インザチャイルド

戸 琴子

第1話 インザチャイルド [始]


 ペンキで落書きされたレンガ塀の前。空缶がころがる。吸い殻がいくつか落ちている。タイルの隙間からは、雑草がでる。

 青い夕暮のなか、街灯の下でベージュ色のセーターであたたかく制服を着た女子高生と、黒い学ラン姿の中学生が腕を引っぱり合っていた。いや、引っ張っているのは女子高生のほうだけで、中学生の少年は嫌がって離れようとしているのだ。


「ねえー、来てよー。寂しいんだもん」

「帰るー」

「今日は私の家で泊ってくのーー」

「だって遠いだろ」


 と言って、少年はやっと女子高生からのがれた。彼は服をはたいてしわをなおす。そんな彼を、女子高生はあからさまな詐欺を見るような冷たい眼で見る。


「あたしの家、遠くないじゃん」

「遠いよ」彼女のほうを見ずに、吐き捨てるように言う。

「遠くないよ、だってあたしの家から中学いくのも、あんたの家から行くのもかかる時間は変わらないでしょ。制服も洗ってあげるしさ、朝までに間に合うよ。だから今日は私のうちに来てよ」

「やだ」


 少年は振り返って、女子高生を背中にゆっくり歩きはじめた。彼女の声がうしろから「ばーーか」と聞こえる。少年はポケットに手をいれて、寒い空気から隠して温める。誘いを断っただけだ、別に僕は馬鹿じゃあない。少年はそう考えて、「うるさい」と小さく呟いた。そしてそのまま街を覆う夕暮に溶けた。


 彼は地元の中学校に通う、現在二年生の高本蜜蜂たかもとみつばち。女子高生というのは彼のいとこ、柿崎子猫かきざきこねこは高校一年生で、今日は部活を休んで彼がこの道を通るのを待ち構えていたのだ。けれど結局、連れて帰ることはできなかった。ため息と肩を落として彼女も帰る。そしてある街灯の下で立ちどまると、かたかたと歯車が合ったように頬を膨らまし、スクールバッグをリュックにして、「ばかーー」と言って駆けだすのだった。




「社会一般に言われている倖せと、あなたにとっての倖せは、違います」


 蜜蜂は家にかえったあと、部屋で音楽を聴いていた。ロイス・ダ・59とエミネムの「キャタピラー」。特にエミネムのヴァースを繰り返しなんども聞いた。そして英語がわからないので、歌詞を調べ、また聞き直す。その最中に父親に呼ばれた。


 部屋をでて階段をおり、ビール片手にテレビにのめり込む父親のところへ行くと、父親は首だけで玄関のほうを示した。丁度そのとき、チャイムが鳴る。

 彼は玄関に行き、扉をあける。そこには二人の人がいた。男か女かよく分からない。けれどその二人は自らを「倖せ探究会」と名乗り、蜜蜂が反応を示す前にこう言ったのだった。


「社会一般に言われている倖せと、あなたにとっての倖せは、違います」


 蜜蜂は何も言わなかった。けれど彼らの話を、真剣には聞かないことに決めた。わりと感覚的に。何やら宗教めいた怪しさがあるし、彼は当面、倖せを欲しているわけではない。そりゃ、倖せが物として目の前にことんと置いてあればせっかくだから持って帰るかもしれないけれど、そんなことはないし。


「今、世の中で言い広まっている倖せとはどのようなものでしょう。実を言えば、それが希薄なのが少々我々、それはもちろんあなたを含めてですが、が人生に困りやすい要因でもあるわけですが、それでも多少の常識めいたものはあります。常識的倖せ。そう呼ぶことにしますが、本当に我々はそれを追っていていいのしょうでしょうか」


「今までの倖せを復習してみましょう。まずある時代は立身出世、それから戦争への勝利、お金を稼いで、妻をめとって、子どもを産んで、夢のマイホーム。このように倖せというものの典型が世間に敷衍し、皆がそれを追っている時代は楽ちんです。あなたにもれっきとした目標があるわけですから。しかもそれは周りの人と違わない。すると安心感もあります。疑いなくそれを追っかけることができるわけです。例えるなら、この世にうさぎと人しかいない世界です。うさぎを追っかければいいのです」


