第53話 八月八日
波乱の一日だった。
思い返すだけでも、どっと疲れが押し寄せてくる。今年の八月八日という日は、忘れられない一日になるだろう。
……とはいえ、決して悪い思い出ではない。少なくとも旭にとっては。
「あ~、まだ遠い。どんだけ飛ばしてくれてんのよあのサッキュバスは……」
スマホのナビで道順を確認し、真彩がぼやく。
リリスのワープでここまで連れてこられてしまった結果、旭達四人は徒歩での帰宅を強いられていた。
というのも、勝や掃儀屋の面々は抉れた山肌に関する諸々の処理をしなければならないらしく、旭達を送り届ける余裕がないらしい。また、迎えを呼ぼうにも手元にあるデバイスが真彩の格安シムのサブスマホのみ。電話もマトモにできないのだ。
そもそも、迎えを呼ぶのにどんな言い訳を使えばいいのかという話もある。
街から歩いてニ時間ほどという、そこまで遠くない場所に飛ばされたのが不幸中の幸いか。
「そこのコンビニで休憩しましょう……」
暁火の提案に、一同が頷く。下手をすると日付が変わってしまうが、ノンストップで進めるほど元気でもなかった。
最後まで濃密な一日になりそうだ。古びたアスファルトを踏みしめながら、旭はぼんやり考える。
それからしばらく歩いて、ようやっとコンビニへ辿り着いた。
風除室を抜け、ぞろぞろと入店する。あくびをしていたバイトの女性が、急な来店者に背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませー」
こんな時間に働くのは大変だろうななどと思いながら、歯抜けの棚を眺める。そう言えば、お金を持っていなかった。
「なんか食べる?」
四人の中で唯一支払手段を持っていた真彩が、全員分の夜食を奢ってくれるらしい。
「あー、じゃあ……」
しばらく考え、焼きおにぎりとコーヒーを選んだ。最初は甘いものを選ぼうかと思ったのだが、なんとなく格好がつかない気がしてブラックに変えた。
「へえ、ブラック飲めるんだ」
「ええ、まあ……」
これが初めての試みであったことは、内緒にしておこうと思う。
焼きおにぎりと、美味しさのわからないコーヒーを飲み下してから、再びガードレールに沿って歩く。夜風のおかげか、夏真っ盛りであるにも関わらずさほど暑さを感じない。
だからだろうか。緩い坂を含んだ長い道のりも、さほど苦にならない。
「次はいつ帰ってくるの?」
「大家さんに、お盆は帰れって言われたから、それぐらいに」
姉の帰省予定(公式)を確認し、どのタイミングで父に伝えようかと考える。忙しいだろうが、早く教えてやれば仕事の励みにもなるだろう。
「そういえば、暁火ちゃんはなんでわざわざ一人暮らしを?」
「行きたかった学校が遠かったもので……」
その理由、半分は嘘である。電車を乗り継げばそこまで時間はかからない。彼女がこの家を離れた一番の理由が反抗期にあるのは、弟の旭から見ても一目瞭然だ。
あの時は大変だった。父には姉を説得するよう頼まれたし、姉からは連日愚痴を聞かされ板挟みの日々。旭がキレそうになったあの日は記憶に新しい。結局、怒りを飲み込んだ旭が交渉の場をセッティング。壮絶な親子喧嘩の果てに、父の親戚が大家を務めるアパートに住むという条件で許可されたのだった。
「なるほどねえ……」
暁火の言い分をすっかり信じ込んでいるらしい。真彩は夜空を眺めて独りごちる。
「偉いなあ、一人暮らししてまでやりたいことやれるなんて」
いろいろと言いたいことはあったが、姉の名誉のためにも黙っておくことにした。
のだが。
「……反抗期か」
ルディがボソリと吐き捨てる。くだらないとでも言いたげな態度だった。
「べ、別にそんな理由じゃ……」
否定の言葉を口にしかけた暁火は、しかし旭を一瞥してから口をつぐんだ。いろいろと手間を取らせたことを思い出したのだろう。
彼女が現在の生活に満足しているのなら、旭としては別に構わないのだが。
そんな彼女の様子を見て、ルディは珍しくフォローを入れた。
