淡く消えやすい掌編小説集

中川葉子

記憶を蘇らせるもの

 彼女は衣類と寝具以外に香水を振る習性があった。そのおかげか彼女の香水。アナスイスイドリームスの香りは私の周辺を常に舞っていた。風呂上がりのバスタオルからもバスマットからもソファからも玄関のマットからも。更には私のバッグからも帽子からも。私は常に彼女の香りと共にいた。当時よく友に「お前って彼女と同じ香水の匂いして女みたいだよなー」と度々言われていた。


 しかし彼女と別れた。些細な理由だった。趣味を語りあった時に意見が合わないという。私からすると小さな理由。映画を共に鑑賞しても書物を同じものを読んでも、音楽を聴いても意見は食い違った。私はそれが楽しかった。意見の交換ができていると思っていたから。だが、彼女はそれが耐えれなかったらしい。

 私は彼女と別れてから、洗えるものは何度も洗い香りを落とし、寝具や洗えないもの、部屋には毎日消臭剤をかけ、全ての香りを消していった。彼女の香りがすることが辛かった。


 だが半年ほど経った今日、彼女が愛用していた扇子が私が読書に使う机の引き出しの奥から現れた。驚きながらも扇子をゆっくりと開き、紅葉の舞う模様をじっくりと眺める。数分見つめ静かに扇ぐと薄く彼女の香りがする。数多の想い出が走馬灯の様に蘇っていく。

 映画帰りに喫茶店や公園で語り合ったこと、遊園地や動物園を満喫したこと。日常品を買いにスーパーへ行ったこと。2人で電車に乗ったこと。初めて2人でデートをした場所。告白をした景色のいい公園。振られた時の家の中。大きな記憶も小さな記憶も全て溢れかえる。


 気がつくと涙が溢れている。扇子に一滴二滴と涙の粒が落下していく。静かにスマートフォンを取り出し彼女に電話をかける。ワンコール目で彼女は出た。しかし何も言わない。私は声を震わせながら鼻をぐずらせながら、「君の紅葉の扇子が出てきたんだ。色々と思い出してね。電話をかけたんだ」

 すると彼女は付き合っていた頃の様な快活な笑い方ではなく、少し湿っぽい笑いをあげる。


「ねぇ、知ってた? 香りって呪いなのよ。嗅ぐだけでいろんなものを思い出す。なぜ私があんなに香水を振っていたか。香りを舞わせていたか。答えは一つ。もし私と別れても私と死別してもこの香りを嗅げば私は、その人の中で蘇る。色んな人の心の中で生きていたいのよ私はね。

 今、新しい彼氏ができたのよ。同じことをしている。アナスイのスイドリームスを振り香りを舞わせている。もしもこの人とダメになっても同じことをする予定。扇子を何処かに隠す。そうすることで私は生き続けることができるから」


 私は泣きながら笑い。彼女に言った。

「僕が死ぬまで僕の中から君の香りと思い出は消えることはない」と。

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