14.彼方との接触
声を耳にした直後、周りの風景が変わった。
目の前にいたはずの匠の姿は消え、視界に映るのは黒髪を高い位置で括り、緑色の着物の上に透けた千早を着た人物が立っていた。
「……四神の好意に甘えて、少しだけ時間をもらったんだ。本当は、干渉しちゃいけなかったんだけど……」
寂しそうにそう言いながら微笑むその人は、『賀茂浅葱』だ。浅葱はその思考に、疑いすら持たなかった。
「賀茂浅葱……」
「はい」
浅葱は思わず彼の名前をフルネームで読み上げてしまった。
それすら気に留めず、目の前の『浅葱』は返事をして笑みを崩さずにいる。
「大変な責を負わせてしまって、ごめんなさい。……あまり苦しませたくは無いのだけど……」
「い、いえ……、っ」
『浅葱』の言葉に返事をするも、直後に視覚と感覚が酷くブレた。
先ほど感じた、負の感情が流れ込んでくる。
それを受け止めながら、圧力のようなものを感じ取った。四神のものなのか、『浅葱』のものなのかは、わからなかった。
「――青龍、お願い。もう少しだけ他の三神の感情を抑えさせて」
『…………』
それは会話なのだろうか。
『浅葱』の発した言葉に、四神の一体が何かを発したような気がしたが、浅葱には聞き取れなかった。
先ほどは『耐えてみせろ』とはっきり告げられていたのに、今は言葉として理解出来なかったのだ。
「……時間をもらったはいいけれど、実を言うと、あなたに何かを授けられるわけでもないし、この先を示せるものも何もなくて……」
「それは……あなたが言ったように、本当なら僕に干渉が出来ないからだと思います」
「うん、そうだね……。でも、四神は私の希望を聞き入れ、応えてくれた。だから……話をしたかったんです」
「…………」
浅葱はそこで、何かの核心に触れたような気がした。それでも、何であるのかはまでは、今は
「……こんな事になるとは、思いませんでした。私は、
『浅葱』がそう語りだすと、心が急速に締め付けられる。感覚ではなく、感触として体に影響してきて、浅葱は表情を歪めた。
今の賀茂浅葱の状態は、どういったものなのだろう。霊体と呼ぶには、それすらも危うい状態だ。
端的に例えるなら、はやり妖魔に近いような気がしてしまうのだ。
それが、今の彼の背後にうっすらと漂う――紫色の気配――『妖の気』という物なのかもしれない。
「――飲み込まれたらダメだ!」
「!」
浅葱は思わず、そう言いきっていた。
目の前の賀茂浅葱は、それに驚き目を丸くする。
それから表情を崩して、嬉しそうに微笑んだ。
「あなたと同じ台詞を、遠い昔に朔羅に言ったことがあるの」
「……え……」
「あの人はいろんな理由で不安定な人だったから、負の感情にも流されやすかった。だから私は、その度に呼び止めてました」
懐かしいですね。
『浅葱』はそう言いながら、やはり寂し気な笑みを浮かべていた。
「……さっき僕に、悲しみとして受け止めたらダメだと、言いましたよね。あなたはそれを言いきれるだけの『力』がある。だから本当は、諦めてないし、絶望もしていない」
「…………」
「何も『ない』わけじゃない。あなたが分からないんだったら、僕が何とかします。だから最終的には、ここに戻って、賽貴と一緒に……
浅葱は力いっぱい、そう告げた。
なぜ、そんなことを言えてしまうのか、自分でもわからなかった。
言わなくてはならない――それだけが確信できる事だったのだ。
「うん……うん。ありがとう、私の力を……名を継いでくれた者よ。勝手だけれど、お願いします」
「……、はい」
「それから、朔羅を――」
賀茂浅葱は、涙をこぼしながら微笑み、そう言った。最後の言葉は、またブレが起こって、聞き取ることは出来なかった。
それでも、浅葱には彼が何を伝えたかったのかは、わかってしまった。
――朔羅を、お願いね。
押し寄せてくる感情の中、浅葱はその言葉を確かに受け取り、こくりと頷いた。
そして彼は、四神の試練ともいえるこの状況を、自分の意志だけで受け入れ、跳ねのけた。
――苦労ばかりで大変だな、お主も。
最後にそんな言葉が聞こえてきた。四神の誰か――おそらくは青龍のものだろうと浅葱は思いながら、一瞬だけ意識を手放した。
「……浅葱さんっ!」
