矯正教育

それだけを聞くと、『たかがVRで』と思うかもしれない。


しかし先にも言ったように、高度シミュレーターによるその精度は、この仕組みを確実に理解している人間でなければ現実との区別をつけることが不可能と言われるほどのものであり、そこでの<死>の苦しみや痛みや悲しみは現実のそれと何ら変わるものがなかったのだ。


なので今回は、その高度シミュレーター内でのある出来事に触れることにしよう。


もっとも、これは、メルシュ博士とはまったく関係のない一件についてのことなので、別に飛ばしてもらっても本筋には影響しない。


それを承知していただいた上で目を通していただければと思う。










その日、通り魔として三人の人間を次々と殺害した<藍繪正真らんかいしょうま>は、四人目の犠牲者を殺害しようとして逆に突き飛ばされ、車道へと転がり出たところへ通りがかった自動車に頭部を轢かれ、即死した。


享年、三十二。親を恨み社会を恨み八つ当たりの果てに三人もの人間を死に至らしめた男の、どうしようもなく無価値な人生は幕を閉じたのである。


が……




「どうすんだよ?」


「俺が知るかよ。お前が何とかしろ!」


誰かが怒鳴り合う声に、藍繪正真らんかいしょうまは自分の意識が覚醒していくのに気付いた。


『うるせえ! 眠れねえだろ!!』


そう怒鳴った。怒鳴ったつもりだった。なのに、自分の耳に届いてきたのは、


「うぇえぇああああぁぁぁ~っ!!」


癇癪を起こしたらしい赤ん坊の泣き声だった。


『って…え? なんだ? まさかこれ、俺の声か……?』


と思うのだが、なぜかそんな思考もはっきりしない。酷くぼんやりとしていて、まるで夢の中で考え事をしているかのような。


『くそ…っ、なんだよ。頭がしゃんとしねえ……!』


なんてことを考えるのさえままならず、藍繪正真らんかいしょうまの意識は、まるで熱せられたバターのようにとろけ、形を失っていったのだった。


そして次に藍繪正真らんかいしょうまが意識を取り戻した時、目の前で男女が罵り合っていた。


『はあ……?』


とは思ったが、なぜか彼には分かってしまった。それが自分の父と母であると。


だが、おかしかった。その男女は明らかに藍繪正真らんかいしょうまの両親ではなかったのだ。


二人の名前は<館雀隆偉かんざくりゅうい>と<館雀妙香かんざくたえか>。明らかに藍繪正真らんかいしょうまの両親ではない。しかし、間違いなく<自分の両親>であることが彼には分かってしまう。


なぜなら、『今の』自分の名前は<館雀深鈴かんざくみすず>。年齢は三歳。このロクデナシ夫婦の長女としてこの家に生まれてしまった少女なのだから。


『なんだこりゃ……!? まさか、<転生>ってやつか……!?』


自分でも信じられなかったが、藍繪正真らんかいしょうまとしての記憶は確かにある。なのに、館雀深鈴かんざくみすずとしての記憶も確かにあるのだ。


どうやら、自動車に轢かれて死んだ後に、この館雀深鈴かんざくみすずという少女に転生、いわば<前世>に当たる藍繪正真らんかいしょうまとしての記憶がもどってしまったらしい。


『マジかよ…アニメじゃあるまいし……』


とは思うものの、鏡に映る自分の姿は、愛想の悪いひねた顔つきの幼い少女なのは間違いなかった。


『女に転生したのか…俺……』


が、自分に降りかかったそれに浸っている余裕はなかった。何しろこの両親、藍繪正真らんかいしょうまだった時の両親をはるかに上回る<クズ>だったからだ。


見るからに『まとも』じゃないそいつらは、子供の頃からの札付きの<ワル>で、父親の館雀隆偉かんざくりゅういの方は資産家である親から金の無心をすることで生活しているどうしようもない人間だった。そして母親の妙香も、中学の頃から隆偉とつるんでいたワル仲間であり、そのままの流れで結婚したという、こちらもどうしようもない人間である。


