第48話 エピローグ:フィオネラ


「――ハァッ、スゥ――――ハァッ、スゥ――――」


 人喰いの空腹とはこんなにも苦しいものなのか。

 人間の腹にある内臓以外にもう一つ胃袋が増えてしまったようだ。


 目には見えない人喰いの胃袋が内容物を減らしていく。もとより何も入っていないハズなのに、底が抜けてしまったみたいに深みを増していく。ソレに伴い人を喰いたい欲望はどこまでも高まっていく。栄養が不足し力は抜けて、肉が削られていくような苦痛が全身を苛む。実際にはそんな事無いのに、ほとんど骨と皮だけになってしまったように思われた。

 きっと誰かが見たら、亡者が歩いていると勘違いするだろう。

 人間を求めて泳ぐ手は筋肉の均整を失い震え、足はどれだけ踏みしめても幼児のようにおぼつかない。なのに人喰いへの衝動が無理やり歩みを続けさせて止まらない。


 お腹が減った。

 野生動物の肉なんてどれだけ喰っても満たされない。

 ただの食事では満たされない、そんな底なしの空腹を覚えて数日。

 誰も巻き込まないようにと故郷を離れてしまったが、湧き上がるのは後悔ばかりだ。


 せめて一人喰ってしまえば良かった。親でも子でも恋人でも、誰でも良い。

 一人喰えばもう正気など失くしてしまうのだろうけど、なぜ獲物が近くに居る内に楽になってしまわなかったのか。自分を責めずにいられない。


 けれどこの空腹にまとわりつかれる旅も終わりだ。

 あとほんの少しで私は満たされる。


 たどり着いたのは花畑。咲いているのは小さな白い花。ただし花びらの先だけ人間の赤毛のような色をしている。それが辺り一面ビッシリと埋め尽くす。

 ほんの数年前に見つかった新種だが、気付けば世界中いたる場所に咲いていた。そんな不思議な花。

 この小さな白い花にまつわる話が一つある。


 曰く、『かつて人喰いとなった魔法使いが自身の力で人間へと戻った。それを見た神が、その者によく似た白い花を大地へ贈り祝福した』という話。


 バカバカしい。こんな見つかって間もない花によくそんな御大層な飾りをつけられたものだ。

 この苦しみを知らないくせに。人喰いを恐れるタダの人間が作った物語なんて、今の私からしてみれば救いでさえなくただただ不快だ。頭から食べてやりたくなる程に憎たらしい。

 人喰いとなった私がここを訪れたのは、そんな都合の良い物語に癒やされるためじゃない。


 香りに誘われたからだ。

 はるか遠くからでも確かに鼻に届いた、甘く濃厚な、とても幸せそうな人間・・の香り。


 人喰いにとっての獲物は人間。そして幸せに生きた人間ほど命は旨味に溢れ、正気を失うほどに美味い。

 有名な話ではあるが実際の所なんて人間のままじゃ分からない。しかし今の私は身を持ってそれを理解できる。


 多分コイツは一級品だ。

 まだ人間を食べたことはないが、それでも他と比べて極上だと確信できる。

 一日かけて歩く距離からでも匂いが届くのだ。きっと尋常ではない味がする。


 空腹からの解放と、初めての食事を極上の一品で摂れる期待。

 口の端が喜びに歪みネトネトした唾液が漏れた。人喰いの牙を剥き出しにすると、まだ噛み付いてもいないのにアゴが妄想の旨味を咀嚼する。瞳孔が拡大し視界を明解なものにして獲物を見つけ出そうとグルグル動く。待ち望んだ瞬間を前に気分は昂り自身の鼓動が間近に聞こえるほど心は興奮してしまっている。


