短編小説集

鳴海真央

第1話「のどかなセカイと幼馴染」

 帰ろうと思って、帰ってきたわけじゃない。

 帰れる場所が、ここしかなかったから、帰ってきた。


 ……と言ったほうが正しい。


 十数年ぶりに地元に戻ってきたが、何も変わっていなかった。

 緑一面の山に囲まれ、切り開かれた場所に人が住んでいる。

 そこにはザワザワとした空気もなく。

 そこにはゴミゴミとした雰囲気もなく。

 穏やかに時が流れている。

 形容するなら、そういう場所が俺の生まれ育った場所だ。

 子供の時は良かった。

 都会のように、刺激的な娯楽はないが、自然が最高の遊び場だった。

 山の中に入って、探検するかのように、遊んだり。

 きれいな川の中に入って、涼んでみたり。

 自然の飛び込み台、とも言える、滝に飛び込んでみたり。

 子供から大人になるにつれて、地元が退屈に思えてくることもあった。

 俺の友達の多くは、そういう思いで、都会へ飛び出し、帰ってくるのは盆休みか正月休み程度。

 だが、俺はそういう事ができなかった。

 誰かが「恥ずかしながら帰って参りました」なんて言いながら、祖国の土を踏んだ、みたいな話のようだ。今の俺の状況は。

「ただいま」

 持ち運べるだけの荷物を玄関先において、革靴を脱ぐ。

「おかえり。どうしたの」

「仕事のストレスがひどすぎて、やめた」

「えっ? それで帰ってきたの?」

「ああ」と、出迎えた母親に言って、自分の部屋に入った。

 実家の自分の部屋は、あの時から時間の流れが止まったかのように、そのままの姿で残っていた。

 そこでスーツを脱ぎ、適当に私服を選んで、それに着替える。

 スーツの上下とネクタイは、ハンガーラックにかけ、ワイシャツは洗濯ネットの中に入れる。

 履いてきた靴下は脱ぎ、洗濯ネットの上に、ハンドタオルと一緒に乗せる。

幹広みきひろ、大丈夫なの?」

「んー」少し考えて「帰ってこれたことは帰ってこれたんだけど、大丈夫じゃない、かな」と、母親の問いに答える。

「しばらく考えさせてほしい。どうしたいかを」

 俺が言うと、母親はしばらく考え、しょうがない奴だ、みたいな言葉を俺に投げてきた。


 ◇


「適応障害、ってことにしたほうがいいだろうね」

 実家に戻る数週間前、精神科にかかった俺は、医者に言われた。

 俺がそうなった発端は、仕事にあった。

 俺がやりたい仕事であったのだが、どうもうまくいかないことのほうが多かった。

 次第に、社会人としてありえない失態を犯すことになった。

 有給休暇を使って、精神科に行ったら、適応障害、と言われたのだ。

 その障害は、環境に馴染めず、心と体に症状が現れて、社会生活に支障をきたすものを言うそうだ。

 俺の場合は、それがうつ病一歩手前の状態だったそうなのだ。

 医者には、仕事が原因ならば、そこから離れることを勧められた。

 休職届を出しても良かったのだが、社長から「青瀬あおせの現状では、とても難しい」と言われたので、踏ん切りがついた。

 そうして、俺は仕事をやめ、急かされ激しさもある住んでいた都会せかいから、のどかで穏やかな実家せかいへと戻ってきたのだ。


 ◇


 実家に戻ってから数日後。

 玄関ベルが鳴ったので、出てみると、顔なじみの女がそこに立っていた。

結莉ゆいり?」

 驚きながら目の前の女の名前を呼んだ。

「そうだよ。久しぶりやね。元気してた、」と、言いながら、俺の状態を見て「じゃ、なさそうだね」と、若干引きつった顔で言う。

 実家から近くのスーパーに買い出しに出かける程度しか、外に出ないからか、無精髭はあるわ、髪はボサボサだわ、着ている服はダサい私服の状態だったからだ。

 対して、結莉は俺と違い、しっかり整えられた見た目と服だった。

 首までの短い茶色の髪の毛。目が大きく、濃い茶色の瞳。痩せすぎず、太ってもいない、いわゆる中背中肉だけど、ちゃんと胸部質量おっぱいはある。

 雰囲気が変わったのか、変わらなかったのかは、まだわからないが、少なくとも俺の目には、あの時のままの、結莉と思っている。

「ああ。ちょっと、メンタルをやっちまってな」

「そう、なんだ」

 結莉は、自分にも心当たりがあるような言いぶりだった。

「ま、まあ、アタシも似たような状況で、ここに帰ってきたんだけどね」

 立ち話に気がついたのか、母親が結莉を家に上げるように、俺に言ってきた。

 なので、その言葉に従って、結莉を家に上げた。



 話を聞くと、結莉も都会に出てきて、ここに戻ってきた人間だった。

 大学を卒業して、就職難の中、なんとか就職して働いていたそうなのだが、セクハラだのパワハラだの受けて、退職。

 しばらくの間、いわゆる『夜の世界』で働いていたそうなのだが、そこでも色々あったらしくて、ズタボロになってしまい、戻ってきたという。

 その経緯に関しては、結莉は話そうとしなかったので、俺と俺の母は何も聞かなかった。

「けど、似たような状態でさ、みーくんも帰ってきてたのはホント笑う」

「あのさぁ……」と、ため息をつきながら言う。

 みーくん、というのは、結莉が俺を呼ぶ時のあだ名みたいなものだ。

 青瀬幹広あおせみきひろ。それが俺の名前だ。

 それで、俺が結莉、と呼んでいる女性は、霧島結莉きりしまゆいりという。

「それで、結莉が俺ン家に来た理由は? 笑いに来たわけじゃなかろうに」