しかも、長女の深鈴を授かった時も、別に欲しかったわけでなく、堕胎おろす金を惜しんで後回しにしている間に人工妊娠中絶が可能な時期を過ぎてしまって生むしかなくなったから生んだという始末。


だから、当然、深鈴のことなど愛しているはずもなく、世話をお互いに押し付けているという有様だった。


それでも、生まれて間もない頃には近所の顔見知りの女性が深鈴を預かって自分の子のように面倒を見てくれていたのだが、その女性の夫が事業で失敗。多額の負債を抱えて夜逃げしたことで深鈴は両親の下に戻る羽目になってしまったという。


そうして、深鈴の地獄が始まることとなった。育児放棄と暴力だ。


食事は一日に一回出ればいい方だった。それもコンビニ弁当や総菜パンばかり。しかも両親は殆ど家にいなかった。二日に一度程度の割合でふらりと家に帰っては弁当などを置いていくだけである。


「…ごはんは…?」


空腹に耐えかねて深鈴がそんなことを口にしようものなら、


「は? あんた 親に指図するつもり!? 食わしてもらってる分際で何様!?」


などと怒鳴りながら小さな体が吹っ飛んで壁に叩き付けられるほどに激しくひっぱたいたりした。


『なにすんだクソババア!?』


藍繪正真らんかいしょうまとしての意識ではそう思うものの、なぜかそれは表に出ず、あくまで館雀深鈴かんざくみすずとしか振舞えない。


それで彼女が泣きだすと母親はさらに何度も叩いた。


無論その声は、近所にまで響いていただろう。しかし近所の人間は、『あれがあの家の方針だから』と口出ししない。


『くそ……っ! くそう…っ!! なんだよ、なんなんだよ……!!』


藍繪正真らんかいしょうまはそう憤るものの、どうすることもできなかった。


その一方で、この頃、隆偉りゅういは昔の不良仲間の先輩だった人間に誘われて風俗店の店長もしており、不景気の影響は受けながらも、性に対する人間達の欲望は失われることがなく、かつ隆偉自身も風俗店経営者としての思わぬ才覚を発揮してそれなりの稼ぎを得たりしていた。


だが、それは深鈴の生活環境を改善することには使われなかった。隆偉と妙香は事務所と称してマンションの一室を実質的な住居として自分達はそこで寝泊まりし、深鈴のことは痛みが目立つ元の家に置き去りにして、食事だけを、二日に一回、多い時でも一日に一回程度の割合で置いていくというだけの生活をしていたのだった。自分達は好き勝手に贅沢な暮らしをしながら。


『腹減った……』


空腹に苛まれつつ敷きっぱなしの布団にくるまって眠る深鈴とは対照的に、美味い食事を食べ宝飾品を買い漁り高級外車を乗り回してもなお、まだまだこんな程度じゃ幸せとは言えないと、隆偉と妙香は贅の限りを尽くそうとした。


しかし二人の精神は満たされることなく、飢え乾いた<何か>に常に苛まれてささくれ立ち、そしてそれは、まるでそうするのが当たり前だとでも言うかのように、歯向かうすべを持たぬ非力で幼い我が子へと向けられたのだった。


故に、藍繪正真らんかいしょうまとしての思考は行いつつも、理不尽な苛立ちをぶつけてくる両親の暴力に怯え、深鈴はいつもびくびくと他人の顔色を窺う陰気な子供へと育っていった。思考はできるのに、体の支配権は藍繪正真らんかいしょうまの方にはなかったのだ。


ただ一方で、深鈴が通っていた学校はイジメなどのトラブルの対応に熱心なところであったこともあり、学校でまでイジメられるようなことはなかったのは幸いだったと思われる。また、行けば給食にありつけるということも相まって、彼女は学校には欠かさず通った。家にいるよりはずっとマシだったから。


さりとて、口数少なく表情も乏しくいつも俯き加減で怯えたような様子を見せる辛気臭い彼女と積極的に仲良くなってくれるような奇特な生徒はそうそうおらず、酷くイジメられることはなかったものの、当然の如く孤立した存在にはなっていた。


