第10話 用済みの名探偵その10

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『諸星探偵事務所』と窓に大きく書かれたビルの一室が駅からすぐ近くのビルの一室にあった。


 大学からバスに乗って駅前まで来て少し歩くと、そのビルはすぐに見つけることができた。そして、そのビルの三階――ここがかつて名探偵と言われた、諸星美空の事務所である。


「どうぞ入ってちょうだい。コーヒーくらいは淹れるわ」


 そう言って諸星先輩は鞄を無造作に部屋の中央にあったソファーの上に投げ捨てると、部屋の奥にある台所へ向かっていった。


「お、お構いなく」


 僕はそう言って手持ち無沙汰に事務所の中央で突っ立っていたが、ずっとこの状態で立ち続けているのもあまりに違和感しかないので、恐る恐るソファーに腰を掛けた。


「お待たせ。ミルクと砂糖は入れる?」


 しばらくすると諸星先輩がお盆の上にコーヒーの入ったマグカップを二つ乗せてテーブルまで運んできた。


「僕はブラックで大丈夫です」


 その動作はとても不安定で、座っている僕は先輩がコーヒーをこぼしてしまうのではないかとはらはらしながら見ていた。


「……ごめんなさいね。こんな風に来客にコーヒーを淹れることも最近ではめっきり少なくなってしまって」


 先輩は震える手で僕の目の前にコーヒーを差し出しながら、なぜかとても申し訳なさそうな目で僕の方を見て言った。


「……何で依頼来なくなっちゃったんですか?」


 そんな先輩に対して、僕は取り繕う方法を知らなかったので、気になっていたことを単刀直入に尋ねた。


「昔、と言ってもつい五年くらい前まではこの事務所にも結構依頼が来ていたのよ? それに、警察から捜査依頼が来ることも多かったしね。でも、最近ではめっきり来なくなってしまったわね」


「なぜですか?」


 僕は再度尋ねる。


「ほら、今ってAIみたいなテクノロジーがすごく発達しているでしょ? だから、正直私なんかが推理するよりも、最近はコンピューターに頼った方が確実に事件を解決してくれようになってしまったのよ」


『なってしまった』その何気ない言葉尻に先輩の無念や想いが隠されているような気がした。


「そうなってしまうと、警察からしても私みたいな気難しい探偵に依頼するよりもコンピューターに頼るようになってしまった。悔しいけれど、そっちの方がはるかに正確だしね」


「……そうだったんですか」


「ええ、警察から捜査依頼が来なくなるとメディアに取り上げられることも徐々に少なくなっていったわ。そして、最終的には今みたいに誰も依頼人が来なくなって閑古鳥が鳴く事務所になってしまったというわけ。どう? こうやって理由を聞いてみると納得でしょ?」


 諸星先輩は少しおどけて僕の方を見て笑う。


 僕はその笑顔がとても切なかった。


「先輩は、卒業したらどうするんですか? やっぱり警察とかに就職するんですか?」


 僕はたまらず口を開く。


「無理でしょうね。ほら、私って明らかに常識がないじゃない? 自分でもそれは分かっているの。だからきっと組織で生きていくのは無理だと思うし、きっと多くの人が思い描くような『普通の仕事』にはきっと就けないわ」


「……先輩」


 僕はまた何も言えなくなってしまった。


 先輩とはさっき出会ったばかりで、もちろんお互いのことなどまだ何も知らない。しかしとてもではないけれど、目の前のこの美しい先輩に真っ当な生き方ができるとは到底思えなかった。


 ――そして、それはきっと僕も同じだった。


「あーあ、探偵なんかになるんじゃなかったな」


 そして、先輩はいつかの僕と同じような言葉を口にする。


「先輩は、何で探偵を続けているんですか? そんなに後悔しているんだったら別の道に進めばいいじゃないですか。先輩はまだ大学生なんだし、これから就活とかの準備をすれば全然間に合いますよ」


