にとっては何処よりも素敵な場所だ。
学校が終わるなり急いで此処へ来て、貴方が帰ってくるのを今か今かと待ちわびる。
誰も帰ってこないあの家が大嫌いで、私はいつもこの箱庭にいた。
此処で待っていれば、必ず貴方は帰ってきてくれる。
日が暮れて夕陽のオレンジを夜が攫ってしまった頃、ドタバタと音を立てて貴方が帰ってきた。
「お、今日も早いな。いつも先を越されちまう。」
朝はぴっちり整っていた髪の毛が、少しぼさっとするのが好き。私がいないとそこらじゅうで煙草を吸うくせに、私が部屋にいると必ずベランダに出てくれるのも。
煙草を吸ってる姿が好きで追いかけて、怒られるまでがワンセット。ふぅっと私に煙を吹きかけて、ほら戻れ戻れってベランダから追いやる。
部屋に戻る前にご飯は食べる?と聞けば食い気味におう!と返ってくる。
この場所で会うようになって初めて、貴方が口が悪くて女癖も悪くてだらしがない人間なんだと知った。
女物の香水を纏って帰ってきたり、顔に綺麗なもみじをつけて帰ってきたこともあった。けど、それでも必ず朝になる前には箱庭に帰ってきてくれる。
それが何より私の優越感を満たしてくれた。
そして、それは同時に彼の心も満たしてくれる。
帰る場所がある事、待っててくれる人がいる事。
家族が居ない彼にとって、帰らなければ行けない場所がある事が堪らなく幸せなんだと何度も私に語った。
私達が共にいる理由はそれだけで十分だった。
「なぁ、肉じゃがかカレーが食いたい。」
煙草を吸い終えた貴方は、冷蔵庫の中身と睨めっこしている私の肩に頭を乗せて甘えるようにそう言う。
軽いもので済ませようとしていたのに、胃も心も若いままなこの人は深夜でもご飯と肉じゃが、もしくはカレーをご所望らしい。
「わかった。とりあえずお風呂でも入ってきたら?」
肩に乗る頭にそっと頬ずりをして、用の済んだ冷蔵庫をパタリと閉じた。
ダンボールで箱買いしてあるじゃがいもと、小さな野菜室に適当に放り込まれた人参と玉ねぎを取って肉じゃが作りに取り掛かる。
カラスの行水の如くさっさとシャワーから上がった彼は、じゃがいもの皮を剥く私の隣に並んで人参の皮を剥く。
とんとんとん、と優しい音がなる台所で並びながら料理をするなんて新婚さんみたいで少しだけそわそわしてしまう。気まぐれに手伝ってくれる貴方のための、少し大きめのピーラーはしっかりと手に馴染んでいるようだった。
こっそり玉ねぎを隠すのを見て見ぬふりをして、しんと静まった鍋の中に具材を入れていく。すると、ぱちぱちじゅうじゅうと明るい音が狭苦しいキッチンに響いた。
安い牛肉を多めに入れてあげればキラキラした目をしてお腹を鳴らす。
普段はきちっとしてて真面目に見える彼が、私の前だとまるで幼い子供のようになるのが好き。
お父さんのようであり、恋人のようであり、そして子供のような彼と一緒にいると私が得られなかった暖かな家庭というものがなんとなく理解できる気がして。
玉ねぎを抜いたせいで、イマイチ味の決まらない肉じゃがを二人で食べた。
「肉じゃがめっちゃ美味い。やっぱお前の料理が一番だわ。」
コンビニとかも美味いと思ってたけど、全然だ。
それだけ言うと後は一言もしゃべらずもくもくとご飯と肉じゃがを交互に食べ進めた。
食後の洗い物は当番制で、今日は彼の番だ。
一足先に歯磨きを済ませて、ベッドに潜り込みはーやーくーと彼を急かした。
そうすると、ガチャガチャと慌てたような音が聞こえてくるものだからついつい笑ってしまった。
きっと明日の食器にはお米粒がのこったままになっている事だろう。
どたばたとベッドにやってきた彼は、直ぐに着ていたTシャツを脱いだ。
私も彼に倣って服を脱ごうとすると、それは俺がやる。と止められてしまう。
手持ち無沙汰になった私は、彼の体に残る他の女の痕跡をなぞるように口ずけた。
