第16話

 ムサシがこの小倉に来てからというもの、佐々木小次郎という名を一日とて聞かぬ日はなかった。

「あの素早いツバメを切り落としたそうな」

「三尺もあろうかという長剣で、目にもとまらぬ早さで斬り落としたんだと」

「細川さまのご指南役になられてからというもの、ただの一度も負けを知らずだ」

「大きな声では言えねえが、さるご大藩が地団駄を踏んでいなさるそうな」

「柳生家ですら、逃げ腰だと言うからねえ」

 どこを歩いても、小次郎の話で持ちきりだった。日ノ本一と自負するムサシには、なんとも面白くない。吉岡一門を…と進言した相模屋の番頭も、「あのお方とだけは避けられませ。決して相まみえてはなりませぬ。天下一の剣士でございます」と、たしなめた。ムサシとしても、ためらいの気持ちが湧かないでもなかった。しかしこのままでは埒があかない。とにかく相手を知らぬことには、と小倉の地を踏んだのだ。

 長崎に向かうと告げたムサシに、相模屋から小倉の地でひと休みされてはと、同じく呉服商を営む小倉屋宛の紹介状と路銀を手渡された。小倉屋では歓待を受けられるものと思っていたムサシに対して、また喰いつぶれ武芸者かとばかりの態度で接しられた。吉岡一門を倒したという自負のあるムサシに対し、

「この地には佐々木小次郎様がおいでになりましてな」

と、横柄な態度を見せつけられた。

「相模屋さんのご紹介もあることですし、しばらくは当家にて旅の疲れをとりなはれ」

相模屋の顔を立てての、当主からの声かけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る