学校側もそんな深鈴の様子には懸念を抱いていたのだが、児童相談所にも通告はするもそれ以上の踏み込んだ対応が取られることはなく、結果として苛烈な虐待が見過ごされたまま時間だけが過ぎていくこととなってしまっていたと言える。


こうして、誰にも救ってもらえない深鈴は、授業が終わっても、すぐには家に帰らなかった。学級文庫の本を読み漁り、それを読みつくすと今度は図書室に入り浸って本を読み漁った。そこに描き出される物語の世界に没入していると、その時だけは嫌なことを忘れることができた。彼女は、僅かな時間とはいえ自分が救われる方法を、自分で見付けるしかなかった。


三十過ぎの、年齢だけなら大人とも言える藍繪正真らんかいしょうまとしての知識などが活かせればまだもう少し何とかできたものの、それは適わない。


しかも、この頃には、藍繪正真らんかいしょうま自身、深鈴が感じている痛みも苦しみも同じように感じているはずなのに、どこかまるでテレビの向こうの出来事を見ているような隔絶感も同時にあって、歯痒い思いをしながらも諦めのような境地にも至っていた。


『どうせ俺が何考えたって無駄なんだろう…?』


と。


その後も、深鈴は、家に帰っても他にすることがなかったこともあり、彼女は宿題などはきちんとやっていた。二年生になる頃にはテレビなどを見て家事の仕方も自分で覚え、拙いながらも掃除や洗濯を自分でやった。両親が持ってくる食事を一度に食べてしまうのではなく、冷蔵庫に保管して何度かに分けて食べることを自ら編み出した。そんな中、両親は食べ物ではなく、現金を置いていくようになった。


「それで自分で何か買って食べな」


要するに自分が買ってくるのが面倒臭くなっただけだったのだが、これは深鈴にとっては逆に幸運だった。テレビで、スーパーなどでは終了時間近くなると弁当や総菜が安くなるというのを知り、近所のスーパーの営業終了直前に自分で出向いて半額になった弁当や総菜を買うようになった。これによって、それまでの倍近い食事にありつけるようになると、彼女はさらに知恵を絞り、金を使い切るのではなく少し残してそれを貯め、そして米を買って自分で炊くようにまでなっていった。


五キロの米を持って帰るのは幼い彼女にとっては大変な労力だったが、近所の空き地に打ち捨てられた錆だらけの台車に気付くとそれを拾ってスーパーまで行き、米を乗せて家に帰るようにもなった。


この頃になると深鈴もさらに知恵がつき、両親が家に顔を出す時には機嫌を損ねないように淡々と接するようになり、それでも機嫌の悪い時にはやはり八つ当たりされたが敢えて逆らうこともせず、金を置かれれば『ありがとうございます』とへりくだって丁寧に頭を下げ、聞き分けの良い<いい子>のふりをする詐術を身に付けた。すると両親は、


