第17話 用済みの名探偵その17

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「よかったですね、先輩」


 玲奈ちゃんとその母親と別れた後、先輩の要望であったバッグを少し見ながら、でも結局何も買うことはなく、僕たちはショッピングモールを後にした。


「そうね」


 そう話す先輩はやはり、どこか嬉しそうだった。


「先輩、もう少し僕に付き合ってもらえませんか?」


「――? いいけど、どこに行くの?」


「折角なので先輩と海を見たいな……と思いまして」


「いいわよ。行きましょう」


 僕たちは駅方面のバスではなく、大学方面に向かうバスに乗った。




 僕たちが大学近くの砂浜に到着したのは日も沈み始めた夕方頃だった。


 この砂浜は僕たちが通う大学の目の前にあり、昼間は海水浴をする人々でにぎわっている場所だったが、初夏の風は夕方になるとまだ若干肌寒く、人もほとんどいなかった。


 僕たちは二人で砂浜を少し歩いていた。


 この砂浜からは天然記念物にも登録されている二三〇万年前の地層からできている、刑事ドラマなんかで登場しそうな断崖絶壁を見ることができて、夕暮れに染まっていく海やそれらの景色はなかなかどうしてロマンティックな雰囲気を醸し出していた。


「感謝されるっていいものね。最近だと本当にそんな機会がなかったから、ちょっと感動しちゃった」


 先ほどのことを思い出したのだろうか、先輩は当然そんなことを言う。


「よかったですね」


 僕は先輩の話を聞きながら相槌を打つ。


「ええ、感謝されるのは好きよ。だって――感謝されると、自分が必要とされているって感じるもの」


『まるで自分が真っ当な人間であるかのように感じられるもの』と、先輩は付け加える。


「先輩は――やっぱり誰かから必要とされたいんですか?」


 僕は尋ねる。


「そうね。『必要とされたい』というよりは、今まで必要とされることが当たり前だったから、きっと必要とされなくなった自分を受け入れられないのね」


「……何となく、分かります」


「私ね、困っている人を見ると放っておけないの。今日みたいにね。だって、困っている人を見ると安心するもの。希望が湧くもの。


 まだこんなに困っている人がいるなら私はきっと大丈夫だって。こんなに困っている人がいるならまだ私にも利用価値はきっとあるはずだって、そう思えるの」


「それは……分からないです」


 僕は正直に答える。


「でしょうね」


 と、先輩は僕の方を見ずに言う。


 僕たちはそれ以上話すことはなく、オレンジ色の砂浜を歩き続ける。


 日はすでにとても低いところにあって、今にも海に飲み込まれてしまいそうだった。


 ――すべてを失っても自分にはこれしかない、と思えるものが残っている。


 それはきっと他に同じような境遇の人と比べるとすごくありがたくてとても幸せなことなのだろうけれど――でも油断すると僕たちはすぐそれに逃げてしまう。


 きっと『自分にはこれしかない』という想いは最後の逃げ道なのだろう。


 そして、先輩はその唯一残った逃げ道を全力疾走している。


 ――おそらくハッピーエンドにはならないであろうゴールに向かって、今もなお走り続けているのだ。


 頑張っているわけじゃない、もちろん楽しくなんかない。それでも走り続けているのはきっとその道しか残されてないから。


 停滞することは死を意味する。


 それでも、人に認められたいなら、自分の思うように生きたいなら、この道をひたすら走り続けるしかないのだ。


 でも、きっとそんなのは間違っている。


 ――だって、そんなの誰も報われないから。ハッピーエンドにはならないから。


「私たちってやっぱり似ているわね」


 先輩は唐突に歩いていた足を止める。


 日はもうすでに半分ほど海の中に吸い込まれていた。


「海野杜君も、苦しかったでしょ? 自分のかけてきたものが無に帰す瞬間。そんなのって――辛すぎるじゃない」


 先輩は顔を俯かせて小さな声で言った。


 不謹慎だけれど、オレンジ色の夕日に照らされた先輩の横顔はとても綺麗だと思った。


「でも、私たちにはどうすることもできない。もう失敗してしまった。


 私たちがこれまで費やしてきた時間や、努力や、迷いや、悩みや、苦しみや、葛藤や、切なさや、達成感や、愛おしさや、羨ましさや、優越感や、自尊心や、やりきれなさや、楽しさや、希望すらも――全部無駄なものだった」


