思い出を抱きしめて

 大晦日の迫る冷たい空気の中、僕は煙草を吸いながら大掃除をしていた。五年前成人と共に家を飛び出してから、ずっと開けられていなかった小さな段ボールに手を伸ばす。

 箱の表には太い赤字で『大事』とだけ書かれている。記憶を辿るがどうも心当たりがない。大事なものならなぜ五年間開けなかったのだろうと、頭に疑問符が大量に浮かぶ。段ボールを梱包しているガムテープを剥がし、蓋をあけ、中を見ると僕の意識は記憶の海に放り出された。


 小六の修学旅行の記憶。まるで大昔にタイムスリップしたかのような奈良の街並みを、僕が歩いている。共に行動しているのは、当時仲の良かった友達と初恋の彼女。みんな六月の湿気と暑さにうだるようにだらだら歩いている。

 隣を歩いている彼女が、僕の肩を叩く。振り向くと猫のような眼を輝かせ、悪戯でも思いついたように僕に笑いかける。


「なぁ、マウス……暑ない?」

「マウスってなんやねん……」


 僕はじわりと出る汗を拭いながら、彼女と視線を合わせられず、進行方向を向きながら小さく返す。彼女は僕の前に歩を進め、僕の服を指差し笑う。


「だって着てる服にネズミおるやん。やからマウス!」

「もうなんて呼んでもええよ。好きに呼んで……」

「じゃああんたは今日からマウスな!」


 汗を吸ったTシャツを覗き込むと、年賀状にプリントされそうなネズミが大きく描いてある。


『マウス』


 まぁ、彼女に呼ばれるならいい悪くないと、僕は小さく微笑み、ネズミの絵に小声で感謝を告げる。「マウスーみんなー早く行くでー」と、彼女が少し先まで行き振り向いて呼んでいる。淡い水色のスカートが静かに揺れる。僕は少し早足で歩き始める。


 次の記憶の波に意識が攫われる。


 小六の運動会の記憶。九月後半でも以前残暑は続き、生徒も教員も観客の親たちも汗をかきながら、自分の、担任の、子供のクラスを応援しており、異様な熱気に包まれている。

 僕は、騎馬戦の決勝戦に大将として出ていた。三本足の前足。気合を入れ、後ろの2人の手を強く握る。円の中の入り教師の声と共に駆け、相手の騎馬に突っ込んでいく。相手は少しバランスを崩し、その間上で騎手が鉢巻きの取り合いをしている。「もっかい!!」と僕は叫び、相手の騎馬へ再度突っ込む。バランスを崩していた相手は完全に崩れ落ち、大将戦を制した。

 異様な歓声の中、自分のクラスの場所へと帰り、椅子に座る。クラスメイトから「よくやった」と称賛を受け、自然と笑みが溢れる。椅子に掛けていた青いタオルで顔と頭に噴水のように湧き出る汗を拭き取る。


「なぁ、マウス?」


 振り向くと彼女が立っている。僕の淡い恋心は伝えず、良い友人として関係は続いている。彼女は運動会の練習でよく日に焼けた肌をくしゃりと歪め楽しそうに口を開く。


「さっき叫んでから突っ込んで行ったん見ててかっこ良かったわ。おつかれさーん! あとな、そのタオルの色いいなぁ。そういう色好きなんよあたし」

「ありがと。疲れたー! そんなにこの色ええ? ずっと使ってるやつなんよね。なんか褒められて嬉しいわありがと」

「その深い色好きやあたし。あー次あたしの番か行ってくるわ」

「おっけー応援してる行ってらっしゃい」


 僕は褒められたタオルを強く握りしめ、グラウンドへ向かう彼女の後ろ姿を見つめる。


 新しい記憶の渦に巻き込まれていく。


 中三の柔道部での地区大会決勝の記憶。団体戦で大将を任せられた僕は、副将の試合を見ながら声を出す。


「ファイトー! いけるぞまだまだ!」


 そう言いながら僕はカバンを抱き締める。初恋の彼女との思い出が詰まった、青いタオルとネズミのTシャツが入っている。思い出の詰まったカバンを強く抱きしめると、彼女があの日のような笑顔を浮かべ、応援してくれている。そんな気分になった。そう感じると、身体はリラックスし、早鐘のように打っていた心臓の鼓動が通常状態になった。副将が勝ち、二ー二となる。僕は微笑みを浮かべ立ち上がる。「負けられないわな。あの子が応援におるんやったら」と小さく呟き、試合直前とは思えないほどリラックスした心身が、赤い枠畳を跨ぐ。

 ゆっくりと深呼吸をすると、畳の匂いと参加者の汗の匂いが混じった何とも言えない匂いが鼻腔をくすぐる。開始位置まで行き、頭を下げ礼をする。始めの声と同時に僕は走りその勢いのまま相手を畳に投げつけた。


「一本!」


 審判の声を聞き僕はいるはずのない彼女を探す。彼女はいなかったが、部員と顧問が立ち上がって拍手をしながら喜んでいる。


 そこで記憶の海が終わりを告げる。


 焦点を記憶の世界ではなく現実に合わせると、煙草を見るとフィルターしか残っておらず、長時間記憶の海を漂っていたことを僕は自覚する。

 段ボールの中には、柔道部時代に使っていたカバンと小学生の時に嫁が僕にあだ名をつけるきっかけになったTシャツと、色を褒められたタオルが入っている。


「どうしたんマウス? ボーッとして」

「懐かしいのが出てきたんよな。だから記憶を辿ってたんよ」


 傍らに立つ嫁に僕は段ボールの中身を見せた。嫁が「マウスが着てたマウスや」と謎の爆笑をしている横で、昔の自分へ小さく嫁に聞こえないように言う。「安心しろ。その子と結婚するぞ」と。

 僕は新しい煙草に火をつける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る