第8話 「おはよう」
秀平と付き合うことになった次の日。
あたしは何回不安になっただろう。
何回、秀平を困らせたのかな?
あまり、眠れなかった。
昨日はあまりにも刺激に満ちてた気がする…… 今、何時?
「愛っ! 早く起きて、支度しなさい! 今日、彼が迎えに来るんでしょ!」
「かあさん……」
迎えって、何だったけ? 昨日、何かあったような気はするんだけど。そう、大切な何かがあったような。
うーん。
「この子は何を寝ぼけて。あんた、昨日佐間君と付き合い始めて、今日は朝から迎えに来てくれるんでしょ!」
「ああああああああああああああああああああっ!」
そうだった!
何でこんなことを忘れてしまえたんだろう。それで興奮して眠れなかったのに。
でも、少し眠ってしまえば夢の中でのことに思えたのかな?
って、それどころじゃない。すぐに支度しなきゃ。
着替え、朝食、お弁当作り。朝は忙しいのに、こんなに呆けてるんじゃ何にもならない。
「急がなきゃ!」
慌しく飛び起きたあたしを、母さんは黙って見てた。
今日は、仕事、お休みなのかな。あたしは着替えながら訊いてみることにした。
「母さん、仕事は?」
「休みとったの。ご飯、作るからもう少しゆっくりしてなさい」
休みを、とったの? そんなこと、母さんは滅多にしなかった。それこそ、あたしが体調を崩したり、授業参観があるときじゃないと休んだりしなかった。
「どうして?」
「どうしても何も。お節介かもしれないけど、自分の子供が泣くところは見たくないから。それに、付き合って初めて待ち合わせするんでしょ? しっかり準備なさい」
泣くところは見たくない?
正直、言ってることがわからない。でも、それがどういうことなのかもわからない。
「ほら。早くしないとご飯食べる時間もなくなるよ」
「う、うん」
いまいち釈然としないけど、取り敢えず寝巻き姿のまま秀平を迎えるわけにもいかないし、着替えようか。
着替え終わって、既に準備されてるご飯を食べ終えて、歯も磨いて、家を出ようとしたら母さんが後ろから頭を掴んできた。
「な、何?」
忘れ物はないと思うけど。
「愛。そのままで行くつもり?」
「そうだけど?」
変なところなんてないと思うけど。いつも通りだし。
「少しくらい化粧を覚えなさい。もう、今までみたいに何も気にしないままじゃ駄目。派手な化粧なんてしなくてもいいけど、少しだけ、薄くぐらいはしときなさい」
「お化粧なんてしなくてもいいよ。今までずっとしてなかったんだし」
母さんが溜息をついた。
「馬鹿。佐間君に褒められると嬉しいんじゃないの?」
それは、そうだと思う。
今なら秀平の何気ない一言や行動の度に一喜一憂できる自信がある。
「だから、まずは綺麗になったって言ってもらいなさい」
「何で?」
別に、他のことでもいい気がする。
無理して化粧なんてしなくても、他の事で一緒に何かできれば、それで時間を共有できればいいのに。
「愛。良くも悪くもね、佐間君を好きになって、付き合うようになった時点で愛は女として生きてくことになるの。だから、初めは、ここから始めなさい。最初は、母さんがしてあげる。
でも、ちょっとずつ覚えていかないとね」
「う、うん」
そっか。あたし、女なんだ。今更ながら理解した。
いつか子供を産むことになるかもしれない。いつか、周りの男に厭らしい眼で見られるかもしれない。
あ。漸く、秀平やこまがあたしの陸上競技場での行動を咎めてたのを理解した。あたしが『女』だからだったんだ。あたしがあんまりにも無自覚だったことに気付いてたんだ。
今まで、裸とか、下着を見せなければ男も騒いだりしないって思ってた。ただ、それが好きな下種だと思ってた。
でも、違ったんだ。そういう、女を意識させるものを見ることで、どうしようもなく興奮したりもするんだ。
もしかして、あたしの行動でそんな風に思った人もいるのかな? そう思うと、嫌悪感と後悔が襲ってくる。何で、あたしは気付かなかったんだろう。最初に止められたときに気付くことだって出来たはずなのに。
「愛?」
「え?」
気付くと、母さんが声をかけてきてた。
「大丈夫? もう、終わったわよ。ほら」
言われて、鏡を見せられる。
「なっ」
一瞬、我が目を疑った。
誰だ、こいつ。
違う違う。あたししかいないじゃない。でも、母さん、派手にはしないって言ってたのに。印象が変わり過ぎてるんだけど。
「どう? これが、メイクセットで、これが手順ね。部活に行く前に落としてね。耐水性だけど、部活するときには文句言われるかもしれないから。
でも、佐間君と一緒に帰るようなら帰る前にメイクをやり直してからね」
「うん」
もう、受け取るしかなかった。
でも、こんなに印象が変わって、秀平はあたしに気付いてくれるのかな?