切迫した朔羅の声が、耳元に届いた。
それを合図に瞳を開くと、上半身を彼に抱きかかえられた状態でその場にいた。
どうやら、倒れていたらしい。
「うん、戻ったな」
そう言うのは、匠だ。
彼は先ほど立っていた位置から変わらずに、浅葱の様子を見て安堵しているようだった。
「匠さん、どうして僕に黙って儀式をやったの」
「……お前は反対するだろ?」
「儀式はしなきゃいけない理由があるから仕方ないけど、それでも僕に一言も告げずに実行はされたくないな」
朔羅は怒っているようだった。
そういえば、と浅葱は数分前の事を思い出していた。
儀式前の結界の強化だ。
あの時、ヒトも妖魔も式神すらも通ることは出来ない、と感じていた。そして、事前に匠には式神たちには言うなと口止めもされていたのだ。
「四神の試練なんて、憎悪の感情のぶつけ合いじゃないか」
「……朔羅、大丈夫だよ」
「浅葱さん」
珍しい、と思いながら、浅葱は朔羅へと手を伸ばした。自分の指先が彼の頬に触れると、チリ、と微かに震えたかのような感覚を得る。
「大丈夫だけど、……ちょっと、眠くて……」
「うん、そうだろうね。僕が運んであげるから、そのまま眠っていいよ」
「……うん」
意識が浮上したところだが、現実を感じ取ると、やはり圧を受けた体は疲弊していた。
四神が与えてきた負の感情の世界はとても冷たく、そして今も夜だ。
そういった理由から、浅葱は体力の限界を迎えていたのだ。
「今日、見回りだったっけ?」
浅葱を横抱きにして、朔羅が立ち上がりながら匠に問いかけた。
その姿を見て、匠は困ったように笑いながら首を振った。
「元々、今日は儀式だけのつもりだったさ。……でも、浅葱が思ってた以上に覚悟を決めててくれて助かったよ」
「……そうだね。前よりは少し良い傾向になったとは思う」
浅葱はすでに、朔羅の腕の中で眠りに落ちていた。疲れの色が強く出ている寝顔に、匠も申し訳なさそうな表情をしている。
「頼むな、そいつのこと」
「あなたも、異国でうっかり足を掬われないようにね」
匠は、明後日には日本から居なくなる。
三か月から半年ほどの不在になるようだが、匠は匠で多くの役目があるし、彼は向こうでも大いに役立つのであろう。
その為の『留学』であり、『土御門寛匡の名代』だ。
「ああ、そうだ――」
「なに?」
その場を立ち去ろうとした朔羅に対して、匠が声をかける。
「――浅葱に必要以上の事、教えんなよ」
「それは、どういう状況での話?」
肩越しに振り向いたのみの朔羅が、わざとそう聞き返す。
匠の言葉の意味を分かっていて、敢えてそう問い返したのだ。
「まぁ別に……浅葱がいいってんなら、俺も何も言わない」
「……どうだろうね。僕は隙あらばの主義だから。じゃあおやすみ、匠さん」
「…………」
朔羅は綺麗に笑いながら、匠の返事を待たずに地を蹴り、浅葱を連れ去っていった。
匠は心中複雑ではあったが、それでも何も言わずに、彼らの姿を見送ってから、踵を返したのだった。
「変なところ鋭いな、匠さんは。……でも、始まってもいないのに、何かが起こるわけないじゃないか」
それは、朔羅の独り言だった。
腕の中で無防備に眠る主には、まだ――。
「……そうでも、ないかな」
――誰も邪魔はせぬ。
白雪の言葉が蘇る。
それを素直に受け取っても、いいのだろうか。
自分の心はどうなのか。
賽貴と同じように、この浅葱に、かつての主を重ねているだけではないのか。
そうであったなら、あまりにも浅葱が可哀想だ。
「……っ……」
朔羅は移動の足を止めた。
それは、幾度目かの社寺を超えた先の、古ぼけた鳥居のてっぺんであった。
「賽貴さん……本当に、僕は選んでもいいの……?」
夜風にそんな問いかけを投げかけてみても、応えは帰ってはこない。
「ん……」
眠ったままの浅葱が、身じろいだ。
朔羅は彼をそっと抱き直してから、改めて彼の顔をのぞき込む。
「……かわいいね、浅葱さん」
小さい響きだった。
隙あらばを語る自分が躊躇う姿を一瞬だけ哂った彼は、眠る浅葱の唇に自分のそれを落として、瞳を閉じたのだった。
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