「いや、誰にでもあることだ。恥ずべきような話じゃない」
果たしてそれはフォローになっているのだろうか? 因みに旭の反抗期は母が亡くなった頃から一年ぐらいだった気がする。
バツが悪くなったのか、暁火はこんなことを訊ねた。
「そう言うルディさんには反抗期ってあったんですか?」
どうせ真面目な答えなど返って来ないのだろう。多分、この場にいる誰もがそう思っていたはずだ。
しかし、彼女はこう言った。
「……ああ。あったよ、私にも。あった……いや……。まあ、そうだな。あった」
少しばかり口ごもったのは、なにを思ってのことだろうか。
歯切れこそ悪かったが、しかし彼女は確かに肯定した。煙に巻こうとも、誤魔化そうともせずに。珍しいなと、旭は思った。
彼女は、自らの生い立ちやこれまでの人生をわざわざ口にしようとはしない。それがなぜなのか、旭には知る由もないのだが。
「……それはよろしいのですが」
気まずくなったので、旭は話題を変えた。
「ここ、実は地図に載ってない近道があるんですよ」
ついさっき、道の形を見て思い出したのだ。
「そうなの?」
「あ、そういえばあったよね」
旭と暁火は知っている、地元民の、その中でもごく一部のみが知る近道。冬は雪や凍結で通れたものではないが、夏場ならむしろ涼しいぐらいで丁度いい。
「そうだな、無駄に歩くこともないだろう。旭、案内しろ」
「はいおまかせあれ」
ぐねぐねと曲がった車道を避け、獣道に入った。始点こそこのような荒れ地だが、少し進めばすぐに舗装道路になる。傾斜は増すが、距離がかなり短くなるのでプラマイゼロ。時間短縮できる分がアドだ。
そんなこんなで、思ったよりもだいぶ早く街についた。
「……あれ?」
街の様子に、ふと違和感を覚える。
なにやら騒がしいのだ。
能売川温泉街は観光地だが、メインターゲットとなる年齢層が高いこともあり、この時間帯は静寂に包まれている。いつもなら、そうだ。
しかし今は違う。
人々が軒先から顔を出し、どこか遠くを見つめている。皆一様に、見慣れぬものを見るように、その一点を眺めている。
旭達も釣られて、視線の先に目をやった。
――能売川温泉、瀬織。
旭の実家たる旅館が、衆目に晒されていた。
「これは一体どういう用件だ?」
「とにかく戻ってみよう」
真彩に先導され、旭達は中参道りを駆け上がる。疲れなど、とうの昔に吹き飛んでいた。
駆け上がった先、エントランスには救急車が停まっている。宿泊客からなにか……例えば、急性アルコール中毒でも出たのだろうか。確かに、年に数度はあることだ。
だが、様子がおかしい。
患者を乗せ、走り去る救急車。どこか遠いサイレンの音を聞きながら、旭は再三訪れた違和感の正体を探る。
そして、気づいた。
患者の見送りに、父が出てきていないのだ。
どんな時間でも、どんなに忙しくても、宿泊客に急患が出れば必ず父は見送りに来る。それなのに、今はそんな父の姿がどこにもないのだ。
「旭! こんな時にどこ行ってたんだ!!」
声とともに肩を掴まれる。色だ。
「あ、ごめんなさい……ちょっと、用事があって」
「なにがあったんですか?」
色も慌てているらしい。真彩の問いかけに、息を切らしながら答えようとして咳き込んだ。
「……失礼」
咳払いして喉の調子を整えた色は、一度深呼吸してから旭に向き直った。膝を付き、目線の高さを旭に合わせる。
「旭、よく聞いてくれ」
両肩に手を置かれた。血管と骨が浮き出て、ごつごつとした手だ。置かれた掌からは、脈拍とともに焦燥が伝わってくる。
「雄飛さんが……お父さんが、脳出血で倒れた」
それは思ってもみない出来事で、旭の思考を遠ざけていく。現実感がない。色が口にした単語の意味はわかるが、現実に何が起きているのか理解できない。
そんな、夢と現実が曖昧になる、ぼんやりとした思考の中で。
今日は忘れられない一日になりそうだなと、旭は思った。
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