何より、大人しく待つこと自体、あたしには出来ないかもしれない。というか、態々ここまで来てもらうことが申し訳なくなってきた。
そう思うと、あたしはすぐに靴を履いた。
「愛?」
「ごめん。あたし、やっぱり待ってられない」
言って、あたしは家を飛び出した。
昨日、秀平と歩いた道でわかりやすそうな場所を選んで立ってみた。
ここなら、秀平でも気付いてくれるよね? 少しだけ、不安もあるけど、大丈夫だよね。
あたし、今まで誰かと待ち合わせなんてしたことはなかったし、迎えに来てもらうこともなかった。いつも、あたしが迎えに行ってた。これがあるから、あたしはこまの保護者みたいな目で見られたこともある。
だけど、実際は逆。あたしがこまに依存するあまり、一秒でも長くこまといるために自分で迎えに行ってたんだ。
だとしても。あたしにとって、秀平はこまみたいな人になるのかな? そうだとすれば、あたしは秀平を迎えに行く選択をしてたはず。なのに、あたしはここで待ってる。
「愛っ!」
あ、秀平だ。
「おはよう」
良かった。落ち着いて言えた。ここで駄目だったら凹むしかない。
そういえば、秀平、化粧したあたしを見てどう思ったんだろう?
そんなことを思いながら、あたしは秀平の顔を見た。
「秀平?」
怖い。素直にそう思った。
怒ってる。でも、理由がわからない。理由がわからなかったり、理不尽な内容の怒りが一番怖い。どうして怒られているのかがわからなくなるから。
「愛。俺、昨日迎えに行くって言ったよな」
「う、うん」
秀平があたしの肩を掴んだ。少し、痛い。でも、それ以上に秀平の真剣な顔を見てることが、心に響く。心が、痛かった。理由はわからないけど、あたしは秀平を傷つけてしまったみたいだった。
昨日、愛される努力をしようって思ったばっかりだったのに。これじゃ、台無し。
「何で先に行ってるんだよ。一緒に行くのが嫌なのかと思ったじゃないか」
「そんなわけ、ないよ。あたし、少しでも長く秀平と一緒にいたいから」
でも、終りかも。いきなりこんなことする彼女じゃ、縁切られても文句言えないよね。
「だったら、待っててくれよ。俺、愛が家族以外で会う一番最初の人でいたいんだ。それぐらい、愛を独り占めしてたいんだよ」
「え」
あたしは、秀平がそこまで想ってくれてるなんて思ってなかった。だから、いつか捨てられるのかもしれないってどこかで不安に思ってた。いつも、何かしてもらうだけじゃ、貰うだけじゃ愛想尽かされちゃうんじゃないかって。
でも、それはあたしが勝手に不安になってたことだ。
秀平はあたしが昨日の言葉を守らずに一人で家を出てしまったことで凄く不安になってしまったはず。それは、間違いなくあたしの所為だ。
「ごめん。あたし、全部してもらうばかりじゃ、いつか愛想尽かされるんじゃないかって怖かった。あたし、何かできることあるかな」
「じゃあ、話して。したいことや、して欲しいこと。俺も、ちゃんと話して、言葉で伝えるから」
「うん」
そして、あたしはまず、一緒に学校に行きたいって言った。
「当たり前だろ? そうしたいから昨日、待っててくれって言ったんだからな」
そしたら、秀平は当然のようにそう答えてくれた。
「あ、愛。おはよう」
教室に入ると、もうこまが待ってた。
「うん、おはよう」
秀平と話しながら来たあたしは少し、機嫌が良かった。
それに気付いたこまがわざとらしく肩を竦めてみせた。
「やれやれってところかしらね」
「貶されてる気がする」
「実際、貶されてるようなもんだろ?」
あたしが漏らした不満を聞きとめた秀平がポツリと零す。
うぅ。たしかに、そうなんだろうけどね? でも、少しぐらい否定したいじゃない。
「朝からご苦労様でした。通学路であんなことするから、もう筒抜けよ。この恋愛初心者」
「え?」
見られてたっていうか、知れ渡ってる?