「やっぱガキはちゃんと躾けなきゃダメだな」


と、自分達のやり方が正しかったのだと満足げに笑うこともあったのだった。


深鈴は考えた。生きる為に。少しでも暴力を回避する為に。自分の毎日が平穏なものになるように。


するといつしか、<藍繪正真らんかいしょうまとしての意識>は完全に薄れていった。


藍繪正真らんかいしょうまがいなくなった』というよりは、館雀深鈴かんざくみすずの人格に統合され、深層意識の奥へと沈み込んでいったと言う方が正しいのかもしれない。


さらに、漢字が読めるようになってくると風呂の焚き方の説明書きも読めるようになり、自分で風呂が沸かせるようになった。


トイレももちろん深鈴が自分で掃除をする。しかも、かなり丁寧に。と言うのも、妙香が食事を持ってきたついでにトイレを使おうとすると汚れていたのにキレて、


「こんな汚いのが使えるか! ちゃんと掃除しろ! 舐められるくらいにピカピカにすんだよ!! お前、これが舐められんのか!?」


などと怒鳴りながら深鈴の顔を汚れた便器に押し付けたりしたこともあったからだ。それ以来、トイレは特に綺麗にするようにしていた。


そのような暮らしを続けているうちに、彼女は小学三年生になる頃には、ほぼ一人暮らしができるまでになっていたようだった。


それでも、暖かい時期にはどこからともなく得体の知れない大きな虫さえ入り込んでくる、この古めかしい家での夜はどこか恐ろし気で、深鈴はテレビのアニメに夢中になることでその不安を紛らわせようとした。


そして、アニメの中では、苦しいこと、辛いことがあってもそれらは必ず解決し、主人公達は最後には幸せを掴むことができた。たまにそうでないラストを迎える話もあったが、それでも多くの物語は幸せな結末が用意されていて、彼女も、


「私もいつかきっと幸せになれる…」


と自分に言い聞かせていた。


なのに、神だか仏だかはどこまでも残酷だ。


それは、深鈴が四年生に上がる直前の春休みのことだった。平日の夕方、彼女がいつものように一人でアニメを見ていると、玄関の方で人の気配がした。てっきり、両親がまた金を持ってきたのかと思って出てみると、しかしそこにいたのは全く見ず知らずの中年男だった。男は玲那の姿を見た瞬間、恐ろしい速さで走り寄り、彼女の口を押えた上で包丁まで突き付けて耳元で囁くように言った。


「みすずちゃん、だっけ? いつも一人でお留守番、偉いねえ。でも一人はさみしいだろ? だからオジサンが遊んであげようと思って来たんだ。大人しくしててくれたら怖いことはしないよ。オジサンと一緒に楽しくて気持ちいいことしようよ」


言葉は優しげだが、深鈴はそこに恐ろしいものしか感じなかった。そんな彼女の細い足を温かい液体が伝い流れていく。失禁だった。


「あららあ、お漏らししちゃったねえ。大変だ。すぐに着てるものを脱がないと」


男はその様子を見てさらに興奮したようにそう言いつつ、深鈴が着ていたワンピースの裾に手を突っ込んで、下着に手を掛けた。


「…あ…っ」


脱がされようとしていることに気付いた彼女は小さく声を上げて膝を合わせ抵抗を試みたが、男の目がギラリと光るのを感じ、幼い体は強張った。暴力の気配を察知し、彼女は無意識のうちにそれ以上の抵抗を諦めてしまっていた。両親からの暴力を避ける為に身についた習性が働いてしまったのだ。


そんな彼女を捕らえた男は、漏れた小便の所為でスムーズに下着を脱がすことはできなかったが、それが逆に男の興奮にさらに火を注ぐ結果になった。ぐしょぐしょの下着を床に放り出し、ワンピースの裾を掴みそれも脱がせた。ワンピースと下着しか身に付けていなかった深鈴はそれだけでもう身を守るものをすべて失ってしまった。


「っはははは! すごいね、みすずちゃん」


男の顔は真っ赤に紅潮し、下衆以外の何物でもない歪んだ笑みを浮かべながら彼女を凝視する。それでも彼女は抵抗しなかった。いや、できなかった。恐ろしくて不快で気を失いそうなほどにおぞましいのに、体が動かないのだ。下手に抵抗するともっと酷い目に遭わされるという恐怖が勝ってしまっていたのだろう。


「いい子だね、みすずちゃん。それとも前からこういうことに興味あったのかなぁ?」


恐ろしさで抵抗できないだけの彼女に対し掛けられた言葉は、あまりに下劣かつ卑劣なものであった。しかし男はそんな自分にさえ酔い、少女を己の支配下に置いているというこの状況だけで果ててしまいそうになる自分を必死に抑えていた。


「すごい、すべすべだ。すごい…!」


ほぼ思考停止の状態にある深鈴の体を男は撫でまわし、その感触を存分に味わう。皮肉なことに、まともに食事がとれるようになったことで彼女の肌は潤いを取り戻していたのだ。以前はもっとカサカサして手などはそれこそ酷く荒れていた時期もあったというのに。