 もう一度鼻を効かせる。獲物は近い。

 香りのした方向を見やると丘の稜線からソイツは現れた。正面から目が合う。


 それほど年のいかない少女。人に嫌われる赤毛の長髪で、けれど顔立ちだけはいかにも庇護欲を掻き立てそうな愛くるしさがある。

 白い肌は日差しに弱いのかやや赤みがさしている。

 水を汲むのにも頼りない小さな手に束ねて持つ白い花は、少女とどこか似た表情をしている。

 人喰いの出現に驚いたのか少女はその場に固まってただただ目を丸くした。


 とにかく見つけた。食いつく前にもう一度匂いから味わうとしよう。

 おお、おお。よほど家族にでも愛されたかな。ずいぶんと幸せに過ごしているようだ。

 こめかみを殴られたように目がくらむ。むせるほど濃厚な香りが頭の中に充満し、薬物でも直接流し込まれたように多幸感が身を包む。顔の中を走る血管がちぎれて鼻穴から赤いものが吹き出した。


 我慢が効かない。罪も過去もこれからも、もう全てがどうでもいい。

 限界だ。喰おう。

 決めた瞬間わずかに残っていた正気さえ完全に消し飛んだ。

 さらに開いた瞳孔は頭で処理しきれないほどの情報を流し込み、視界を真っ白に染めあげた。

 自分自身も遠くへ消え、がむしゃらに走って口を開き牙が幼い肩に喰い込む。

 直前。


「"麗しき目覚めスプラウトビューツ" フィオネラ」

 目の前の少女とは違う、女性の声が白く小さな花の名を呼んだ。



 気を失う直前に何が起こったかは分からない。今は真っ暗な場所にいて、重みが右に傾いている。

 どうやら目をつぶって地面に倒れ込んでいるようだ。


「よーし。じゃあ目の色見てみよっか」

「あっ、フィオ待って!」

 誰かが会話している。近くに居るようだが意識が薄いせいでやけに遠くに聞こえる。

 身じろぎするのも億劫でただ胸元あたりで唸っていると、誰かの指が無理やり私の瞼を開けた。若干目玉に食い込んで痛い。

 犯人はあの白い花を摘んでいた少女。


「……ほら。もう赤くないよ」

「うん。良かった」

 目玉が乾いて針に刺される痛みを覚えた頃、無遠慮な指からようやく瞼が解放された。

 頭がぼやけて現実に追いつかない。

 何の話か考えを巡らせ――そこでとんでもない事に気が付いた。


 空腹がない。

 あれほど私を苦しめた空腹が影も残さず無くなっている。襲った少女が生きているのだから人を喰って腹を満たしたわけじゃない。

 何か魔法をかけられたのだけは覚えている。信じられない事だけど、それが私を人間へと引き戻した。


「ねぇねぇ。この女の人もお家に帰すでしょ?」

「そうだね。ほっとくわけにはいかないし」

「じゃあさ、そこでまたしばらく遊べるよね!」

「あのねフィオ。この人をちゃんと送り届けるのが目的なの。遊びに行くのとは違うんだからね」

「ええー! いいじゃんあそぼーよ! 最近はお出かけしてないもん! 今のテーマパークなんていっぱい乗り物出来てるんだってよ! 行きたい行きたい行きたーい!」

「――もう、しょうがないな」


 明るい声色に誘われて意識がようやく下りてきた。今度は自分から瞼を開いてみたが、瞳孔の収縮は追いつかずいやに眩しい世界が元人喰いを出迎えた。

 奥の神経を苛立たせる煩わしい日を遮って、こちらに影を落としながら覗き込んだのは。


「大変でしたね。でももう大丈夫ですよ」

 優しい声の、海のように青い瞳をした――