ズボンと下着を脱ぎ去った彼は私の服を脱がしながら、私に自分の肌に残る跡と同じ場所に噛み跡をつけていく。
まるで小虎のじゃれあいのように素肌を合わせながら互いの体に互いの痕跡を残しあった。
決して体を重ねることはないけれど、確かに私は彼のものであり彼は私のものだった。
ひとしきりはしゃいだ後、彼に後ろから抱きしめられるような形で眠りについた。
いつか向き合って眠りにつけることを願いながら、臆病な彼に身を任せて意識を離した。
彼女が寝たのを確認して、桐也弘瀬はそっと起き上がった。
燻り始めてしまった己を鎮めなければ眠れそうになかったのだ。
彼女との時間を穏やかに過ごす為によそで吐き出してきたはずだったのだが、まだまだ若いようだった。
ぐるぐるとトイレに流れていく自分の情けなさを見送り、煙草を吸うべくTシャツを着てベランダへ出た。
彼女は酷く自分に似ていると思う。
もちろん彼女方がうんと綺麗で自分は汚れに汚れ切っているのだが、根底にある何かがよく似ている。
家庭環境だとか、育ち方の問題なのかもしれない。
そういう意味では彼女と自分はそっくりだったから。
彼女とこの箱庭で暮らすようになったきっかけの日を、ふと思い出した。
雨の中、破れたスカートの裾をぎゅっと固く握りしめてびしょ濡れでぽつんと立っていた。
ラブホが立ち並ぶ薄暗い通りで立ち尽くす彼女は、明らかにワケありで誰も話しかける事無くひそひそと隣を過ぎていく。
「先生。」
目の前に立った桐也に、彼女は無感情に呟いた。
慌てるでも、縋り付くでもなく、ただ泣きそうな顔を取り繕うように淡々と経緯を話した。
「新しい父が、行為を強要してきました。拒否したら家を追い出されて、ここに立っているように言われました。」
ここから逃げたら、次は無理やり犯してやると言われてここに立ち尽くすしかなかったんです。
彼女の言葉を録音して、姿を写真にとり急いで自宅へ連れていった。
こういう時警察に行っても意味が無いことを桐也はよく知っていた。
狭い風呂場に押し込んで、レトルトのカレーを二つ湯煎にかける。
ご飯パックを電子レンジに突っ込んで、二人分のカレーが完成した。
風呂から上がった彼女にカレーを差し出して、鍵を放った。
「それ、俺の家の鍵。やるからいつでも勝手に入れ。」
ただし、友達とかにバレんなよ。とずっと使われること無く仕舞われていたそれを受け取った彼女に告げた。
この時は下心なんて全くなく、同情心のようなものが働いたのだ。
「なんでここまでしてくれるんですか。バレたらあまり良くないこと、ですよね。」
ゆっくりとカレーを食べながら、不安げな顔をして彼女は言った。
そこに家の鍵を急に渡してきた男に対する嫌悪はなく、桐也は自分の対応が彼女の求める助けの一部になろうとしていることに安堵した。
彼女が不気味がれば通報されていたかもしれない、彼女の父と同類だと罵られたかもしれない。しかし、桐也にはこの少女を救わねばならない理由があった。
「俺も昔似たような境遇でな。義理の母親に逆レされて、親父にバレた時にはボコボコにされた。」
母親は被害者ヅラをして、父の後ろで怯えるふりをしながらほくそ笑んでいた。
何処にも行けない、誰にも言えない。そんな状況で学生だった桐也が一番欲しかったのは逃げられる場所だった。
「俺は男だから公園とかで寝りゃ良かったけど、そうはいかねぇだろ。」
彼女は文句なしに美人だった。カレーを食べる仕草も綺麗で、耳に髪を掛ければ誰だってどきりとするような魅力がある。
「先生、学校に居る時よりも口は悪いしだらしないけどこっちの先生の方が素敵。」
ずっと強ばっていた表情がふわりと華やいで、綺麗に笑った。情けない事だが、桐也はこの彼女の表情にあっさりと惚れてしまったのだった。この日から、彼女は度々この箱庭に訪れるようになった。