 彼らはロイス・ダ・59とエミネムの「キャタピラー」のMVのようだった。片方が喋る時、その喋る方は足まで動かし、おおきく身振り手振りをして喋り、その間、喋っていない方は腕を組んで微動だにしない。そして喋る方は交代する。今まで喋っていた方は石化したように動かなくなり、喋りはじめた方は恐竜のように力説する。夕暮すぎの空気のなかを、二人はそうやって何かを伝えていた。


「しかし我々が生きる今はどうでしょう。そう言った倖せの典型はあるでしょうか。結婚したら倖せですか。いいえ、結婚しなくても倖せです。マイホームを持つことは夢ですか。いいえ、望まない人もいます」


「けれどそれだと我々は不安に感じることもあります。自分がいま求めているものは、本当に正しいのか。そのさきに倖せな生活は待っているのか。もしかしたらとんでもない間違いをしているのかもしれない。だから何を選択してよいか分からなくなる」


「右にも左にも行けなくなる。そうなると、できるだけより多くの人が選んでる方を選ぶのが、せいぜいのできる安全策である。しかし、恐れることはないのです。倖せに正解も、ましてやそれを物としてとこんとそこに置けるような、明確な形なんてありません。倖せとは、それぞれにとっても倖せなのです」


「ですから、あなたは、あなたの求める倖せを、自由に追えばいいのです」


 そこで後ろから母の呼ぶ声がした。晩ごはんができあがったらしい。蜜蜂はそうっと扉をしめて、居間にむかった。


 夕飯を済ませ、風呂にも入った後、蜜蜂は自分の部屋で本を読む。あまり物の少ない部屋。昔から物欲の薄い彼だった。大きくない本棚には最近読まれた漫画と小説。上には汚れたクマのぬいぐるみのキーホルダーが倒れてる。そのとなりに勉強机があって、そこには学校の教科書や資料集がつんであったり、小学校入学の祝いに、祖母に買ってもらった図鑑もおいてある。


 今、彼はその机で本を読んでいた。本棚・机の反対側にベッド。枕の横にルービックキューブがある。六面きれいに揃っている。彼はひとつの方法でそれを揃えることができ、混ぜては揃え、混ぜては揃えを繰り返して、寝れない時間を紛らわした。


 電燈の白い光が粉っぽく、ジジーと電気の音を鳴らす。ときおり下の階から、階段を通って父親の下品な笑い声が聞こえた。蜜蜂がページをめくった時、それら静寂が一瞬で飛ばされた。ガラスの割れる音。蜜蜂の真後ろだった。蜜蜂は椅子から飛びあがりうしろを見た。


 そこにいたのは、部屋の窓ガラスを突き破って中にはいってきた、大きな眼鏡をかけたペンギンだった。


「何だお前」


 蜜蜂は机の上からびっくりして聞いた。するとペンギンは嬉しそうに小躍した。

 蜜蜂は静かに降りる。そしてガラスを踏まないように注意してペンギンに近づいた。ペンギンの額に破片が刺さって血がにじんでいたので、それを抜いてやった。するとペンギンは傷口を翼で押さえて、それから口を大きく開くと、そのまま蜜蜂をあんぐりと呑み込んだ。



 蜜蜂は目をあける。クリーム色の世界が無限に広がり、そこでは上下の感覚はごくわずかに残る程度。彼は水中を泳ぐようにして手で掻いて、足を押した。けれど微塵も動かなかった。イメージは水中より宇宙といった方がよかった。

 ただクリーム色が広がる中に、時折、ぼわっと人の顔が浮かんで、それが移動して消えたり、数式が落ちてきてどこかにいったり、赤い煙みたいなものがくるくる回って霧散したりする。鏡や、煙草や、水の入ったコップなんかも見える。


 蜜蜂は少ししてこの空間での動き方を発見した。意識すればいいのだ。前に行くことを思えば前に行くことができた。適当に浮遊してると、彼は少年を見つけた。

 その少年は裸だった。そして同時に自分も裸である事に気がついた。

 それまで気づかなかった。

(いや、そんなことがあるのかな。必ず視界に入っているはずなのに。服をきていて今までと変化がなければ意識しないこともあるかもしれないけれど、裸で気づかないなんてことがあるかな。僕は裸でいる時間なんて、一日のほんの少ししかないのに、だから違和感もあるはずだ。現に今なんか、とてもしんどい)


