Episode 4 夜明けの羽
第31話 孤独の殻
「けほっ……けほっ……」
37.5℃と表示された体温計を見て
「本格的に……風邪だね、こりゃ」
昨日――
最近の栄養不足がたたって免疫が低下していたのだろう。そこに昨日の雨だ。そりゃ風邪も引く。
鉛のように重い頭を起こしてベッドから起き上がる。転ばないように足元を一歩一歩確かめながら慎重に階段を下りていく。
「おかーさーん……」
誰も居ないリビングに弱々しい声が透き通る。
「そっか。そういえば同窓会って言ってたっけ」
お母さんは今日、旧友との同窓会に出席していて帰りは遅くなると言っていた。お父さんも現在手掛けているプロジェクトが大詰めで、同じく帰宅は日付をまたぐかもしれないと言っていた。
テーブルの上には昼食代とささやかなメモだけが置かれていた。
「タイミング悪いな……」
看病してほしいなんて甘えるつもりはない。でも、頼れる人がいないと思うとそれだけで身体の重さが増幅した気分になる。
椅子に座って麦茶を注ぐ。ポットが重く感じる。
本当は安静にしているべきなんだろうけど、胃に何も入れずに寝ていても快復は遅い。冷蔵庫の中には即席で食べられる物はない。
空腹感はある、でも料理を作る元気はない。そもそもわたしの料理スキルが絶望的なことは家庭科の調理実習で一緒だった班の人達なら誰もが知っている。
なるほど、どうやら自分で買い出しに行かなければいけないらしい。両親は帰りが遅いので頼ることができない。家には風邪薬もないので、遅かれ早かれ薬局にも出向く必要がある。
テーブルに手をついて文字通り重い腰を上げる。砂袋を背負っているかのように身体が重い。
わたししかいない静かな家――雪原さんに見放され、葵ヶ咲さんと決別し、ひとりぼっちになったわたし。そんな孤独の自分に相応しい空間のように感じた。
***
八月二十六日。夏休みももうすぐ終わりだというのに、夏はこれからだと言わんばかりに気温がぐんぐんと上がっていく。昨日降った雨が蒸発してむし暑い。
商店街を目指して重い足を引き摺ずる。暑さと風邪のダブルパンチで頭がぼやける。今なら小学生が習う算数の計算問題を出されても解けない自信がある。
(最初に薬局で薬を買って。それからスーパーで軽く食べられるものを買おう。昼食と夕食も買わなくちゃ、そんなに荷物持てるかな……)
チカチカチカチカチカと青信号が点滅して赤になった。歩みを止めて一呼吸置く。
赤信号は苦痛だ。早く買い物を済ませて帰りたいのに、まるでそれを阻んで、わたしの風邪を悪化させるように感じる。炎天下の中、なんだかいつもよりも信号の待ち時間が長いような気がした。
(食欲はあるけどガッツリした物はキツイかな。アイスクリームなら食べれそう。でも、アイスって風邪を引いてるときは食べない方が良いんだっけ?)
チカチカチカチカチカ……。
(薬局って商店街のどこら辺だっけ……? あんまり行かないから忘れちゃったなぁ。まぁ、行けば分かるでしょ)
チカチカチカチカチカ……。
(そもそも商店街ってどう行くんだっけ? あれ、この前も『あがさ商店』に行く途中に通ったはずなのに、おかしいな……)
チカチカチカチカチカ……。
(この横断歩道を渡って二つ目の十字路を右に曲がって……次の十字路だっけ? もっと奥だっけ?)
チカチカチカチカチカ……。
あれ? わたし、商店街を目指して家を出たんだよね? 商店街はどこ? もう着いた? まだ?
チカチカチカチカチカ……。
(あれ……、青信号が点滅してる……。また赤になっちゃった。なんでわたし青の時に渡らなかったんだろう? また暑い中で待たなきゃいけないじゃん……)
チカチカチカチカチカチカチカチカチカチカ……。
赤信号って……渡っちゃいけないんだっけ? いまは……何色? いまは……渡って……いいの?
……………………。
わたし、なんでここにいるんだっけ。あついよ……。なら家に帰ればいいじゃん。そうだよ。家ならクーラーも効いてるし、アイスクリームもあるし。
あれ、アイスはないんだっけ……? じゃあ買いに行こっか。……いま、買いに来てるんじゃなかったっけ……?
あれ…………? わたし、何してるんだっけ?
カメラの視点が引いていくように、周りの喧騒がどんどん遠のいていく。まるで巨人の小指で頭を突かれた様に、わたしはよろめいて……そのまま倒れた。
横になると身体が随分と楽に感じる。熱したアスファルトさえ今は心地いい。
でも、……ちょうどいい。これでやっと休める。もしかしたらこの風邪は、葵ヶ咲さんと雪原さんに酷いことをした”ささやかな罰”なのかもしれない。こんな代償でよければ喜んで受け入れよう。
誰もわたしを心配なんかしない。わたしはひとりぼっちだから。これでいい。あぁ、孤独になるのって――全ての縁を切って、全てを諦めるのってこんなに気持ちが軽くなるんだ……。
誰かが名前を呼ぶ声がする。それが誰の声なのか、誰を呼ぶ声なのかも分からない。薄れいく意識の中で、太陽の熱を吸ったアスファルトの温かさだけが最後の記憶だった。
***
暗く、狭い世界にいる。外の世界では他の蝶たちが優雅に
そもそもちゃんと孵化できるかどうかも分からない。羽も授けられず、外の世界を知らないまま、この殻の中で朽ち果てるかもしれない。
そっちの方が楽かもしれない。辛い経験をするくらいなら、居心地のいい繭に閉じこもっていたい。そう考える自分もいる。
これは夢だ。嫌な夢を見ると、それが現実でなかったと判った瞬間は安心する。なのに、この夢が終わっても、この寂しい気持ちは続いていくという根拠のない不安に駆られる。
――おまえは、夢でも現実でもひとり――
(…………やだ。……嫌だよ。ひとりは嫌だ。孤独に目を背けるのは……もう嫌だよ)
皮肉にも、夢の中でやっと自分の気持ちと向き合えた。すると、真っ暗な視界に光が灯っていく。日の光が膜を透過してこちらに届く。
暗闇の世界が終わる。そして、声が聞こえる。それは誰の声? 誰に向けた声?
……わたしを待つ声? わたしなんかを待っていてくれる人がいるの?
嘘でも嬉しい。でも本当に待っていてくれる人がいるなら、行かなければいけない。
光が導く。温かい太陽の下に幸せが待っている。それを信じて飛び立とう。この生えたばかりの勇気の羽を携えて……。
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