第20話

 桃ちゃんは、思いのほか足が遅かった。そして運動神経が悪かった。

 階段を駆け下り北校舎を出た桃ちゃんは、中庭を突っ切って昇降口へ向かおうとしたらしい。その途中で、俺は桃ちゃんに追いついた。

「桃ちゃん!」

 彼女を止めようと手を伸ばしかけたときだった。急に桃ちゃんがつまずいた。前につんのめった身体がそのまま倒れそうになり、俺はいそいで彼女の腕をつかむ。

「わ、っと、大丈夫?」

「……痛い」

「え、ごめ」

 ぼそっと呟かれた言葉に、あわてて手の力をゆるめれば

「痛いよ、なんで私だけ」

「え?」

 桃ちゃんは顔をうつむかせ、崩れるようにしゃがみ込んだ。

 スカートが汚れるのもかまわず、抱えた膝に額を押しつける。泣きそうな顔をしているのが、ちらっと見えた。


「なんで私だけ、二回もぶたれなきゃいけないの。二人ともバカみたいに力強いし、さいあく」

「……でも桃ちゃん、春子はぶたなかったね」

 俺も彼女の前にしゃがみ込みながら、ふと気づいたことを口にすれば

「ぶてないよ、春子ちゃんは。……ぶてるわけない」

 膝に顔を埋めたまま、桃ちゃんがくぐもった声を漏らす。

 そこからは、さっきまでの強さは跡形もなく押し流されていた。

 目の前で震える肩の小ささに、ふいに息が詰まって

「桃ちゃん、俺は」

 気づけば、声がこぼれていた。

「桃ちゃんが好きだよ」


 桃ちゃんがゆっくりと顔を上げ、俺を見る。その目は、かすかに赤かった。

「……私が、かわいそうだから?」

「ちが」

「ねえ智くん、気づいてた?」

 ふと桃ちゃんが自分の左手を持ち上げる。人差し指に真新しいテーピングがされたその手を、俺の顔の前に掲げてみせ

「さっき私ね、こっちの手で須藤さんをぶったの」

「え」

「ほんとはね、突き指なんてしてないんだ。振りしたの。須藤さんが腹いせみたいに強いボール投げてくるからむかついて。怪我した振りして、須藤さんがちょっとでも責められればいいと思って」

 桃ちゃんは唇の端から息を漏らして小さく笑うと

「お弁当もね、私がお弁当持ってるときに須藤さんがぶつかってきたから、私、わざと落としたの。たぶん須藤さんにそんな気はなかったんだよ。ちょっと肩にぶつかってやろうってだけ。でも私がお弁当まで落としちゃったもんだから、須藤さんが罰が悪そうな顔するのが面白くて」

「……じゃあ、上履きは」

「上履きは本当にたまたま、うっかりお茶こぼして濡らしちゃっただけ。でもそれを、なんか智くんが気にしてくれたみたいだったから」

 そこで軽く言葉を切った桃ちゃんが、また目を伏せる。

「何日かスリッパ履いてみた。それで智くん、もっと同情してくれるかなって」

「……もっと?」

「同情だったでしょ。最初に、私の告白に頷いてくれたときも」

 まさか、と俺は驚いて突っ返す。

 そんなわけがない。

 今でも思い出せる。放課後、ひとけのない中庭で、俺に付き合ってほしいと告げた桃ちゃん。胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、まっすぐに俺を見つめて。なんだかいじらしくて、たまらなくなって。胸が締めつけられた。喉の奥がつんとして、迷う間もなく答えを返していた。

 それは、あのとき、


「……桃ちゃんが、かわいいと思ったから。それで、好きになって」

「ちがうよ」

 張りのある強い声で、桃ちゃんがさえぎる。

「そう思い込もうとしてただけ。智くんは、一生懸命がんばって告白してる私に同情したの。振ったら私が傷つくだろうから、かわいそうだなって。そう思ったから頷いたんだよ。あのとき」