 蜜蜂はゆっくりとその少年に近づいた。髪の長い、細い男の子だった。蜜蜂だって子どもではあるのだが、それよりも子どもだった。

(彼もペンギンに呑まれたのかな)

 横からかなり近づいたけれど、彼は蜜蜂に気づく気配はなかった。正面に回って、少年が眠っているようなのを知った。


 彼を揺り起こそうと、肩に手をかけた瞬間、目の前が真っ暗になった。



 目を覚ますと蜜蜂は森の中にいた。


 頬の下の土はよく湿っている。黄色い胞子のようなつぼみをつけた苔のうえを昆虫がのぼった。葉と葉のあいだをよけた光だけが、カケラとなって地を明るめた。木々は樹皮をまとっていた。ひび割れたそれらの樹皮は、陰を作り、風に当たってかさかさ鳴った。あるいは葉の音だったかもしれない。


 蜜蜂は立ち上がる。正面に、より明るい光が見える。目を凝らして見てみる。光の明るいところは、そこで森が終わっていてその先にライオンキングに出てくるような石の舞台があるのだった。そこまで行く。けれどそのさきはサバンナではなく、海だった。振り返って見ると、いま彼がいるのが、ちいさな島であることが分かった。人のいる気配はなかった。


 一周ぐるりと歩くと(歩けるとしたら)半日程度で回れるとみた。

 太陽は、島を見下ろす彼の左うしろにあった。八時の方向。

 蜜蜂は左に降りて行き、砂浜を目指した。


 砂浜についたが、やる事はない。蜜蜂は急に無人島に飛ばされた不運をかこち、力なくその場に座る。それからただ海を見つめた。空が焼けて赤くなるまであと数えるほどだった。波の音が運んでくる寂寥感はひとしおだ。蜜蜂は砂浜を指先でいじる。そしてそれをつかむと、地平線をめがけて投げた。砂はほどけて散弾銃的に飛んだ。


 蜜蜂はとたんに眠たくなった。両手を組んで枕にすると、彼はそのまま横になった。そうやって地につけた右の耳に、ぎしぎし、という足音が響いてきた。その音に反応して起き上がるよりさきに、声がした。


「生き延びなきゃいけないよ」


 蜜蜂は起き上がった。それからあぐらはかいたまま半回転する。


「……君か」


 それは、あのクリーム色の世界で見た、髪の長い男の子だった。


「僕のことを知ってるの」

「いや、そういうことではないけど。それよりあの、生き延びるってどういうこと」

「僕たちは諦めちゃいけない。きっと助けが来るんだ、生き残らなくちゃいけない。君も気づいているかもしれないけれど、ここは無人島だ。僕もさっきいろいろ探したけれど、人のいる痕跡はなかった。動物の足跡は見つけたけどね。僕動物の足跡を見たのって初めてだ」

「それで、どうやって生き残るんだ。その動物さんは捕まえられるの」

 蜜蜂は姿勢を崩して言った。


「やってみるよ、じゃないと飢え死にしちゃうから」

「足跡以外見たこともないのに」

「うん。それよりとにかく、今は寝るところだ、それを用意しなければだめだ。僕さっき大きな葉を見つけたから、それを布団にしよう。それでもし雨が降った時に、それを防げる屋根になりそうな木の下で寝るんだ。君も一緒さ。ところで君、名前は?」

「祭銀デルトロン」

「僕はタツヤ、よろしくね」


 蜜蜂は咄嗟にとても妙な名前を言ってしまった。偽名にしても奇妙すぎると思ったが、タツヤは気にするそぶりもなかったのでそのままにしておいた。



 夜。蜜蜂は、タツヤと運んだ大きな葉っぱの下ですやすや眠っていたのだが、そんな彼はタツヤに揺り起こされることになった。肩を揺すられ、濡れた砂のように固くなったまぶたをあける。


