6話 もらい事故


 今日、俺のよく言えば平穏、悪く言えばつまらない生活に少しだけひびが入ってしまった。


 その原因は当然ながら先程俺がいじめを無視してしまったことだ。


 ──にゃあ


 いや、しまったと言う表現はあまり適していないかもしれない。『しまった』には後悔や反省の意味が込められている様に感じる。


 つい怒って『しまった』、殴って『しまった』、無許可でおっぱいを触って『しまった』とか大体後悔しているようなニュアンスを含む。……最後はあんま反省してなさそうだが。まぁ大方そんな感じだろう。


 しかし、今の俺はいじめを放置したことに後悔していなければ、反省もしていないのだ。


 だから、俺は先程いじめを無視『した』ということになる。


 ──みゃーぉ


  いじめを見て注意しなければならないのは、実際するかどうかはともかく、この学校に通う生徒の間では常識となっている。というか世間一般でもその認識が普通だろう。


 いじめ問題がニュースになるたび朝会やHRでは、いじめを見かけたら報告や注意をするように再三言われるし、テレビでも学生時代なんかとっくの昔に終わっていそうなコメンテーターが「周りが手を差し伸べて挙げられるかが大事!」とか言ってる。


 だから、客観的に見たら俺は常識外れで悪い人間であり、反省すべき人間ということになるのだ。


 でも、考えてもみてくれ。


 もし、注意したことによって暴力を振るわれたら誰が責任を取ってくれるというのか。


 注意や報告をしたことによって標的が自分に移る可能性は十分ある。


 それに最近はいじめは犯罪だの言われてるじゃないか。一般人に犯罪者を止める義務なんてあるのか? どう考えてもない、それどころかむしろ関わるなと言われるくらいだろう。