「きっと無理ね。だって私はこの生き方しか知らないもの。有名になってしまったのは高校時代からだったけれど、その前からずっと探偵みたいなことは続けていたの。


 それこそ、友達のなくした消しゴムを探すことや片思いの相手の恋人が誰なのか教えてほしいとか、今考えれば幼稚なことばかりだったけれど、でも、当時本当に何も持っていなかった私にはそれしかなかったから、ずっとこんな風に誰かの秘密に触れる生き方をしてきたの。


 私は確かにこの分野においてはすごく才能があったし、この才能だけで生きていけると思っていたわ。だから、他のことを置き去りにしてしまったのね。人付き合いとか、常識とか、世間体とか――普通の人が当たり前に気にしていることや当たり前にできることが私にはできない


 数年前まではそれでも私には探偵としての価値があったから最低限成り立っていたのだけれど、でももう駄目ね。どうしようもない。探偵としての価値がなくなってしまった私はただの社会不適合者でしかないもの」


 そして、先輩は少しためて言った。




「私には、きっとこの道しか残されていないもの」




 ここまで同じだとは。


 不謹慎だとは思うけど、僕は感動すら覚えていた。


 だって、先輩が考えていることや苦しんでいることはあの頃の――どん底だった頃の自分と全く同じで、だからこそ僕は胸が苦しくなった。


「せんぱ――」


「ねぇ、海野杜君」


 僕が何かを言いかける前に先輩が僕に対して口を開いた。


「もしかして、君も同じようなことを考えていたことがあるのではないの? ――元陸上高校チャンピオンの海野杜達也君」


「……知っていたんですか」


「ええ、もちろん。あなたは気づいていないかもしれないけれど、何気にあなたって私たちの大学では有名人だもの」


「……」


「ねぇ、何だか私たちって似ているわね」


「……先輩」


「ふふふ、おかしいわね。出会ったばかりの人にこんなことまで話してしまうなんて」


 そんなことを笑顔で言う先輩に僕はまた何も言えなくなってしまった。


 先輩の辛さや苦しさが僕にも痛いほど分かってしまったし、不謹慎な話だけれど、その時の先輩の悲しそうな笑顔を見て――とても綺麗だと感じてしまったから。


「ねぇ、海野杜君。よかったら教えてくれないかしら? あなたはどうやって過去を乗り越えたの?」


 先輩は僕の方を向いて真剣な目で尋ねた。


 僕は嘘やごまかしはきかないと思った。


「乗り越えてなんかいませんよ。僕は――」


 ――コンコン


 僕がそこまで言いかけた瞬間、事務所のドアがノックされた。


「あら、この黒猫の依頼人かしら」


 そう言って先輩は立ち上がってドアの方へ歩いていく。


 ガチャリ、とドアを開けたところには三十代半ばくらいの女性が立っていた。


「あなたがお母さんの頼んだ探偵さん?」


 その女性は不機嫌そうな顔を隠そうともせずに言う。


「え、ええ。私がこの諸星探偵事務所の探偵、諸星美空です。依頼人のご家族の方ですか?」


 先輩は恐る恐るといった感じで尋ねる。


「ええ、そうよ。母さんが入院してしまったから代わりに私が受け取りに来たの。プーちゃんはどこ?」


 どうやら黒猫の名前はプーちゃんというらしい。


「こちらです」


 僕がケースを手渡す。


 女性は少し重いそのケースを両手で抱えると、


「重っ!? まったく、どうして私がこんなのを受け取らなければいけないのよ。正直、私この猫嫌いなのよね。不吉だし」


 そう言うと女性は依頼料だけを面倒くさそうに払い終えて、


「まったく、母さんもよりによって探偵なんてよく分からないものに頼らなくてもいいのに」


 と、明らかにこちらに聞こえるくらいの声でそう言いながらお礼も言わずに事務所をあとにした。


 先輩はドアの前に立ったままで、後ろに立っている僕からは背中しか見えないが、とても悲しそうな感情が伝わってきた。


「……先輩」


 僕が何も言えないでいると、先輩は僕の方を振り向いて笑顔で言う。


「ほらね? やっぱり探偵なんて必要とされてないでしょ?」


 その時の先輩の取ってつけたような笑顔はとても悲しそうで、でも僕はそんな先輩の笑顔を――やはりとても綺麗だと思ってしまった。

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