 僕は何も言わない。何も、答えない。


「ねぇ、やっぱり私たちって似ているわね?」


 先輩は悲しそうな笑みで僕の方を見る。


 そんな先輩に対して僕は――


「似てねぇよ」


 と、辛辣に突き放した。


「……え?」


 ようやく先輩は僕の方を向く。


「似ていませんよ。僕と先輩は。全然、まったく、これっぽっちも――似てないです」


 僕は振り向いた先輩の目を見て強い口調でそう告げる。


「そうかしら?」


「そうですよ」


 僕は即答する。


「どうしてそう思うの?」


 先輩は僕の目を見て、というよりも睨みつけるようにして聞き返す。


「だって、先輩は――未来を見ていないからです」


 僕は静かな口調でそう告げる。


「……」


 先輩は何も言わない。


「確かに僕だって過去を悔やんでいます。それはきっとこれから先も同じで、僕はきっといつまでも未練がましく悔やみ続けるんだと思います」


 もう一度人生をやり直せるなら絶対に陸上なんかしない。


 今度こそ、まともに、普通に、みんなと同じように、何でもない平凡な人生を生きてやる――きっと、そんな風に意味のないことをこれからも未練がましく考え続けるのだろう。


「でも、だからといって僕は幸せになることを諦めてない。自分より不幸な人を血眼になって探したりしない。だって――」


 そこで僕は大きく息を吸って、


「――だって僕たちには未来があるから!!」


 先輩にそう告げた。


 傷だらけで、後悔ばかりしている、本当に過去の自分を見ているかのような先輩に向かって、僕は大声でそう叫んだ。


 たとえ青春時代を棒に振ったとしても、神様からとてつもなくどうでもいい才能しか与えられなかったとしても、それでも――これから先の人生で幸せになれないということにはならない。


 後悔しながら、一生悔やみ続けながらそれでも幸せになることはきっと不可能じゃない。なぜなら――


「先輩にはまだそんなに素敵な才能があるじゃないですか。僕とは違って、先輩にはまだ自分だけの特別な才能が残っているじゃないですか」


「――!?」


 先輩は驚いたような顔をしてその場で立ちすくんでいる。


 きっと先輩がこれまで積み重ねてきたものは決して無駄なんかじゃない。


 だって、もう走れなくなってしまった僕とは違って――先輩はまだ走り続けることができるのだから。


 前を向いて、未来を信じて、走り続けることができるのなら、きっと先輩は『特別』なままでいいのだ。


「先輩、実はご相談したいことがあります」


「……なに?」


 僕は先輩に歩み寄っていく。


 ようはきっかけと考え方次第。何も、時代に合わせて自分の才能を殺して生きる必要などないのだ。


 人は決して平等ではないし、神様から与えられる才能にも千差万別あって、神様から配られた手札にいい才能カードが揃っているとは限らないけれど、それでも、


 ――その手札で自分がどんな勝負をするかは自由なのだ。


「もし、先輩が望むなら、これからも探偵でいたいなら、僕はお手伝いできると思います。


 でも先輩は、きっとこれからも悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、後悔したりすると思います。むしろ、社会に必要とされるとそんなことはもっと多くなるかもしれません。それが嫌なら別の道を選んでもいいんです。


 先輩は無理だって言いますけど、僕にはそうは見えない。きっと先輩なら今からでもやり直せます。先輩に残されているのはきっとこの道だけではないんです。でも、それでもやっぱり探偵を続けたいと、そう思いますか?」


 先輩は目をそらさなかった。


 きっと僕の問いかけに対して、答えなど端から決まっていたのだろう。


 先輩は僕の目を見つめながら


「続けるわ。だって、これが私がずっと思い描いてきた理想の生き方だもの」


 そう僕の問いかけに答えた。


 このとき先輩は探偵という道しか残されていないから走り続けたのではなく、自分から選んでこの道を進み続けると決めた。


 それは結果的には同じであってもとても大きな違いだった。


 ――だって、きっとその方が希望に満ちている気がするから。


 夕日はもうすでに海の中に沈んでいたけれど、海に沈んでも届いてくる夕暮れが僕たちをオレンジ色に染めていた。

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