 なのになんでいじめは止めろとかそんな呑気なこと言っているのだろう。


 結局そこには、『みんな友達!』とか『根はみんな良い子!』みたいな根拠もあやふやな大人からの押し付けがましい心理が働いているような気がしてならない。


 そんで『いじめは犯罪!』なんて言いつつもいじめと犯罪を区別していじめを軽視している。


 そんな未だに方向性が定まってない世の中なのにも関わらず、当たり前のように注意しろと言うのはおかしな話ではないか。


 他人にこうするべきだと言うのは、相手側に対する配慮が有ればなんでも構わないけれど、その通りにして被害を受けた場合、その責任は言った人にあるのは当然。


 そんなのガキでも分かる。それが、言葉の責任を取るということなのだから。だから当然それが出来ないのなら他人に指図なんてできる立場の人間では無い。


  よって注意しなければいけないという、他人に指図できる立場にない人から言われた言葉には従わなくて良いということなので、俺は悪くない。


 悪くないのだ。一ミリいや、一ミクロンも。


 だというのに何だろうか、この胸をチクリと指す痛みは。


 こんだけ文句を言っておいて自分でもせっせと積み上げた自分の心を守る理論武装の隙間から入り込んでくる不愉快な何かから非論理的な感情が生まれてしまう。


 それが罪悪感だということも俺はちゃんと分かっている。


 けれど、それの存在を少しでも許そうとすれば一瞬で飲み込まれてしまいそうだった。


 ──みゃあぁ


 にしてもコイツ可愛いな。

 トイレの個室で俺はスマホで精神安定を図るため天使猫ちゃんの動画を見ていたのだが、もうマジで天使すぎて、精神がすり減っていたことも相まってなんか涙出てきた。


 いや別にそれはどうでもいい。トイレで猫動画に涙する男子高校生は流石に絵面が地獄だ。


 それより気づけば十分以上見ていたことに気づいた。ギガそろそろ危ないよぉーと警告が来たので画面を消してポケットにしまった。


 ふぅ、とゆっくり深呼吸をする。


 猫ちゃんのおかげで随分と心の安定を取り戻せた。ピリついた感覚も、ゆっくり全体に広がって薄らいでいく。


 そろそろ出るとしよう。あまりトイレに長居というのも腰にくる。


 平静を取り戻したと言っても罪悪感という名の痛みは消えないけれど、気にしていたって仕方がない。


 俺は悪くない。

 だから、こんなの気にしなければいいのだ。もう無関係な人間がいじめられていただけ。そう割り切れば終わりなのだ。


 ほら、いつも通り帰ってさっさと寝よう。そうやってやってきたじゃないか。同じように苦しんだ、中一の頃もそうやって。


 現実逃避して忘却して、時間というどんな状況だろうといつでも進んでくれる存在に縋って。俺なんてそれでいいのだ。


 俺はレバーを上げて個室のドアを開けようと手をかける。

 この件に悩むのは終わりだ。ここからが俺のまたつまらない日常の始まり。


 ──そのはずだった。


「よお」


「へ?」


 そんなバカみたいな声が出た。多分情けない顔をしていたと思う。

 

 でも、それも仕方ないだろ?


 だって目の前にいたのは、個室のドアを開けた先にいたのは二人の男。


 しかも二人はさっき彼女をいじめていた四人グループの男子二人だった。


 更にはその声色には、獲物を前にしたときのような好奇心が見え隠れしていて。


 細身でチャラい男と、目つきの悪いガタイのいい男。ヤンキーというほどではないが、多少道を外しているような雰囲気を感じる二人。


 決心がついたとはいえ、いきなりこんなのがトイレを出待ちしていればそりゃ小心者の俺みたいな人間からしたらチビるレベルのイレギュラーな訳で。


 俺の心臓は再びバクバクと音を奏ではじめる。手足が震えて一瞬尻餅をつきそうになった。肺までビビっているのか浅い呼吸が高速で繰り返される。それをどうにか元に戻そうとゴクンと唾を飲み込むも不愉快な感覚が全身を伝っただけだった。


「お前、密告チクったろ?」


 高圧的な口調でガタイのいい男が言ってくる。


 喧嘩は全て百戦錬磨みたいな風貌をしておいて気にしていることの小ささに笑える。

 いや、状況が状況で全く笑えない。


「な、なんのこと?」


 友好的に怒らせないように俺は地雷処理をするように言う。地雷処理なんかしたことないけど。


「とぼけんな。お前さっきの見てただろ?」


 もう一人がそう言う。


 とぼけんなって、見てたって知ってたなら聞くんじゃねぇよ。

 そんなこと口に出せる訳はなかったが。


「み、見てないですよ何も。──すいませんもう帰ります」


 俺はそう言って二人の横の隙間を縫ってダッシュでトイレから脱出しようとした。


 こんなの逃げるしかないだろ。出待ちしてるってもう確実に殺る気マックス。


 でもなんでわざわざこんなところまで追ってくるんだ。そんなに先生にバレたくないならやらなければいいものを。


 形は違えどこいつらも小心者なのだろう。


 あと少しで出口、そう思った瞬間俺の視界がガクッとブレて、暗転した。


「いでぇっ……」


 そして次の瞬間体に痛みが走った。


 どうやら脚を引っ掛けられ、こかされたらしい。引っ掛けられるというよりむしろ重心の方の脚を思いっきり振りぬくようなスイングで蹴られたといった方が正しい威力だったが。


「逃げんじゃねぇよ」


 そう後ろから声が聞こえる。


 俺は、転んだままほふく前進のような体位で必死にトイレを出た。トイレの汚い床を這うのは心底嫌だったけれど、背に腹は替えられない。ヤバイ、それだけは焦って脳の働かない自分でも分かった。