箱庭と名付けたのは、あくまでもここは彼女の家ではないという線引きであり、他人の家ではなく桐也と彼女の避難場所であるのだと伝えた。
だんだんと明るくなり、遠慮が無くなっていくのがたまらなく嬉しかった。
自分がついぞ得られなかった家族の温かさのようなものを彼女から与えてもらっていたのだ。
手を差し伸べているつもりが、いつの間にか差し伸べられていた。
そういう意味でも桐也と彼女は対等で、よく似ていた。
彼女の父親は彼女がそばにいない限り特に関心を持たないようで、離婚届を置いて消えた母親の元に行ってるのだとと思っているらしい。
別に、彼女が嫌な思いをしていないというのだからそれでいいのだ。
どこか言い訳じみた考えを巡らせていると、少し緊張したような顔で彼女がとたとたと傍にやってきた。
「ねぇ、今日から一緒に寝よう。ベッド占領してるの、申し訳ないし」
彼女がここに泊まるようになって5回目程の事だった。
もじもじとしていた癖に、桐也にそう告げる瞬間はしっかりとこちらの目をみてはっきりとそう言った。
まるで反論なんて認めないとでも言いたげに。
「お前なぁ。いくら俺が相手だからって油断しすぎ。」
可愛いんだからとはさすがに言えなかった。惚れてるから、なんてさらに言えるわけもない。
彼女がふざけて言っているのでも、考え無しに言っているのではないことも分かっていた。
けれど、ここで即座に頷いてしまっては大人として、教師としてどうかと思う。
ここは桐也が一線を引いてやらなければいけない場面だろう。
本音を言うなら彼女の好意に甘えて、めちゃくちゃに可愛がってやりたい気持ちも無くはない。
けれど、それをしてしまったらかつての母親や彼女の父親と同類になりさがってしまうようなきがした。それだけは何としても避けたかった。
「逆。先生だから、いいの。何されたって、嬉しい。」
愛される事を知らずに育った女というのはかくも恐ろしい。
こんな男にちょっと優しくされただけで、頬を赤く染めて寝床へと誘ってしまう。
それがどんなに危険なことか分かってやしないのに。
動揺はやがて苛立ちに変わり、こちらの反応を恐る恐る伺うこの女をどうしてやろうかと教員らしからぬ、ただの男としての欲をちらつかせた。
言葉でとやかく言うよりも、力で説き伏せた方が効果があることを桐也は身をもって知っている。
刻まれた傷はじくじくと痛むが、苛立ちとどうしようもないほどの情欲は抑えることができなかった。
「お前さぁ。こんな細い腕して、腰して何されるかもわかんねぇのに無防備に全てを晒すな。」
説教じみたことを言いながら動く体は言葉とは裏腹に着実と彼女の逃げ道を無くしていく。
風呂上がりで僅かに濡れた髪の毛と火照った顔。
逃げ道を塞がれた兎は、それでも狼に期待の揺れる瞳をむけていた。
乱暴にベッドに押し付け、買ってやった淡い水色のふわりとしたパジャマに手をかける。
片方の手でファスナーを下ろしながら、もう片方の手では彼女の体のラインをするりと滑るように撫で上げればぶるりと身震いをした。
恐怖の身震いなのか、未知への不安なのか、確認することは出来なかった。
まるで童貞のように小さく震える自分の手がそっと、彼女の胸に触れる。暖かい。少し早い鼓動が皮膚越しに体温とともに伝わってくる。
心臓がきつく傷んで、彼女に触れる手を止めると彼女は先生、と小さく桐也を呼んだ。
「泣かないで。大丈夫、大丈夫だから。」
いつから自分は泣いていたのだろうか。頬を伝った涙は重力に逆らうこと無く彼女の体へと落ちていった。
何が悲しいのか、何が悔しいのか、全くわからなかったけれど涙は止まらず、彼女もただ黙ってその柔らかい胸に桐也を抱き寄せた。