 まさか、と俺は困惑しながらできるだけ強い口調で繰り返す。

「そんなわけ」

「そうなんだよ」

 そこでふいに顔を上げた桃ちゃんが、じっと俺を見た。そこには、場違いに穏やかな笑みがあった。なにかをあきらめたような。

「智くんは誰に告白されても付き合ったよ。そして誰と付き合っても、春子ちゃんのことばっかり考えてた、どうせ」


 咄嗟に、否定できなかった。

 それが、全部の答えのように思えた。

 途方に暮れて視線を上げた先、ベンチが目に入った。何度か桃ちゃんと座って、昼ご飯を食べた場所。いろんな話をした。楽しかった。どきどきもした。そのあいだ、俺はたしかに桃ちゃんだけを見ていたつもりだ。つもり、だった。

 

「――私、本当はね、振られたの」

 俺が次の言葉を探せずに黙っていると、膝に顔を埋めた桃ちゃんが、ぽつんと呟いた。

「え、誰に」

「渋谷くんに」

 これまでの流れを無視した話題に、俺がちょっと戸惑っていると

「つまんなかったんだって、私。キスもさせてくれないし、なんで付き合ってんのかわかんないって。でも本当はたぶん、私が女子から嫌われてるのが嫌だったんだよ。カノジョも自分と同じような人気者じゃないと、許せなかったんでしょ、あのひと」

「なんでそれ、須藤さんに言わなかったの?」

 驚いて尋ねる。

 さっきの須藤さんに対する言い方だと、桃ちゃんが一方的に渋谷くんを振ったみたいに聞こえた。それがいっそう須藤さんの怒りを煽ったのは間違いない。真実を知れば、須藤さんの桃ちゃんへの敵意もだいぶ和らぐのではないだろうか。

 俺は単純にそんなふうに考えたのだけれど

「言わないよ。みじめだもん」

 桃ちゃんは迷いのない口調で、そう言った。芯のある声だった。

「私ね、みじめなのが嫌なの。いちばん。須藤さんとか、クラスの女子に嫌われるぐらい、べつにどうでもいいんだ。でも、みじめな思いはしたくない」

 だから、と桃ちゃんがまっすぐに俺の目を見つめる。

 そうして短く息を吸ってから

「もう智くんとは別れる」


 なにが「だから」でその言葉に続いたのか、俺がわからずにいると

「私ね、私のことだけ考えてくれる彼氏じゃないと嫌なの。私のためなら、なんでも捨ててくれるような。女友達でも幼なじみでも。私が嫌がるなら、全員と縁を切ってくれるような。そういうことしてくれるぐらい、夢中になってくれなきゃ嫌なんだもん。智くん、私のためにそんなこと、ぜったいしてくれなさそうだから」


「……でも俺は、桃ちゃんが好きだよ」

 他に言えることが見つからなくて、繰り返す。

 どうにもならないことはわかっていたけれど、ただ、言っておきたかった。

「ほんとに、好きだった。ちゃんと」

 うん、と呟いた桃ちゃんの口元に、小さく笑みが浮かぶ。自嘲するような。

「でも、別れる。だって」

 その笑みがふと崩れかけて、隠すように桃ちゃんはまたうつむいた。

「……温度差あると、むなしいから」


 ――みじめなのが、嫌なの。

 少し前に聞いた桃ちゃんの言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 残っていたから、俺はそれ以上、なにも言えなかった。


 ゆっくりと息を吸う。そうして

「桃ちゃん、ごめ――」

 謝ろうとした声は、途中で途切れた。

 ふいに顔を上げた桃ちゃんが、こちらへ手を伸ばす。その手は俺の後頭部に回り、ぐいっと引き寄せられた。同時に顔を寄せた桃ちゃんと、唇がぶつかる。

 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。

 呆けているあいだに唇は離れ、至近距離で桃ちゃんと目が合う。触れそうなほど近くで、長い睫毛が動いた。

「ね、智くん」ぽかんとする俺の顔を、桃ちゃんが首を傾げてのぞき込みながら

「はじめてだった?」

 まだ状況が呑み込めずにいる俺は、混乱しながらバカ正直に頷いていた。

 俺の答えに、桃ちゃんが目を細める。とても、無防備に。悪戯が成功した子どもみたいに。そうしてその幼い笑顔のまま


「――ざまあみろ」

 うれしそうに、そう吐き捨てた。

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