第5話 巫女様は丁重に
収穫を終えた頃には陽も暮れており、辺りには夜の帷(とばり)が被されていく。ミノリは腰を労るように撫でながら、今日という日の終わりを告げた。
「さぁて、働いた働いた。オラはそろそろ休ませてもらうべよ」
彼女は誰に憚るでもなく、畑の脇に佇む作業小屋に姿を消した。
「タケル様、お疲れさまでした。私たちも眠るとしましょう」
エマの提案には酷く揺さぶられた。クッタクタに疲れているため、眠る事そのものは大賛成である。ろくな灯りや娯楽も無い現状では、起きている理由だって無い。彼が驚いたのはその方法だ。狭い掘っ立て小屋で2人きり、ひとつ藁の下で眠るというのである。
振り返ってみれば、これもゲームの仕様通りだ。本拠とエマを守る為に、主人公は彼女の傍らで眠るのが通例となっている。しかし、そのような形で滞りなく進行させられるのも、アルゴリズムにのみ付き従うゲームキャラであるからだ。
(こんなんで眠れるかよ……!)
思春期真っ只中もど真ん中である少年にとっては正に拷問である。自分の理想を、いや貧困な想像力すら遥かに上回る程の女性が、無防備な姿を目と鼻の先で晒しているのだ。性に敏感なタケルから安眠を奪い去るには十分な仕打ちだと言えた。
彼を更に追い詰めるのは薄明かりである。エマに授けられた精霊の加護によって、その体は淡く発光しているのだ。今宵は曇り空で月明かりすら頼りとならず、他に光源など見当たらない。
その結果、暗闇に悩ましいほどの曲線だけがありありと浮かびあがってしまう。腰の部分で深い谷、そして骨盤から先は大きくなだらかに膨んでおり、シルエットだけでも滾(たぎ)らせるものがあった。
(これを我慢しろって方が無茶だろ……)
タケルは指先で麗しき稜線を辿ろうと、手を伸ばした。寝込みを襲おうとしたのではない。ただ何というか、ほんのちょっと揉むくらいは良いかな、くらいには考えていた。
言うなればタケルは命の恩人であるどころか、文字通り何人分かの生命を散らしてまで助けたのだ。それ相応の苦痛を対価にエマを守り抜いたのである。役得を望む打算が、警察や裁判などの治安機構が不在であることも手伝い、性への好奇心を放置した。
こちらに背を向けるエマは、今も安らかな寝息をたてており、忍び寄る掌を見咎める事はない。いよいよ気分は最高潮を迎え、鼻息も激しいものになる。そしてとうとう指先が腰に触れようとした。
しかしその刹那、耳障りな音とともに小旋風が巻き起こった。突如として吹き荒れた風の音は絶叫にも似ており、不吉な予感から肝が冷える思いになる。
「な、何だよ今の!?」
タケルは予期せぬ事態に顔を左右に振った。例えば化け物や悪魔やらの封印を、意図せず解き放ったかのような錯覚に見舞われたからだ。だが、付近に変化は無い。あれだけの暴風に襲われたにも関わらずだ。
ただし、エマだけは違った。タケルの気づかぬうちに、直立不動となっていたのだ。
「触れましたね」
その声は冷えていた。地を這うような響きが、床に這いつくばるタケルの耳に木霊する。
この時を待ち受けたのか、雲の隙間より一筋の月明かりが零れ、室内へと差し込んだ。金色にも似た光がエマの半身を照らし、拳が小刻みに震えるのが映る。しかし、タケルにその表情までは判らない。恐ろしさのあまり、眼を上向ける事が出来ないからだ。
「私は信じていました。貴方のような高潔な方であれば、守り抜いてくださると」
「いや、その、ごめん! もう二度とこんな真似はしないから!」
タケルはようやく自身の身勝手さに気付かされた。エマの失望が、彼女の放つ言葉が胸を切り裂くようで、堪えきれないまでの心痛が走る。今にも土下座しそうな勢いで謝りはしたのだが、彼女に響いた様子はない。
エマはタケルの贖罪には目もくれず、居ずまいを正すと膝をついた。そして祈る姿勢を取ると、静かに言葉が紡がれた。
「もう手遅れです。三禁のひとつを破ったとあれば、精霊の加護は得られなくなります」
「サンキンって……?」
「私に出来る事と言えば、祈るだけ。せめて万民が、苦痛少なく眠りにつけるように。生涯を安らかに閉じられるように」
エマが言い終えるなり、外で大音声が響いた。いつぞや耳にした正体不明の声である。
『魔の者共よ 歌え踊れ永(とこし)えに
愚かな人間どもは全て 灰塵に帰してくれようぞ』
熱気じみた声が止むと、短い静寂を挟み、方々から火の手があがった。言葉を反芻(はんすう)する間すら無い。足元から立ち上る焰は回避行動すら許さぬ火勢であり、タケルたちの体を瞬く間に包み込むと同時に、藁の屋根すらも焼き払ってしまった。
「エマ……!」