朝目が覚めると、また隣が冷たくなっていることに気がついて悲しくなる。
彼が隣にいてくれなくなったのは何時からだろう。
彼の優しい揺さぶりで起きるのが好きだったのに、ここ暫く彼はさっさと起きてベランダでタバコを吸っている。
気落ちしていても時間は淡々と進み、学校へ行かなければいけない時間は無慈悲にやってくる。
クローゼットから下着を取り出して、ハンガーにかけた制服に着替えた。朝ごはんは昨日のご飯と卵にウィンナー。
味噌汁はインスタントで程よく手を抜き、いつまでもベランダから帰ってこない彼を呼ぶために窓を勢いよく開けた。
「おはよう。もう学校行かなきゃだよ。」
昨日棄てたはずの吸殻はもう底が見えない。
妙な音を立てながら痛む胸に気が付かないふりをして、彼の手を引いた。
「お、今日もうまそう。お礼に近くまで車で乗せてってやろうじゃねーか。」
そう言うと、私よりうんと早く食べ終えてシャワーを浴びに行く。
食器を洗って、彼のドライヤーの音を聞きながら軽く化粧をする。
堂々と置かれた化粧品の数々が、何度みても嬉しくて、よそに女がいることなんて分かりきっているのに浅ましく頬がニヤけた。
「よし。行くか?」
スーツを身につけ、髪をセットすると別人のような清潔感が生まれる。
それこそ顔に紅葉なんて絶対につけなさそうな誠実さを滲ませて。
「うん。今日もいい感じに詐欺。」
1ミリも曲がってはいないネクタイにそっと手をあてて、今日の夜このネクタイを解くであろう瞬間に、心の中で悪態をついた。
「詐欺ってひでぇな。」
車に揺られながら、そう言えばとばかりに彼は呟いた。
普段はしてない眼鏡姿にシワひとつないスーツ、少し性格はキツそうに見えるけど普段のだらしなさは欠片もない。
「褒め言葉だから大丈夫。」
そう言い残して学校より少しだけ離れた位置で車から降り、友達が待っている昇降口へと向かった。
相変わらず騒音しかない昇降口の中で、1人佇む小さめの女の子。
亜紀ちゃんという名前で、高校2年のクラス替えで仲良くなった子だ。
クラスでは大人しめだが、仲良くなるとかなりのお喋りになる。
「おはよう!華ちゃん!」
「おはよう、亜紀ちゃん。」
私を見つけるなりぱぁっと顔が明るくなり、昨日の面白かったテレビの話をしてくれる。
ついこの間みた犬の動画に似ていて、可愛いなぁと笑ってしまった。
教室に着いて、亜紀と話しているとあっという間にチャイムがなりホームルームが始まる。
チャイムと同時に入ってきたのは、白衣を身にまとった彼だった。
事務的に出席をとり、連絡事項を説明したらもう解散。
かっこいいのに無愛想で少し怖いとの評判がたっている彼はカレーやハンバーグみたいなお子様が好むメニューが大好きなんですよ。
心のなかで誰に向ける訳でもないマウントをとって、彼がわざと落として行ったボールペンを拾って手渡した。
「落ちましたよ、先生。」
「どうも。」
目線も合わせずにお礼をいい、ちらりともこちらを見ずに去っていった。
相変わらず仲悪いねぇ。なんて文句を言う亜紀が面白くって、笑いそうになるのを堪えるのが大変だった。
「ほんとに!嫌な奴!!」
彼に聞こえるように大きな声でそう言えば、返却されたノートには、ばぁか、誰よりも可愛がってやってんだろうが。と可愛いうさぎと共に文句が書かれているのだ。
この一言が欲しくて、私はいつも彼の悪口を言ってしまう。
甘えんぼうな彼もまた、目配せしてからわざとボールペンを落とすし、私の清掃場所は彼の担当する第二理科室だ。勿論、掃除監督は彼。
仲が悪いなんてとんでもない。
私たちは箱庭を守りながら、駆け引きを楽しんでいるのだ。
ねぇ。 やちちち @yachiiii_momosuke
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