なおこの時、館雀深鈴かんざくみすずには性に関する知識はまだ殆どなかったが、自分がこれからとんでもない目に遭わされるのだということだけは本能的に察していた。なのに、やはり体が動かない。それどころか思考すらまともに機能しない。


無論、とうに消え失せた藍繪正真らんかいしょうまとしての意識も戻らない。


「や…だぁ…こわいぃ……」


と、文字通り蚊の鳴くような声で深鈴はそう訴え、男の体を押し退けようとした。少女にできる精一杯の抵抗であった。だがそれすら、男にとってはただのスパイスにしかならなかったらしい。


「あ…つ…っっ!」


男がぐいっと体を押し付けてきた瞬間、深鈴は、焼けた金属の棒でも刺されたのかと思った。まさに<刺された>痛みだった。それを、少女の脳が熱さと誤認したのだ。その途端、ぼろぼろと涙が溢れた。知らない男に尖った鉄の棒か何かを腹に刺されて自分は殺されるのだと彼女は思った。何一つ楽しいことのない、苦しくて辛いだけの短い人生の最後がこれだとは……


後はもう、それこそ何も考えられなかった。自分は串刺しにされて殺されてしまったと思い込んだ彼女は、考えることを止めてしまっていた。そんな中でも痛みなのか熱さなのかよく分からない感覚はずっとあったが、それすら『死んだらこうなるんだ…』くらいの認識でしかなかったのだった。少女の体は、人形のようにぐったりとなっていた。


それから、どのくらいの時間が経ったのだろう。ひんやりとした板間の床の冷たさを感じ、深鈴の意識は急速に覚醒していった。


「……」


静かだった。何の気配もなかった。視線の先には、すすけた陰気臭い天井だけがあった。ゆっくりと辺りを見まわすと、誰もいなかった。自分一人だ。


『…ゆめ……?』


ぼんやりとした思考の中でそんなことを思ったが、少し体を動かそうと身を捩ると、ビリッとした痛みが下半身から背筋を奔り抜けた。


「……あ…」


痛みを感じた先に視線を向けると、そこには血まみれの自分の下腹部と脚が見えた。床に打ち捨てられた下着とワンピースも見えた。


『ゆめじゃ…なかったんだ……』


深鈴は再び頭を床に下ろし、両腕で顔を覆った。涙が勝手に溢れ出して、「…ひっ、っぐ…えぐっ…」としゃくりあげてしまう。止めようとしても止まらない。


彼女は泣いた。古びた家に、ぼろ雑巾のようにボロボロにされて一人捨てられたことを思い知らされて、


「うぁあぁぁん」


と声を上げて泣いた。なのに、その泣き声を聞きつけて救いの手を差し伸べる者さえいない。だから彼女はとにかく泣き続けるしかできなかった。喉が痛み、胸が痛んだが、彼女はひたすら泣き続けた。


泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣いて、泣くことにさえ疲れてしまって、それから彼女はゆっくりと体を起こした。


『お風呂…入らなくちゃ……』


血まみれの自分の下腹部と脚を見てそう呟き、殆ど夢遊病者のように呆然としたままで風呂釜のスイッチを入れ、風呂が沸くまでの間に下着とワンピースを洗濯機に放り込み、自分の小便と血と男の精で汚れた床を、彼女は雑巾で拭いた。


下腹部にズキズキとした痛みがあったが、我慢できない程の痛みではなかったから気にしないようにした。それよりも、何度もドロッとしたものが垂れてくるのが困った。男に刺されて自分の体の中にあるものがこぼれ出てきてるのかと不安になったが、それもしばらくして収まったから少し安心した。


沸いた頃を見計らって風呂に入って体を洗った。男に体中を触られ舐められたことを思い出してしまって、それを洗い流したくて何度も何度も洗った。体を洗ってるとまた涙が勝手に溢れてきた。


