第35話 中国の書物を読むのに鈍重なこと

 おれは、現代文明人は各国平等の精神にのっとるべきであると考え、西洋中心主義に陥らないように、東洋の文献を少しずつ調べている。その成果がすぐに出るわけではないが、長い東洋文献の散策は、少しずつ東洋文明の良さの理解につながっていると思っている。

 しかし、ひとりで書物を散策するのは、ネット書店の充実により七百万冊の中から読みたい本を選べるようになった時代においても、まだまだたいへんなものだ。インターネットで読書の情報を頻繁に調べ、少しでも面白い本が読めるようにがんばっているおれだが、それでも、なぜ、この有名で重要な書物をいまだに読んでいないんだという名著は多い。そのような衝撃に遭遇するのは、読書をずっとつづけていると、非常によくあることなのだが、そういう書物を見つけるたびに、「なぜ、もっと早くこの本のことを教えてくれなかったんだ」と思うことは頻繁である。

 おれは、いきすぎた原典主義を避け、訳書中心に本をむさぼり読んでいる。その数は2279冊に及び、原著で読んでいたら、これだけの数を抑えることはできなかっただろうといえる量である。

 そんなおれがいちばん苦戦しているのが、中国だ。日本は中国と地理的に距離が近いこともあり、日本の中国文献への理解は深い方であるはずだ。しかし、おれは中国の文献の名作を探すことがうまくいっていない。おれの読んだ2279冊のうち、中国の本は48冊である。48冊という数は、大学生が学部生時代に読む本の数とたいしてちがわないだろう。それだけ読んでも、中国についてぜんぜん理解できていないのだ。東洋の文献を好んで読んでいるはずのおれですらそうなのに、それでは西洋にかぶれてしまった現代日本人の大半はどれくらい中国のことを知っているというのだ。

 中国といえば、儒教で有名なので、儒教がどんな教えなのかを知るために、おれは四書五経をちょっとずつ読んでいる。「論語」は中学校の時代に読んだが、その後で、「孟子」、「大学・中庸」、「書経」、「春秋左氏伝」、「易経」を読んだ。それぞれ、うっすらと伝え聞いていた中国思想の根拠となるものが、ほんのわずかだが書かれていた。中国思想愛好家の気分を害するかもしれないので、いってしまうのは望ましくないのだろうが、四書五経はあまり読んで面白いものではなかった。仏教、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教などの聖典に比べて、儒教の聖典は面白くない。読んでいて、ずっと、なぜなんだ、なぜ、あれほど有名な中国思想が、典拠を読むとこれほどつまらないんだ、と不思議だった。

 キリスト教会が、信者を支配するために、わざと聖書をつまらなくさせているという陰謀論をおれは考えたことがある。それなら、いちばんつまらない儒教は、儒教教団が最も自分たちの信者を支配しているのではないか。このつまらなさが中国中枢の凄さなのかもしれない、という可能性まで考えた。

 二十一世紀初頭でも、インターネットで世界中の人々の本音が書かれるようになった時、「聖書はいちばん面白い本だ。本の面白さランキングを付けるなら、聖書は100番中3位には入っていなければならない。」というキリスト教狂信者の主張は強かった。それに抵抗するために、おれは聖書より面白い本を探して、本の面白さランキングを付けた。

 聖書をけなすと、気分を害する人は大勢いる。おれは、聖書に数百ページにわたって、ずっと「従え、従え、従え」と書いてあることがまったく納得いかず、どこが面白い本なんだと不思議だった。聖書をつまらないと主張することは、キリスト教会に従わないことにつながる。儒教もそうなのだろうか。

 儒教は、日本では「年長者を敬え」という思想だという印象が大きく、後輩は先輩に逆らってはいけないという世代間競争の印象があるため、あまり人気がない。先輩のまちがいを指摘できずに、うまく仕事ができるはずがないからだ。四書五経に書かれているのは、簡単に要約すると「修身」であり、「年長者を敬え」というのは、特に仁義であるわけではない。儒教は「年長者を敬え」という教えではなく、「聖君に従え」という教えであり、それなら、「神に従え」というキリスト教と何がちがうんだと、気になる人がいるかもしれないが、まだ、中国思想への理解の浅いおれにはわからない。

 儒教とはいったい何なのか。おれはいまだにわからない。朱子の「近思録」を発見した時は嬉しかった。「近思録」の「道体篇」は、中国思想として伝え聞いていたものそのものが書いてあり、おれは「近思録」の発見により、ようやく中国思想を知ることができたのだ。中国に関係の深い日本においても、中国の重要文献の書名は有名ではなく、「近思録」などという本の題名は聞いたことがなかった。日本で東洋主義で生きた読書家のおれですらそうなのだ。

 今回、この文章を書いているのは、中国の思想が日本にはあまり要約されて伝わっていないということを訴えたいからであり、中国古典籍からの膨大な引用を教えられる日本の国語教育からすれば意外なことかもしれない。

 昨日、司馬遷の「史記」の第二巻を読んだ。第一巻を読んだのは、おれが読んだ本の数が1900冊を超えた二年前だった。おれは四十歳を超えていた。日本で、東洋主義者の読書家を名のっていたおれが、四十歳を超えるまで、「史記」第一巻すら読まなかった。読んだ時は驚きだった。黄帝は神霊の如き人であったという記述がまず、おれの先入観とは大きく異なり、意外で、衝撃を受け、それまでの自分の不明を恥じた。昨日、司馬遷の「史記」の第二巻を読み、司馬遷が尊ぶべき感情は「珍善」であると書いているのを知って、また衝撃を受けた。四書五経を読んでいた時には、中国人が「珍善」を好んでいたことなど想像しなかった。おれの主張したかったことのほとんどは、「珍善」が大事だというひとことで表現できる気がした。それほどまでに、中国思想の極意は司馬遷の「史記」に書かれているようだ。

 司馬遷の「史記」は、全八巻で発売されていて、まだ二巻しか読んでいない。つづきの六冊を読むのがいつになるのかわからない。それくらいに、司馬遷の「史記」は面白いのに、苦手意識がある。

 おれのように読書を好む人の読書案内のために、中国思想を読むなら、「四書五経」より「史記」が先だということを伝えたくて、この文章を書き、発表する。おれのように二千冊の遠まわりをする人がいるといけないからね。

 「珍善」の二文字に出会うのに、二千冊の遠まわりをしてしまった。隠していたのが「珍善」だというなら、納得できるのだ。

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