――――――――――――――――――――――――――――


 花園の中庭は温かい風が吹き始め、ベンチで座って過ごすのが心地良い時期になってきた。

 わたしの香りを囮にして人喰いを釣るのも楽になる。

 足の間に入れてもらい、背中をニアに預けながらちょっとした遊びで時間を潰す。


「久しぶりにあの花みたいなぁ。前まで花園囲んでた白い花」

「あぁ。そういえばずっと昔に無くしてから見てないもんね。じゃあ、アカンサス」

 生えだしたのは縦に長い一本の大きな植物。

 緑の葉っぱは深く切れ込みがあり、先が尖ってトゲのようになっている。天辺に長い花穂が伸び、たくさんの白い花が小さな舌のように垂れている。


「あーこれだ。懐かしいなぁ。なんでこれで人喰いを追い払えてたの?」

「じゃあ今日はこの花のお話ね。昔々、とある神様と妖精さんがいました。神様は美しいその精霊さんを大変気に入り、手元に置こうと求愛しました。けれど精霊さんはそれを拒み、何が何でもと抵抗します。しかし神様は諦めず、その後もしつこく言い寄りました。ついに怒った精霊さんは、振り返りざまに神様の顔を引っ掻いてしまいました。白けた神様は『お前にふさわしい花におなり』と、精霊さんをトゲだらけのアカンサスへと変えてしまいましたとさ。神様さえ追い払ってしまったお話の力を借りて、この花で人喰いを追い払ってたって訳ね」

「なるほどー。でも、嫌だその話。精霊さん全然悪くないじゃん。可哀想じゃん!」

「そうだよねぇ。お花の話って、可哀想なお話多いのよね」

 ニアは軽く言うけど、わたしはやっぱり納得いかない。もっと良いお話の込もった花だったら良かったのに。

 新しく生んだ、わたしの名前にちなんだ花みたいに。


「ま、いっか。じゃあさぁ、次は一番大きい花みせて!」

「んー。大きいかぁ。一番大きいならコレかなぁ。ラフレシア」

 花の魔力が渦を巻く。呼び出されたのは赤く斑な模様の大きな花だ。


「でかー……くっさぁ!」

「ふっふっふー。せっかくだから匂い出てる時期のを呼び出してみました」

「ストーップ! こんなの聞いてないって! やっぱラフレシア無し!」

「えー。珍しいのに……」

 渋々と言った感じでニアが花の魔力を巡らせる。腐ったような匂いを放つラフレシアが、サァっと魔力の霧へと戻って消えていった。


「わざと匂い嗅がせたでしょ……」

「そんなことないよー?」

 わざとの時の声色だ。ニアは時々こういう意地悪してくる。

 そっちがその気なら、こっちにも考えはある。


「じゃあね、一番キレイな花見せて!」

「うーん、うん? 一番綺麗って言っても……」

「あっれー? 分かんないのぉ?」

 挑発を受けて、ニアの顔がちょっとムッとした。

 お花の種類はたくさんあるのに、一番キレイなんて答えがあるはずもない。けれど妹のお願いをお姉ちゃんは無下にしない。

 だからこんな難解なリクエストにだって、彼女は真剣に悩んでしまうのだ。


「じゃあこれ、サンカヨウ」

「お? おぉー」

 勝ったと思った瞬間、答えを出してきた。まさかと思ったけど、見るとそれは確かにキレイだった。

 花びらが普通と違う。透明なのだ。まるでガラスの彫刻みたいに透きとおっていて、だけど作り物じゃなく命の息吹を感じさせる存在感。触れれば壊れてしまいそうな花びらの輝きは、とても儚く、見つめずにいられない魅力がある。