深鈴は、そのことを誰にも話さなかった。話せる相手もいなかったし、話したところでどうにもならないと思っていたからだ。


それから数日後、彼女を襲った男が、別の少女に乱暴しようとしたところを取り押さえられて逮捕されたというニュースが流れたが、深鈴がそれを知ることはなかったのだった。




この後も、彼女の毎日は本当にロクなものじゃなかった。自分の娘がそのような目に遭ったことを知ろうともしなかった両親はこともあろうに彼女を自分達が新たに始めた派遣型風俗店に所属させ、客を取らせ始めたのである。


僅か十歳の少女にだ。


幼い少女に、両親に逆らう力などなく、彼女は、泣きながら両親に命じられるままに客を取った。いや、取らされた。


何人もの下卑た大人達が彼女を弄び、玩具おもちゃにした。


そしてそれは、彼女が小学校を卒業するまで続くことになる。


が、さすがにそのようなことはいつまでも続かなかった。小学生の少女が売春を行っているという噂は警察の耳にも入り、しかも深鈴を買った客の一人が別の少女に対する暴行の容疑で逮捕され、両親に売春を強要されている少女についての証言が得られると、当然のように内偵が始まり、深鈴が中学に上がる直前、両親は逮捕され、彼女は児童保護施設で保護されることになった。


地獄のような時間はようやく終わりを告げたのである。


しかし、悪鬼の如き大人達によって徹底的に傷付けられ磨り潰された深鈴の<心>は、完全に機能不全を起こしていた。感情を失い、情動さえまともに機能せず、館雀深鈴かんざくみすずという少女は、心を持たないロボットのような存在となっていた。


だが、中学に上がって、一応、学校にも通っていた彼女は、そこで運命の出会いを果たすことになった。


養護教諭の徳来とくらいほのかと、クラスメイトの真行寺美鈴しんぎょうじみすずだった。


徳来とくらいほのかは、深鈴のような苛烈な虐待を受けた児童のケアを専門とする養護教諭で、彼女のことを本当に親身になって見てくれた。


そして、同じ<みすず>という名を持つ縁に加え、深鈴と同じように苛烈な虐待を受けてきた真行寺美鈴しんぎょうじみすずが、家族のように寄り添ってくれたのである。


この二人の存在によって、深鈴は救われることとなった。


破壊しつくされ磨り潰されたはずの深鈴の<心>を、徳来とくらいほのかと真行寺美鈴しんぎょうじみすずが育て直してくれたのだ。


こうして、大学に進学する頃には、深鈴は、一見しただけなら普通にも見える女性へと成長していた。


とは言え、いまだに他人と関わるのは苦手だし、特に男性はまったく駄目だった。


それは真行寺美鈴しんぎょうじみすずも同じであり、深鈴と美鈴は、そうするのが当然だといわんばかりに恋人同士のような関係になっていった。


互いに互いを支えるためにはそれが一番だったのだろう。


ただ、美鈴の方は、まだ大きな問題を抱えていた。


「美鈴! またなの!?」


講義の後で、児童養護施設の補助員のアルバイトをしていた深鈴が家に帰ると、美鈴が左手を血まみれにして横たわっていたのである。<リストカット>だ。


ストレスが溜まってくると、美鈴は自身の手首にカミソリの刃を当てずにいられない衝動を抑えられなくなるのだった。


「ごめん……」


そう謝られると、深鈴はそれ以上、強く言えなくなってしまう。そもそも、言ったところで何の解決にもならないことは彼女にも分かっていた。ただ、ストレスを溜めすぎないように気を付けるしかない。