 しかし、その先にも地獄が待っていた。トイレを出るとすぐにいたのは残りの女二人だった。


 トイレから這って出てきた無様な俺をニヤついた表情で見下してくる。


 すぐに後ろからは男二人もやってきて。


 っべぇ……完全に終わった。


「汚な。お前もしかしてビビってトイレこもってたの?」


 村上さんにそう言われる。

 んだよこの女。マジで性格悪すぎるだろ。初対面だぞ? 対面と言うには高低差が合って顔が向かい合ってはいないけれど。


 もう一人の女子は、まるでゴキブリでも見るかのように見てくる。こっちに至っては、性格が悪いとかそういう次元じゃない。


 でもこの際はそんな奴らにも下手に出なければならない。


「は、はい。ビビってました。ずっとビビってトイレこもってましたぁ。な、なので誰にもさっきのことは話していません」


 情けないがとりあえず逃してもらうために俺はそう立ち上がりながら言った。


「でも、これから言うかもしれねぇだろ」


 トイレから出てきた男がそう言ってくる。


「い、言いませんよっ。僕は全くの無関係ですから……」


 先生にバレるのが嫌ならやらなければいい話なのだが、まぁそんな単純な話ではないことは分かっている。

 人をいじめる動機は自分の利益有る無しとかそういう話では無いから。


 いじめの動機とは大抵自分よりも下の人間を作り自分の優位性を確かめたいという、いわば動物の群れで起こる様なものと同じなのだ。


 精神が幼いとその優位性を確かめたいという醜い欲求が抑えることが出来ずバカなことをやらかしてくれる。


 だから、一々指摘したところで無駄。その指摘以前の部分で思考を放棄してしまっている人間たちなのだから。


 俺がここでいくら正論を述べたところで相手には伝わらない。


 動物らしくわかりやすい対処法が一番なのだ。戦ったとしても俺は非力だし、相手は男二人に女も二人、勝てる筈が無い。


 よくある物語だと、主人公が圧倒的な力を持っていて、ここから返り討ちにするなんて展開もあるだろうが、そんなこと一般人である俺が出来るはずが無い。


 物語の中の敵という存在は、主人公を輝かせる為にいるだろうから、結局は上手くいく。


 しかし、現実はそんなに甘くない。物語の『敵』は『敵役』であるのに対して、現実は『敵』は『敵』。ただの恐れる相手である。


 そこに、主人公の為になんて概念がある訳が無い。


「なぁ、お前笑ってる?」


 チャラめな男にそう言われる。


「いや、笑ってないです。すいません、必要なら謝ります」


 屈辱的だけどこれが一番賢い選択なのだ。


「んじゃ、お前ここで土下座しろ」


「土下座……ですか?」


「っやくしろよぉ!」


 そう突然大きい声を出す情緒不安定なガタイのいい方の男。


 「おら早くしろ」と頭をがしりと掴むとそのまま下に押し付けようとしてくる。


 首を襲う痛みと、こんな人間に頭を下げなければならない悔しさと色々な感情がこみあげて来る。


 ただ、自分への被害を最小限に抑えるにはこれが一番。この程度の痛みで済むなら安いものだろう。


 変に喧嘩を売りでもしたら、何をされるか分かったもんじゃない。


 こんなんだったら空手でも柔道でも習っておけばよかっただろうか。まぁもう後悔先に立たずというか、ジエンドな訳だが。


 こういういじめは土下座したら最後。写真取られて広がって、それを知った奴らにからかわれいいように使われ、人生を棒に振る。


 でも俺に拒むことはできない。心の底から怖くて、今にも意識を失いそうなくらいに苦しいのだから。


 そしてそれが正解なのだから俺がする行動は一つだろう。



 ──しかし何故かそう分かっていたのにも関わらず俺の心は、突然それを拒んだ。


 訳が分からなかった。今までにない感覚だった。


 今まで自尊心も友情も自分の感情も全て押し殺して合理的な選択をしてきたはずなのに、突如として俺はそれを受け入れることができなくなった。

 

 俺は、押し付けてくる手を無造作に退けた。


 そして「あっ?」と言ってくる奴らをにらみ返して言った。


「お前達みたいなゴミ人間に誰が頭なんて下げんだよ」


 自分のことながら随分と勇ましいことをしたものだと思った。こんなことを言ってどうなるか簡単に予想がつくというのに。


 俺は、その後文字通りボコボコにされた。


 殴られた場所には激痛が走り、ジンジンと脈を打つように全身に痛みを伝え、悲しみからではない単に暴力による痛みからの涙が流れ、浴びせられる罵詈雑言は俺の心をえぐった。