「どうしたの」

 と聞くと、タツヤは彼に静かにするように言った。

 それから、周囲に視線をめぐらせた。


 蜜蜂も体を起こして見てみると、夜の砂浜に無数の人影があった。

 人影というより影の人といった感じだった。というのは、それらは実体はなく、ただ黒い塊である。人型ではあるが身長は二メートルくらいあって、首はなく、手も足も異様に長かった。彼らは歩いて海に半身入っては出てきたり、森に入ったり出たり、ぶつかったり、よけたり。まるで思考のない物体の動きをしている。


「何だこいつら」

「分からない、日の落ちたのと同時に出てきたんだ。デルトロンが寝てすぐさ」

「……んん、緊急事態っぽいところ悪いけど、また寝ていいか」

「うん。僕が見張っておくよ。もし何かあったら起こすからね。今のところは、僕らを気にかけているそぶりは一切ないんだけれど」


 蜜蜂はもう一度布団にはいった。それからすぐに眠るのだった。




 川の前。そこは絶えず風が流れる。水けを涼しくふくんだ、気持ちのよい風だ。昼前といえどこの島は暑くはなかった。それに寒くもない。川は底が透けるくらい清らか。指を入れると波紋が幾重にも重なった網になった。


「これで水分補給には事欠かない」

「飲むのか? 結構自然の水って腹くだしたりするもんだぞ」

「平気だよ。これくらい川幅のある川ならきっと。それにこの水よりきれいな水がありそうにも思えないからね」


 このように、ふたりは意見の違いこそ多いが、それなりに協力した生活を始める。



 朝、二人は森に入って食料捕獲の策を練った。生きものは、いくらか見た。けれど捕まえるというのは、なまなかではない。川も見つけたし、その中に魚がいることも知ったが、それすら取る方法を知らなかった。色鉛筆で書けるような、簡単で大雑把なイメージしか持たなかった。

 午後は、蜜蜂の提案でタツヤは食料を探す事をつづけ、蜜蜂は砂浜に戻って、救助を待つための支度をした。それは煙をあげることだった。蜜蜂は木と木を擦って火をおこした。それには二時間ちょっとかかった。


 結局その日の食料は、なけなしの果実数個以外なかった。


「もっとなんかあっただろ」

「ほんとうに食べていいかどうか分からないじゃないか。キノコとかも見つけたけれど、デルトロンは本当に食うのかい」

「食べられる食べられないどっちにしろ、持って来てみりゃいいじゃないか」


 夜は、煙は絶やさないよう、睡眠も二人交互にとって、時折枝を足す。


 三日目も同じような一日。進歩はない。

 蜜蜂はタツヤよりも食料を探すのが下手だった。タツヤは海で食べ物を探した。ふたりともへとへとになった。会話も減る。そして夜になると、影の人のそばで、交代で火の管理をした。


 四日目。ふたりとも朝から起きてるような寝ているようなだった。霞のかかった頭。今まで見えていた地平線が、ぼやけて見えるようになる。が、突然タツヤが立ち上がった。彼は海に向ってを大きく腕をふり、力の限りで叫んだ。蜜蜂はそのようすも哀れなようで、遠くから見る気分だった。が蜜蜂は、けっしてタツヤの気が狂ったのではないことが分かった。船が通っているのだ。彼も腰を上げ、タツヤのとなりに立ち、めいっぱい腕を振った。


 けれど船はついに通り過ぎた。ふたりはその場に倒れるように座る。そしてそのまま二人は微塵も動かなかった。


 そのまま一時間、二時間が過ぎた。雨が降り始めた。一瞬にして煙がぷすうすいって消える。

 蜜蜂は両手を組んで枕をつくり、その場に倒れ込んだ。そして薄く、薄く目をとじた。


 足音と、肩を揺する強い力。感覚のにぶい肌に頭が白くなる。蜜蜂は精神的な最後のエネルギーで目をあけた。そこに映ったのは男の人と、砂浜に近寄る巨大な船だった。



 目が覚めると蜜蜂は自分の部屋にいた。布団きちんと葉ではないふかふかの布団にはいって。

起き上がってカーテンをあける。朝日が部屋にあふれる。

「タツヤ君、とんだ夢を見せてくれたもんだ」

 心なしかいつもの朝より余計にお腹が空いているような気がするのだった。


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