そうして二人は肌を合わせ、互いを慰めあった。そうすることが一番の方法だった。


「お願い……あまり心配させないで……」


「本当にごめん……」


このようにして、危ういながらも二人はささやかな幸せを育んでいったのである。


それなのに……




その日、深鈴は、美鈴の誕生日だということでプレゼントを手に、家へと帰った。


「美鈴~、ただいま~♡」


弾む声で呼びかけたのに、返事がない。


「…!」


瞬間、彼女の背筋を冷たく固いものが奔り抜けた。たまらない不安が心を鷲掴みにしてくる。


「美鈴っ!?」


リビングを見ても寝室を見ても美鈴の姿はなかった。そしてバスルームを開けた彼女の目に飛び込んできた光景。


それは、真っ赤な湯が満たされた風呂に左腕を浸し、ぐったりとなった真行寺美鈴しんぎょうじみすずの姿だった。




「あ……あぁ……あぁあぁぁああぁぁぁぁあああぁぁぁーっ! 美鈴ーっっっっっ!!!!!」










これは、ある殺人犯に対して行われた<矯正教育>の一部である。


現実と区別のつかないVRの中で改めて<人生>を追体験させ。そこでかけがえのない相手と出会わせた上で死別させることで、


<大切な人を喪う恐ろしさ>


を実体験させるのである。


また、今回のように、


真行寺美鈴しんぎょうじみすずが亡くなる』


という形ではなく、大人達への憎悪を抑えられなかった館雀深鈴かんざくみすずが殺人を犯し、それによって母親のように慕っていた徳来とくらいほのかと、姉妹のように彼女を支えてくれた真行寺美鈴しんぎょうじみすずが地獄の苦しみを味わうというパターンのシミュレーションもある。


もちろん、登場人物もシチュエーションも、被験者の性格などに合わせるために無数に用意されている。


今回の被験者である藍繪正真らんかいしょうまは、


アニメなどをよく見ていたこと、


館雀深鈴かんざくみすずよりはマシな境遇であったこと、


等の観点からこのような内容になったとも言えるだろう。


また、これは実際にあった事件の関係者が、『何らかの教訓として役立ててほしい』として残していた記録を基に構成されたシミュレーションだった。他のパターンも基本的には実際にあった事例が基になっている。


これの効果は絶大で、それまでは自分に関わりのない他人のことなどゲームのキャラクター程度にしか見ていなかった冷酷な快楽殺人犯であっても、自分の大切な人が喪われるとその事実に取り乱し、己が何をしたのかを思い知り自らの行為を悔いるようになるのである。ほぼ百パーセントの確率で。


藍繪正真らんかいしょうまが途中から『藍繪正真らんかいしょうまとして思考しなくなった』のも、自身がもう館雀深鈴かんざくみすずそのものなのだと思い込んでしまったからだろう。


それくらい影響力があるのだ。人格そのものが変化してしまうほどに。


その上で終身刑に服す。


これは刑罰ではなく、先ほども言ったとおり受刑者に対する矯正教育の一環なのだが、残酷すぎるということで見直しの議論すら度々おこるほどのものだった。


とは言え、星歴が始まるさらに一千年も前、まだ西暦が残っていた頃に死刑制度が完全に廃止されてから三千年。それに代わる刑罰として懲役付きの終身刑などが試された上で、シミュレーション技術の向上により導入された制度なので、さすがに見直し派が大勢を占めることはなかった。これを廃止するなら死刑制度の復活をという極論まで出る始末だったからだ。


まあそれは余談なので横に置くとして、とにかくそれほどまでにリアルだということだ。


なのに、その中ででもメルシュ博士は嬉々として実験の為に次々とシミュレーターの中で生きている人間達を殺していくのである。


もちろんそれは博士がこれをシミュレーターであると分かっていてやっているというのもあるのだが、完全に現実と区別のつかない存在が、悲しみ、泣き、苦痛を訴えていれば、普通の人間はそこまで割り切れない。それが人間の心というものだ。


にも拘らずそれができてしまうという時点で博士のサイコパスぶりが十分に立証されるというものなのだ。


その上でなお現実においても違法な実験を繰り返す人物として危険視もされてきたし、批判する者も多かった。そしてその懸念は事実だった。何しろ本来の自分を実験の材料に使い、妊娠させ、そうしてできた子をわざと死なせたりするのである。


それはつまり、我が子を実験に使って殺しているということなのだから。


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