「暫く、見世物扱いね。人の噂は75日とは言うけれど、それを更新し続ければエンドレスよね」
あぁ。そうなりそうな予感。やっぱり、こまはあたしのことをよくわかっていらっしゃる。
はぁ、と溜息一つ。
「溜息吐くと、幸せ逃げるぞ」
「秀平が逃げなきゃそれで大丈夫」
秀平のぼやきにあたしは思ってること素直に口にした。
すると、秀平の顔が一瞬で真っ赤になった。何を照れてるんだろう。
「佐間君。こういうの慣れとかないと、愛とはやってけないよ? 結構、自分の思ってることで素面で言えない事を素で言える性格してるから」
「肝に銘じとくよ」
憮然とした表情のまま秀平は視線を逸らした。
その仕種が、少し可愛いって思えてしまったのは何故だろう。だけど、こういうのも悪くない。
うん。
その日のお昼のこと。
あたしはいつものようにこまについて行こうとした。すると、
「今日から暫く、愛は一緒に来たら駄目」
と、一蹴されてしまった。
嫌われるようなことしたっけ?
こまはトシと付き合うことになっても一緒にご飯食べてくれたのに。あたしが秀平と付き合う分には駄目なのかな?
「暗い顔してると、その辺で
「え?」
ポン、とあたしの頭に手を載せて秀平。
子ども扱いされてない?
「愛は二人だけってのは嫌か?」
「そんなこと、ない」
二人だけって言葉にあたしは舞い上がってしまった。それを隠そうとして、はっきりと言えなかった。
「だったらさ、気を遣ってくれた宮路に甘えてさ。二人で飯にしよう」
「うん。でも、秀平はいいの?」
「いいも何も。俺、遠足で愛と一緒に飯が食えたこと本気で嬉しかったんだぞ? だから、これからそれを俺の特権にできるんならもっと嬉しい」
卑怯だ。
そんなこと言われたら、もう、何も言えない。折角、さっき舞い上がってしまったのを隠したのに、もう意味もないくらいに顔は真っ赤になってる。耳まで熱い。鼓動も激しい。これじゃ動悸だよ。
「じゃ、行くか」
秀平はあたしの手を取ると、勝手に歩き始めた。
あたしはいつもの習慣でこまの所に行く時点でお弁当を用意してるから、この時点でもう手に持ってた。
ていうか、どこに向かうんだろう?
中庭はいつもこま達とご飯にしてる場所だった。秀平もそれを知ってると思う。だから、中庭には行かないはず。
暫くして、あたしの視界に下駄箱が写った。
外?
中庭は上履きで行けるようになってるから、あたしは昼に靴を履き替えたことはなかった。
「どこまで、行くの?」
「俺の隠れ家」
隠れ家?
「ほら、俺さ、よく女子に追い掛け回されてただろ? あれの影響で逃げる場所を探してたんだ。最初なんかは中庭とかに潜んでたんだけど。やっぱり、近いところは見つかるんだよ」
答えになってない。
でも、秀平はそれ以上答える心算はなさそうだった。
黙ってついて行くしかない。あたしはそれを理解した。
靴を履き替えて、外へ。雲ひとつない快晴。こういう日は体を動かしたくなる。
できれば、外で。
「愛。あそこの木の下」
秀平が校庭の端の一箇所を指差した。
そこは、何故か存在する大木の真下の東屋。この学校の少し不思議なところだったりする。別に、近くに自販機があったりするわけでもないから普段は誰も寄り付かない。
秀平はそれを逆手にとって、ここで息を潜めてたんだ。
「ここ、滅多に誰も来ないから。少しゆっくりする分には丁度いいだろ? 邪魔も入らないし」
「う、うん」
邪魔、というのがどういうことか、あたしでもわかることだけど。それ以上に、教室に帰ったときとかが怖かったりもする。
簡単に諦めてくれそうなキャラしてなかったよね、あの人たち。
ほら、この前あたしを囲んだ人たち。もう全校にあたし達の関係って知れ渡ってるから誤魔化せないし。
「愛?」
い、今だけは忘れよう。
折角、秀平が一緒にご飯を食べようって言ってくれてるんだから。今はそれを楽しまなきゃ。損しちゃうよ。
「何でもない。早く食べよ」
「あぁ」
言って、秀平はごそごそとパンを食べ始めた。それをあたしは自分のお弁当をつつきながら見てた。ペースが速い。男の子って、やっぱり食べるんだ。
それに、パンだけじゃ足りなさそう。
「ねぇ、秀平?」
「ん?」
パンを咥えながら振り向く秀平。ちょっと、可愛い。
「明日からさ、あたしの弁当、食べる? 行楽用の重箱、用意するから」
「本当に? また愛の手料理食べたかったんだよ。いや、彼氏でよかったぁ」
凄く、喜んでくれた。
うん。作ろう。頑張って、みなくちゃ。でも、素直に頑張る、とは言えなくて。
「ばか」
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