第24話 名前とビーフシチュー

 日中は寒く、日が暮れると薄ら寒い、服装に困る季節になった。この街『ユグドラシル』を優しく見下ろす世界樹も、この季節は色づき、とても綺麗になるらしいので僕は楽しみにしている。ちなみに冬になっても枯れ落ちることはなく、冬は冬で積もる雪景色が綺麗なんだそうな。


 そんな日の、まだ暖かな昼時のことである。


「ナギくん、昨日は参加できなくてごめんね」


 学院が始まったため、ティアラはいない。夏休みですっかり慣れきってしまった彼女の姿がないのは、なんだか変だけれど、本来はこちらが常だ。感覚を早急に戻さなければならない。


「いえ、ラルフさんもお忙しい時期でしょうし。むしろ、こちらがお祝いしなきゃいけないぐらいですよ。第一子のご出産、おめでとうございます。」


 パーティーの翌日の話だ。喫茶店には、一人の素朴な男性が訪れてくれていた。名前はラルフさん。

 一年と少し前に結婚したという、お嫁さんをこよなく愛する、小さな商店の店主である。


 パーティーの数日前、店に来てくれた際に「妻が臨月で」と緊張した面持ちで語っていたのだが、おめでたいことに、無事二日前に第一子が誕生したそうだ。


「ありがとう。僕もついに父親だよ」


「今の僕には想像もつかない言葉ですね」


「ナギくんも、いずれ、ね」


 父親というか「親」か。いずれ僕もそうなる日が来るのだろうか。


「そういえば、女の子だったそうですね。ラルフさんはとても可愛がりそうです」


 僕がそうクスリと笑いながら言うと、ラルフさんは「妻にも言われたよ」と、照れ臭そうに笑った。

 お嫁さんを、憚ることなく溺愛するラルフさんなら、きっと目に入れても痛くないほどに愛することだろう。


「お待たせしました。コーヒーです。いつも通り、砂糖二杯と、ミルクひと回ししてあります」


「ありがとう。ホッとしたら、これが飲みたくなってね」


 僕には本当に想像もできないことだが、子供が生まれる瞬間の緊張というのはどれほどのものなのだろう。母子ともに健康だった時の、安心感も。

 その重圧から抜け出した後に、この一杯を思い出してくれたのなら、嬉しいことこの上ない。


「出産祝いということで、そのコーヒーと、何か料理一品ご馳走しますよ。何がいいですか?」


「あはは、そういうことならありがたく頂こうかな。そうだな、少し肌寒くなってきたし、何か温かいものをくれないかな」


「わかりました。すぐ作りますね」


 僕は、それきたと言わんばかりに、寒くなってからの試作品として作っていた、ビーフシチューを温め始めた。


 朝から煮込んでいた、ビーフシチューは、お肉がトロッとしていて、ジャガイモやニンジンなんかも、野菜本来の味が味わえる柔らかさになっている。

 僕が、焦げ付かないように鍋をかき混ぜていると、ラルフさんは、カバンからノートの切れ端のようなものと、鉛筆を取り出して、何か真剣に考え込み始めた。


 何かを書いては、首を傾げ、何かを書いては唸り、シチューが湯気を上げる頃には、動かしていたペンは止まっていた。


「お待ちどうさまです。僕特製のビーフシチューです」


「あ、ああ。ありがとう。これは美味しそうだね。いい匂い」


 ラルフさんは、それは集中していたようで、僕がビーフシチューを目の前にコトリと置くまで、周りの音さえ聞こえていないほどだった。


「どうしたんです?そんな真剣に考え込んで…」


 スプーンを置くついでに聞いてみる。幸せの絶頂にいるラルフさんが考え込んでいるのだ。何か、力になれることがあるのならしてあげたい。


「ああ、実はね…娘の名前を考えてるんだ」


 とか思ってたら、すごく幸せな悩みだった。でも、子供の名前か。


「すごく重要ですね」


「重要で重大なんだよね…」


 何たって、一生涯使い続けるものだ。それに、親があげる最初のプレゼント。そりゃ頭を極限まで悩ませるわけだ。


「ちなみに、どういうところで迷ってるんです?語感とか、こんな意味を込めたいとか…」


「うん…やっぱり、こういう人になって欲しいという願いを込めたいというのもあるし、可愛いのにしてあげたいんだ」


「なるほど」

「それにね、何だか特別な名前にしてあげたいんだ」


「特別、ですか」


「そう、なんか、娘が自分の名前を言えるように、書けるようになった時。気に入るような、埋没しないような、そんな名前」


 ラルフさんは、今まで見たことないような、切実な顔をしてそう言った。もしかすると、こういうのを親の顔というのかもしれない。


「奥さんはなんて言ってるんですか?」


「ああ、妻は妻で考えておくから、私も私で、候補を考えておいてと言われているという訳なんだ」


 ラルフさんは、腕を組み、再び頭を悩ませ始める。あの、温かくなくなっちゃいますよ?ビーフシチュー。


「あの、ラルフさん」


