後ろ向きの顔を持つ男

高ノ宮 数麻(たかのみや かずま)

後ろ向きの顔を持つ男

 その若い女性はハンドルを握りしめながらうなだれ、肩を震わし、号泣していた。


 数分前のことだ。ほんの少しだけ、時間にして1秒にも満たないわずかな瞬間、その女性はすれ違う大型トラックに気をとられ、目の前の信号が赤になっているのを見落としてしまった。

 

 ドスン、という音とハンドル越しに伝わる明らかに「何か」を跳ね飛ばした衝撃。女性は急いでブレーキを踏み、おそるおそる車の前方に目をやった。そこには、顔が背中側を向き、口から血を流す男が横たわっていた。女性は叫び声をあげながらむせび泣いた。


 その女性は運転免許を取得してから今日が初めてのドライブだった。もちろん事故を起こした全ての非はその女性自身にある。しかし、初めてのドライブで人身事故を起こすとは、まったく不運な女性である。


 2~3分の間むせび泣いていた女性は少し落ち着いたのか、すっと顔をあげ、周りをきょろきょろと見回した。次の瞬間、その女性はアクセルを目いっぱい踏んで、その場から立ち去ってしまった。


 「おいおい、ひき逃げかよ…」


 とんでもない女性だ。そもそも「私」は事故に会う前から顔が背中側を向いている。いや、後頭部に顔がついているといった方が正しいかもしれない。これは生まれつきだし私の個性だ。この事故で口から血を流しているが、もちろんまだ生きている。体中に痛みもないのでたぶんも軽傷のはずだ。


 とにかく、加害者が逃げてしまったので自分で救急車を呼ぶしかない。だが、まったく体が動かないので電話することができない。周りには目撃者も他の車の姿もない。


「くそ…、だれか…」


 大声で叫ぼうと思ったが、大声が出ない。だんだん視界もぼんやりと暗くなってきた。


 「このまま死ぬのかな…」


 あきらめかけたその時だった。周囲に救急車のサイレンが鳴り響き、救急隊員が私のもとに駆けつけてくれた。ひき逃げ犯の女性が救急車だけは呼んでくれたらしい。


 その時、私を見た救急隊員がつぶやいた。


「…こりゃダメだな、顔が背中を向いちゃってるよ」


 失礼な隊員だ。なにがダメなものか。私はまだちゃんと生きている。私は渾身の力で救急隊員の手を握りしめ、思いっきり叫んだ。


「…私はまだ生きているぞ!」


「えっ! あっ! まだ生きてる?! すぐに搬送します!」


 救急隊員は余程動揺したのだろう。私は担架に乗せられた。


 病院に運ばれた私は全身を強く打っていて重傷だったが、命に別状はなかった。私をから轢いたあの女性は、私に顔を見られたとは思っていなかっただろう。さらに事故の目撃者がいなければ自首しないかぎり逃げ切れると思ったのかもしれない。冗談じゃない。私は真正面からひき逃げ犯の顔を凝視していたのだ。


 数日後、ひき逃げの疑いで逮捕された女性は、警察官にこう釈明した。

「顔が後ろを向いていれば、誰だって死んでると思うわよ、怖くなって逃げるのも仕方ないじゃない!」


 警察官が私の「体の特徴」を女性に説明すると、「えっ! あの人、後頭部に顔がついている? だったら当然誰でも逃げるでしょ!」


 全く失礼な女性である。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

後ろ向きの顔を持つ男 高ノ宮 数麻(たかのみや かずま) @kt-tk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