「不思議でしょー。満足?」

「……うん、すごい」

「綺麗なお花は他にもいっぱいあるけどね。フィオならコレ気に入りそうだなって」

 うむむ。読まれている。

 このままじゃ負けっぱなしだ。なんか悔しいので、次の問題を投げてやることにした。


「じゃあ、一番青い花!」

「またそういう系? 難しいよ――」

「ブブー時間切れー! 次は一番赤い花」

「こらぁー! ちょっと待ってってば!」

 後ろを向いてニヒヒと笑う。ニアも口では怒りながらイタズラする妹を止めようと手でお腹を抱いてきた。

 ズルいやり方だけどようやく意地悪できた。

 でもこれくらいしないと勝てないんだからしょうがない。花の魔法使いだけあって、時間を置いたら本当にまた答えを出しかねない。

 やっと弱点を見つけたところで、もっと畳み掛けてやる。


「じゃあ次は、一番好きな花!」

 これも難題だろう。種類をいっぱい知っている程悩むはずだ。


「一番好きなのはコレ」

 そう思っていたのに、意外にもニアはあっという間に答えを用意した。


 手に摘んだそれは、今や世界中でありふれたもの。

 つい数年前に花の魔法使いが生み出した、ある特別な力を込めた白い花。

 名前は――


「フィオネラ」

 彼女がこちらを誘うように囁いた。

 一瞬動きが止まって、目が白い花に固定されてしまう。


 わたしの名前にちなんだ新種の花は、ニアによって生み出された。

 そんな生まれたての、白く小さなありふれた花が彼女の一番好きな花。


 そういう事をなんの恥ずかしげもなく言われると、どうしていいか分からなくなる。

 心臓がトクンともどかしい鼓動を始めて、徐々に熱が登ってきた。

 顔を見られないよう真っ直ぐ前を向く。

 マズイ。首から額まで全部熱い。多分耳も真っ赤になっている。髪を手ぐしで流しといて。

 とりあえずこれで耳も顔も隠せたハズ。


「白い肌もそうだけど、この花弁の先が誰かの赤毛みたいな色してるのも好き。フィオのこの赤毛は、それ以上に大好きだよ」

 細く長い指がサラリと髪を通る。

 いやに意識が傾いて、神経は敏感になっていく。くすぐったさが背骨にまで伝った。身体を密着しているから、ウズウズと肩を震わせてしまったのは確実にバレてしまってる。

 また髪をとかして顔を隠してみたけど、気づけば首まで真っ赤になってしまっていた。

 何も隠せてない。

 唇が震えて何も言えない。

 無理だ。恥ずかしい。こんなことなら意地悪なんて考えなきゃよかった。大後悔だ。


「だからさ、本物のフィオの顔みたいな。ねぇなんで隠れるの?」

 こちらの反応っぷりを知っていて、わざとそんな事を聞く。

 最初に意地悪したのはそっちのくせに、最後にはわたしを懲らしめないと気が済まないらしい。

 こんな時だけ優しくなくて大人げない。

 見逃してもらいたいのに、逃がしてくれない。


「や、別に……」

「カワイイ顔、見たいな。ねぇフィオ?」

 追い詰めるように、あえて低くした声色が耳元で響く。ゾクリとしたものが首筋を走る。


 これじゃあいつまで経っても熱が引かない。あぁもう知るか。こうなったら、一か八かで最後の復讐に出てやるまでだ。

 こっちからも最後の意地悪をやり遂げてやる。


「わたしも大好きだよ」

 やわく身体を撫でていた手がピタリと動きを止めた。今だ。


「ニア――」

 振り返ってお望み通り顔を見せてやる。ただし一瞬だけだ。

 そのまま柔く開いた唇を重ねて――


 わたし達は結局そうやって、やりたいことを押し付け合う。

 イタズラするフリをして好きなことを積み重ねて行く。


 これでおあいこ。

 いつか来る最後の時まで、きっとやり取りは終わらない。

 もう随分こうした事を繰り返し、どっちが先にやり始めたのか分からなくなってしまった。

 けれど、だからこそ、どこまでもわたし達は続いていく。


 こうしていると、二人で人間に戻れて良かったと心の底からそう思える。

 新たに花の物語を作り上げ、魔法は力を増していく。

 世界中の人達がわたし達の花に救われるのも、きっとそう遠くない。

 許される日も、きっと。


 名残惜しいな、なんて思っているとニアがまたやり返してきた。

 熱くヌメる舌先が、こちらの犬歯を舐めてきた。

 人喰いの牙じゃなくなったから、そこに触れたってもう人間を食べてしまう事はない。


 でもやられっぱなしじゃ収まらない。こちらから不意打ちでニアの中へと入り込んで。


 ほら、これでまたおあいこ。

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