「そうだよ。笑いに来たわけじゃないよ。ただ、……」

 そう言って、口を閉ざす結莉。

「ただ?」

「あの頃に戻りたくなったな、って思っただけ」

 涙を浮かべながら言う結莉。

 明るく活発だった彼女が泣くほどまでに、辛かったのだろう。

 激しい都会せかいが、ここまで彼女をひどく傷つけたのだろう。

「結莉」

 俺は、自分でも情けない、と思いながら、彼女の名前を呼びかけることしか出来なかった。


 ◇


 それから、俺と結莉は、あの頃のように一緒に外にでかけたりするようになった。

 それはもちろん、結莉の家族も知っていることである。

 地元の穏やかな空気のおかげで、俺も結莉も心の不調が治ってきていた。

 最初は、不安や心配事にさいなまれ、布団をふたつに並べて、眠ることがあった。

 それが次第になくなってきて、お互いの家で眠れるようになった。

 他愛のない会話で笑ったり、怒ったりすることが出来るようにもなった。

 少し落ち着いた頃に、俺と結莉は、散歩に出かけた。

 そして、俺は写真を撮るために、結莉は山の空気を吸いに行くために、山の中にある神社に行くことにした。

「あの時より、……体力とか、スタミナとか、落ちたね」

「だな……。少し、息が、上がっちまったよ……」

 はぁ、はぁ、とお互いに呼吸しながら、神社に到着。

「にしても、ここは、……」呼吸を落ち着かせてから「なんも変わってないな」と、言う。

「ほんと、そうね。何も変わってない。……」

 結莉は町内とその向こうを流れる川の合流、そして合流の向こうに見える街並みを見ながら言った。

「アタシたちだけが変わった。変わってしまったのよね」

「ああ」

 あの頃に見た風景と大きく変化していない風景を、俺たちは見ていた。

「ねえ、みーくん」

「なんだ?」

「これからさ、ふたりで人生頑張って生きてみようと思わない?」

「どうしたの、急に」

 結莉の提案に驚く俺。

「心に傷を持った者同士、仲良くしてきたいよね、って話」

「そんなことを言わなくたって、俺と結莉は『幼馴染』っていう仲じゃねえか」

「そうじゃない!」と、強い口調で言われる。

「じゃあ、なんだ?」

 次の瞬間、目の前が真っ暗になった。

「『幼馴染』のその先の関係に行きたい、って話。みーくんは嫌?」

「それはだな」と、戸惑う。

 キスしてなんやそれは、と言いたくもなるが、そこはこらえる。

「今、結論は出さなくてもいいだろ。ゆっくり考えようや。今まで通りでもいいだろ?」

「それは、そうだけど」と、結莉は詰まらせたように言う。

「ゆーても、今まで通り、っていうのは、最近のことも含めて、だけどな」

「へ?」

 今度は、結莉が驚く番だった。

「前にひとりだと寂しいから、とか言って、俺が風呂に入ってたときに乱入してきた時の話」

「~~~ッ!」

 バチンッ、と両手で俺の頬を叩く彼女。

「いでっ」

「そっ、それはっ」

 頬を赤く染めながら、俺を見る。

「乱入された時はどうしようかと思った」

「い、いいっ、じゃないっ、もうっ」

 ぷいっ、とそっぽを向かれてしまった。

 それを見た俺は、苦笑いのような表情を浮かべるしか出来なかった。



 その日の夜。結莉が寝間着を着て、枕を抱えながら、俺の部屋に現れた。

「結莉?」

「アタシは、本気で言ったんだよ、あの言葉」

 真剣な表情だった。

 それを察した俺は、そうか、と自分の布団の中に入れてやった。

 涼しくなったから、そのままでいたら、風邪を引いてしまうのではないかと思ったからである。

「本気、だったのか」

「だって、もう、あの世界には戻りたくないから」

「結莉はそういう結論に至ったのか」

 そうだよ、と答える結莉。

「わかった。なら……するか?」

 結莉は、なにかの寂しさを抱えていたんだろうなと、その時なんとなく感じた。だから、受け入れてやった。

 結莉の身体は、どこも柔らかく、乱入してきたときに見て感じていたとおりだった。

 あの頃と違うのは、お互いに身体が大人になっていたこと。結莉がちゃんと、女性の体付きになっていたこと。

 こもりがちだった俺の幼少期から、人懐っこい顔で、俺を色んな所へ連れ出してくれた女の子。それが、結莉だ。

 結莉を抱きながら、俺は彼女と出会ってからのことを思い返していた。


 ◇


 それから、半年が経ち、俺は再び社会生活を始めた。

 以前と違うことがあるとすれば、結莉がそばにいることだった。

 結婚する前に同棲してみないか、と提案してみたところ、二つ返事だったので、そのまま地元から少し離れたふもとの町で生活を始めてみた。

 それなら、地元に戻ろうと思えば戻れるし、という、そんな状態を作り出したのだ。

「それで、どう? うまくいきそう?」

「まだわからないよ。始めたばかりだし」

「それもそうね。ま、みーくんなら大丈夫っしょ」

「フフッ。ありがとよ、結莉」

 ほほえみながら、答える俺。

 将来に希望があるかと言われると、俺たちはそこまで絶望していないけど、絶大な希望も持っていない。

 少なくとも、また、精神を壊す、ということはないようにはしたいな、と思っている。

 そして、結莉を不幸にはさせたくないなとも。

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