 多分人生で辛い瞬間ランキングトップ10は全て塗り替えられた気がした。


 そんな地獄に俺が耐えられるはずもなく、すぐに心を改めた俺は、必死に土下座して謝罪した。


 そして絶対に今回のことを他言しないことを約束して無事……というには些か死にかけではあったが、見逃してもらえた。



※   ※   ※



「大丈夫?」と横を歩く彼女に言われた。心配そうに顔を覗き込んできたけれど、その表情は逆にこっちが不安になってくるぐらい沈んでいた。

「……うん。全然大丈夫」

 全く大丈夫では無かったけれど、彼女の表情を晴らしたくてらしくもない強がりを返した。

「ほんと、ならいいんだけど……」

「大丈夫だって。それより香織こそ周りと上手くやってくれよ?」

「……私だって好きで巻き込まれてるわけじゃないんだから!」

 そんなこと分かっている。だけど、いつまでも側に助けてくれる人がいるとも限らない。

「ごめんごめん。でもさ、俺がいなくなったらどうするんだよ」

「それはぁ……そうなった時考える!」

 相変わらず呑気な彼女。でもそれに笑顔を返せなかった俺は既にこの関係の終わりを察していたのだと思う。

「そうか……」

 今思えばそんな呑気な彼女もまた残り少ない時間を楽しい時間にしようとして目一杯元気を出していたのかもしれない。

「……でも私はこそ心配だよぉ。私がいなくなったら誰と話すの? もつしかしてぼっち〜?」

「今は未定。いなくなったら考えるよ」

「ははは。一緒じゃん!」

「友達いないのと、いじめられるじゃことの大きさが違うだろ」

「えーどうかなぁ?」

「どれだけこっちがヒヤヒヤしてると思ってるんだよ……」

「ごめんって。──でも」

 彼女は少し声のトーンを下げて言った。

「私だって心配してるんだからね、栄君のこと」

 らしくない突然の言葉に当時の俺は一瞬固まった。やけに真剣な目つきの彼女の表情は印象的だった。

「べ、別に香織に心配されるほどのことじゃない。友達ぐらいすぐ作れる。光栄ある孤立ってやつだ」

「もぉまた、難しいこと言って誤魔化してさぁ。私がいなくなってもちゃんと良い子にしてるんだぞぉ?」

「お前はお母さんか」

「栄君が子供みたいなのがいけないのー」

 おかしそうに笑う彼女につられて俺も笑った。


「あ、あともう一つ! 無理するのもダメだよ? 暴力で解決する不器用さんは禁止! 栄君弱いんだから」

「助けてもらっといてそんなこと言うかよ普通。それにどうしょうもないときもあるし……」

「そういうときはほら! 私達の味方してくれる友達つくろーよ。サイキョーの」

「サイキョー? なにそれ?」

「んーまぁ分かんないけどとりあえず友達」

「友達作りねぇ……まぁ頑張るよそれなりに」


※   ※   ※


 本心ではとっくに分かっていた。

 俺が本当は彼女のことをいじめから助けてあげたいと思っていることを。


 中学の時のことは、今でも脳裏によぎる。あの時彼女に手を差し伸べてあげられていればきっと俺はこんな風にはならなかったし、彼女が不本意な転校を強いられることもなかった。


 ふとした瞬間に思い出しては後悔して、イライラして、どうにもならない現実に嘆いた。


 そんな風に考えているのに俺は彼女を助けられないのだ。


 理由は色々とある。まず、非力であること。物理的にも、校内の地位的にも。なんの力もない俺は助けようと思ってもそれを実現させるだけの能力がない。


 二つ目に自分の信条を捻じ曲げることへの恐怖。人間、過去の失敗、もしくは失敗すらせず諦めたことなど後々から色々理由をつけて正当化する。


 失敗ばかりの人生だったから、たくさんそういうことをしてきた。


 ここで彼女を助けると決心するということは、前にいじめを無視したときに唱えた理屈と矛盾する。


 いじめを見ているだけは悪くない。その考えと矛盾してしまう。何故前は助けようとしなかったのに、今回は助けるんだと。


 それは、屁理屈に屁理屈を重ねた理論武装が全て剥がれ落ちてしまうような恐怖だった。今まで自分を正当化して見ないふりをしていた罰が、一斉に襲い掛かってくるような気がするのだ。


 だからこの二つの問題があるから俺は助けられないし、助けたいと思えない。


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