第61話 じかんのすすむそくど

 次の日の朝早く、ララ、リリ、ルル、ラリル三姉妹の父親がやってきた。名前はネスさん。うちのピアノのお医者さんでもある。


「すまないね」


 ネスさんは、開口一番僕にそう言った。僕は、何に対する謝罪なのかもイマイチ分からず、曖昧に頷いた。


「今日は、お代を支払いにね。話を聞いた限りじゃ、結構ルルの飲食代がかさんでるだろう?」


「まぁ、それなりに」


 よく食べる子ですから。と、頻度に関しては誤魔化して、毎日メモをしていたルルの飲食代の集計をすると、ネスさんにも確認を求めた。パラパラとそれをめくると「思ったよりもだね」と笑ったけれど、怒った様子はない。


「成長期の子ですから」


「そうだね。うっかりしていた、娘たちは成長期なんだ。親に隠し事のひとつもするようになる」


「当然ですよ、ネスさんもそうだったでしょう?反抗したり、隠し事をしたり」


「もう随分昔の話だけど、私にも覚えがあることは間違いない」


 僕は、ネスさんにホットミルクを差し出す。ネスさんは、コーヒーが苦手なのだ。


「それにしても、娘たち...ですか」


「ああ、ルルはもちろんだけど、ララとリリにも困ったよ」


 よくよく考えれば、いつも一緒のあの三姉妹が、ルルのサボりを知らないはずもない。黙認していたのだ。


 仲良しの末妹の悩みを推し量り、自分たちもきっと、悩みながら。


「親からしてみたら一斉蜂起ですか」


「たまったものじゃないよ。昨日、学院の教師から便りが来てから、妻は烈火の如くだしね」


 家庭唯一の男性であるネスさんの苦労を思うと、少し苦笑いが漏れた。


「ルルは、なんて言ってるんですか」


「それが、サボりの理由を聞いてもだんまりだ。それで、さらに妻は怒ってね」



「年頃だから、理由もなくサボりたくなる時もあるだろう。なんて言ったら、私まで妻から大目玉を喰らって、困ったもんだ」とネスさんは笑うけれど、それはルルにとって随分な救いだったのではないだろうか。


「しまいには、明日からルルを学院まで自分で送り届けると聞かない。妻はやると言ったらやる女でね...しばらく、ルルはここには来れないかもしれない」


 もしかすると、少し長く待つ必要があるかもしれないなと、そう思った。


「そろそろ行くよ、ナギくん。愚痴みたいになってしまって悪かった」


 そう言って立ち上がり、向けた背にひとつだけ言葉をかける。


「ネスさん、ルルは僕に『まだ』って、そう言ってました。だから、もう少しだけ、待ってあげてください」


 ネスさんは振り返ることなく、その言葉を聞き届けると、ドアを開ける寸前こう言った。


「私達にはだんまりのルルが、ナギくんにはそう言ったんだ。きっと、待つべきはナギくんなんだろう。時に親とは、味方なだけの存在ではないからね」


 ドアが閉まるまで、僕はその背中を見続けていた。


 手元に残った、少しまとまったお金が、なにかの区切りみたいで、とても嫌だった。


 そんな事があっても、お店は続くし、僕の普遍的な日常はずっと流れゆく。


 ベーコンを焦がすことも、コーヒーの温度を調節し忘れることもなく、何も変わらない。


 そんな日が何日も続いた。サボりの日を埋めるくらいの、ルルが来ない日が続いたあとの夕方、ドアベルが鳴った。


「...いらっしゃい、ルル」


「...ん」


********************************************


 ルルは迷いない様子で、いつものカウンター席に腰を下ろした。だが、うつ伏せになりはしなかった。


 一日学院で学んできたのであろう疲労感は感じられるけれど、それ以上に僕を見る目に何か宿っているものがあった。


 準備は整ったのかい?とそう尋ねる代わりに、僕はコーヒーを出した。それを変わらぬ通り小さな一口を飲むと、深呼吸をした。


「…ナギ、お話…聞いてくれる?」


「もちろん」


「私…お話するの上手じゃないから…時間かかると思う」


「コーヒーのおかわりならいくらでもある。ゆっくり行こう」


 ルルが少しホッとした顔をした気がした。その表情を皮切りに、ルルはいつものスピードで語り始める。ルルの世界のスピードで。


「一日目は…出来心?だった。その日の前の日に…すごく嫌な事があったから…なんとなく、行きたくないなって…ララとリリに嘘をついて、ふらふら街の方に逃げた…」


 よく覚えている。いつもの無表情で分からなかったけれど、来る時間を含めて、その日のルルは何だかおかしかった。


「…ナギのとこ来てからは…楽ちんだった。落ち着いて…帰るまで安心。でも帰ったら、ララとリリにも、ママにもパパにも嘘ついたって…悲しくなった。それに、ナギ…パパと友達だから、言いつけられるかもって…思ったら怖かったから…次の日はちゃんと学校に行った…」


 時々詰まりながら、時にコーヒーで舌を湿らせながら、ルルは話す。子供の本音を、ありのままの感情を。


「でも…何日か行ったら…また嫌な事があって一日お休みするようになった…その度にここに来た」


 一体、どんな気持ちでルルはカウンターで寝息を立てていたのだろう。いい夢は、見れていたのだろうか。


「ナギは…何も言わなかった。だから、ここに来れば嫌な事がないんだって思ったら…みんなに嘘ついてここに来る頻度も…その…多くなった」


「うん」


「でも…ママにバレた…時間の問題。わかってたけど…まだ勇気がなかった…」


「サボる契機になった出来事を、お母さんに言うのが?」


「それも…ある…ママ…きっと悲しむから」


 どうやら、サボる理由となった悲しい出来事というのは、ルルの問題だけではないらしい。それが、ルルの体を縛る鎖になっている。三姉妹で一番優しい子だと評されていたルルだからこそ。


「その、悲しいこと、言える?」


 ルルがこくりと頷くまで、どれくらいの時間があっただろう。長かったのかも、短かったのかもしれない。


 時間の流れは止まらない。でも、人によって違う。ルルの時間を縛るものを、取っ払う第一歩の時間は、確かにここに。

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