タケルが手を伸ばす。しかし、その間も自身の炭化は進み、やがて自重すら保てなくなる。崩れ行く身体、肺を焼き付くす程の熱。もはや這いつくばる顔を持ち上げる事すら叶わず、意識さえも焼け落ちていく。
「ごめんよ、本当にごめんよ」
視界が狭まる中で見たものは、身を焦がしながらも祈りを崩さない姿だ。どこまでも気高く、そして苛烈なる意思が心に突き刺さった。自責の念が涙を流そうにも、瞳に盛り上がる傍から掻き消されてしまう。
そうして紅蓮の焰が全人類を燃やし尽くし、世界は滅びを迎えてしまった。その直後に、タケルの意識はいずこかへと吸い寄せられ、やがて自我を取り戻す。
(またここに戻って来たのか……)
タケルの眼前には、例によって光が見える。しかし、本来であれば輝きを強めていくはずなのだが、今ばかりはそうではない。まるで時計の針を止められたかのようだ。何かの不調や不具合を疑いもしたが、恣意的な気配を感じ取ると、黙って受け入れざるを得なくなる。
荒淫が身を滅ぼすと聞いた事はあっても、性欲が世界を破滅させるとは前代未聞だ。タケルの再起とともに全てが甦るとは言えど、死の手触りや仲間の散り様は生々しく、彼の心境は穏やかなものからは程遠い。
(やべぇ、罪悪感がやべぇよコレ……)
記憶の持ち越しはノウハウの蓄積であり、問題解決にうってつけのシステムである。ただし、軽率な失態と末路のまでも残してしまう為に、このようなケースにおいては非常に具合が悪い。
ーー巫女は特別な存在だ。彼女の事は大切に扱おう。
助言が飛ぶ。もちろん死に際の一件について寄せた趣旨であり、そのボカシ具合までもが耳に痛い。
ーーそもそもさ、信頼を裏切ってまで寝込みを襲うとかどうなの。深く反省して欲しいもんだね。
止めは直球ストレート。タケルは情けないやら申し訳ないやらで、穴があったら全身で埋まり、墓石を突き立てて欲しい気分になる。この瞬間に彼の実態が存在していたら、どこまでもコンパクトな居ずまいとなっていたであろう。
やがて世界は時間を取り戻したように光を強め、輪廻の輪は再び動き出した。再び機能を取り戻した視野が映すのは、赤みを帯びて暮れ行く大地である。
「さぁて、今日も働いた働いた。オラはもう休ませてもらうべよ」
再開地点はミノリとの別れだ。老いた背中が、帷から逃れるようにして小屋へと消えていく。よりにもよってこのシーンからのリスタート。皮肉らしきものを感じなくもないが、文句を言う宛も権利も無かった。
「お疲れさまでしたタケル様。私たちも眠るとしま……」
「そうだな、めっちゃ疲れたもんな! 寝よう寝よう健全なオレたちはスヤスヤ眠ろう!」
「え、ええ。そうですね」
困惑するエマとともに本拠へ戻り、すぐに横になった。仰向けにはならずに壁を向いて寝転ぶのは、視界に魅惑の身体を映さぬようにするためだ。しかし眠れない。肩越しに聞こえる寝息でさえ耳に甘く、タケルの安眠を阻害してしまうのだ。
(こうなったら羊でも数えてみるか……)
最新鋭のゲーム世界において、縋り付くは古典的な手法だった。その効果の程はというと芳しくない。1匹2匹3匹と形式的に数え上げていくのだが、一向に眠気が押し寄せる気配は無かった。桁をいかに繰り上げても同様であり、ただただ無為な時間だけが過ぎていく。
「羊が114810匹、羊が114811匹……」
未曾有の数に至った頃に朝が来た。完徹である。タケルは覚醒しきった鋭敏な意識と、途方もない気怠さを同時に抱え持ち、揺らぐ視界も外界を漂う小舟に居るようだ。そんな彼に、春の微風にも似た挨拶が優しくかけられる。
「タケル様、おはようございます。今朝は雲が晴れて気持ちが良いですよ」
起床を促されたとあっては動き出さなくてはならない。身を起こすと世界は更に揺さぶられ、身体の奥から乾いた吐き気が込み上げてくる。しかし空っぽの胃が吐き出すものは何も無かった。
「こんな暮らし、いつまで続くんだろ……」
ゲームの世界に行ってみたいという願望を抱く人は、少なからず居る事だろう。何せ現実世界に比べて遥かに魅力的であるからだ。美男美女に囲まれ、胸の熱くなる物語を思い思いに描き、やがては巨万の富や強大な権力を得るまでに至る。現実逃避の行く先としては申し分ない事だろう。
しかし、こっちはこっちで苦労が絶えないものである。逃走不可の戦闘は死の危険が付きまとい、憧れの女性も取り扱い注意で、諸事情から熟睡すらままならない。しかも、この世界から抜け出るキッカケすら掴めず、賽の河原にも似た重複行動を強制させられてしまう。
やはり楽な生き方などは無いものだと、タケルは身をもってして学ばざるを得なかった。疲労に塗れた心身を、真新しい一日の日差しに晒しながら。
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