「うん?」


「僕、一つだけ、今のラルフさんの話を聞いて思うことがあるんですけど、言ってもいいですか?」


「おお、是非とも。何かの参考になるかもしれない」


「ええっと、じゃあ。名前なんですけど、特別じゃなくても、いいと思うんです」


 僕がそう言うと、ラルフさんは意外そうな顔をする。


「何でだい?」


「名前は、自分を表す代表的なものです。それを特別にしてあげたいっていう、ラルフさんの気持ちもわかります。でも」


「でも?」


「特別ってことは、人と違うということです。特に名前は、自分より、他人の方が多く呼び、使うものです。それが、人より目立ってしまうというのは、一長一短だと思うんです」


「む…」


「一生胸につける名札が、皆は白色なのに、自分だけ赤色なのは、人によっては誇らしいかもしれません。でも、人によっては、それが嫌なこともあります。特に、子供のうちには」


「………」


 僕がいた日本でも、キラキラネーム。なんてものが、話題になったりしていた。僕のクラスにもいて、本人は、卒業式なんかで名前を呼ばれるのを嫌がっていた。さすがに、ラルフさんも、キラキラネームほどのことは考えていないだろうけど。


「なるほど、確かに一理あるかもしれないね。まだ娘がどういう性格かわからない以上、勇み足になりすぎるのは良くないのかも。僕はちょっと焦っていたのかな」


「そうかもしれません。せっかくなので、落ち着いてゆっくりと考えてください」


 僕はその後に「ビーフシチューでも食べて」と続けようとしたのだが、ラルフさんは、それを遮るように次の言葉を投げかけてくる。


「なら、ナギくんなら、何を基準にに名前を決める?参考までにさ」


 あの…ビーフシチュー…


「僕、ですか?残念ながら、父親になったこともなければ、名付け親をしたこともないので、あんまり参考になるとは思えませんが」


「本の雑談程度に思ってくれればいいよ」


「それでいいなら…そうですね。僕なら、ただ一つだけ、これだけは持って欲しいと思うものを込めて名付けます」


「というと?」


「例えば、お礼を言える人になって欲しい。人に助けてを言える人になって欲しい。そんな感じで。きっと、自分の名前を書いたり、頭に浮かべたりするときに、それを再確認してくれるような気がするので」


「………」


「名前って、歳をとるにつれて、呼ばれる機会が減っていくものだと思うんです。他に呼ばれる名称が増えるので。例えば、パパ、ママ、お父さん、お母さん。仕事場なら、役職で呼ばれることも増えるでしょう」


 僕も、今は「ナギくん」や「ナギ」と呼ばれているが、威厳がつけば「マスターなんて」呼ばれる日も来るかもしれない。

 もし、誰かと結ばれたら「あなた」なんて呼ばれたり、子供ができて「お父さん」と呼ばれる日も来るかもしれない。

 そうして、名前の他に自分を表す名称が増えていく。そして、次は自分が、誰かを名付ける側になっていく。そうやって、バトンリレーみたいに繋がっていくものだと思うから。


「そうして、自分が名付ける側の大人になるまでの間に、これだけは忘れずに育ってほしい。そんな思いを込めた名前にすると思います。すいません、長々と」


 今、思い返せば、僕は親に何回名前を呼んでもらっただろうか。親が僕の「凪」という名前に込めた想いも、聞いたことがない。

 もう、それを聞く機会もないのだと思うと、少し寂しい。


「そうか。素晴らしい考え方だと思うよ。たとえ平凡な名前でも、私たちが大事に思いを込めれば、それでいいのかもしれないな」


「ええ、きっとそうです。親から与えられた名前が特別じゃなくても、絶対にその子だけの、特別なものを誰しもが持ってます。それに、たとえ平凡でも、何回も呼ばれて、それを自分の名前だと実感して。そんな風に、染み付いていく頃には、きっと好きになれますよ」


 僕は、一つ咳払いをすると、


「このビーフシチューが、煮込めば煮込むほど味が染みて、美味しくなるのと一緒ですよ。名前もきっと」


 すっかり冷めたビーフシチューを指差してそう言ったのだった。


 結局、ビーフシチューは温め直して、食べてもらった。彼は、美味しそうに完食すると「一度帰って娘の顔を見ながら、ゆっくり考えてみることにするよ」と言って帰路についた。


 帰り際に「すごく含蓄があったよ。ナギくんの言葉。もしかしてっ隠し子とかいたりする?」などと、あらぬ疑いをかけられたので、必死に否定しておいたが。


 次にラルフさんが来店した時は、こっそり尋ねてみようと思った。「どんな願いを込めたんですか?」なんて。

 

 僕は、親が持って欲しかった一つのものを、今違う世界でも持てているのだろうかと、そんなことを考えながら。

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