第42話 心配ないよ


 また幻覚だろうか。いやそうに決まってる。

 一人になって苦しいことばっかりだったから、願望がいきすぎてこんな幻を見せられてるんだ。


 もしそうなら早く気付け。現実を見ろ。いい加減学べ。じゃないともっと胸を焼かれるぞ。

 ほらもう、目が潤んできた。ニアがぼやけて、粒みたいに分かれて消えていきそう。


 ギュッと瞼を閉めて滴をどけて、あれ。まだニアは消えない。

 こちらに近寄ってきた。期待するな。また姿がぼやけてく。

 瞬きして。ニアは消えない、消えない。


「フィオ」

「あっ」

 温かい。気持ち良い。


 ワスレナグサの魔法でだって、こんな風に抱きしめてはくれない。

 死にそうなほどグチャグチャにされた心は、ヘリクリサムの魔法でさえ治せない。

 どんな魔法でもこうはならない。こんな事が出来るのは彼女しかいない。


 こっちからもしがみつきたい。でも強く抱きしめて壊れたらどうしよう。けどこんなの我慢できない。

 いきなり飛びついたから、ニアがびっくりしてる。

 でも壊れない。どこを触っても。やっぱり。


「……大変だったよね。いっぱい、いっぱい頑張ったんだよね。だからもう良いんだよ。もう嫌な事全部、終わらせてあげるから」

 やっぱりニアだ、ニアがここにいる。

 さっきまでわたしを苦しめていたものが、全部涙になって洪水みたいに飛び出した。


「うあぁぁぁん! ニア、ニアァ! う"あぁぁ!」

 手で背中を握って、子供の手じゃ小さすぎる。どれだけ縋りついても足りない。

 もう腕だけ目一杯伸ばせ。もう限界? 全然足りない。離れてどっか行っちゃったらどうする。


「痛いの治してあげるから。ほら、見せて?」

「ひっぐ、わぁァァん! あああ!」

 ダメ、どっかいかないで。まだくっついてないと嫌だ。


 わたしの胸元を開いて、ニアが唇を寄せてくる。肌の触れ合うところが少なくなると焦ってしまう。

 逃さないよう、くしゃくしゃと色んなところを掴んで、最後は頭を抱きしめた。

 むぐっ、と困ったような顔をしてこっちを見てくる。


「んん、ん」

 くぐもった声がして、胸から強く甘い電流が走った。魅了の魔法印が塗り替えられていく。ママの元からわたしを解放してくれている。


 すごい。一人じゃどうしようも無かったのに、彼女はこんなにも簡単に救い出してくれる。

 やっぱり、ニアはすごい。


「う"ぅぅッ、あああっ」

 魔法をかけ直すのと同時に、歯を立てられた。

 力が抜けていく感覚。何か喰われてる。

 魔力が弱ってく。これは多分、花の魔法を食べている。でもどうせ彼女のものなんだから返してしまっても別に良い。

 そんなことより、もっと抱きしめていたい。


「ぷはっ! ふふ。そんなに抱きついたら苦しいよ」

「うっぐ、ズズ。だっ、てぇ」

 だってしょうがない。もう絶対会えないと思ってたのに、急に生き返ってくるから。

 その上そんな風に笑って許してくれたら、もっと甘えたくなる。これはもうニアのせいだ。


「もぉ、そんな顔しないでよ。ほら、安心安心。大丈夫ですよー。もう泣かないで?」

「ううう、ズズっ、変なふうにあやすなぁぁ」

 改めてわたしを抱きしめて、鼻先を髪に埋めながらそんな事を言う。

 こっちは目が痛いほど本気で泣いてんのに。


 でもそうやっておどけるニアの方も少し声が震えてる気がして、涙を止めるのがもっと難しくなっていく。

 嬉しさとか気持ちよさとか。そんな感情ばかりでがんじがらめにされて、もう自由に動けない。



「ブオオオオ、オオ、オオオ!」

 彼女の事ばかりに埋没していく思考が、呑天どんてんの雄叫びによって叩き起こされた。


 少しの間呆然としてしまった。

 ニアの纏う空気が張り詰めたのを感じて、遅れてわたしも我に帰る。


「そうだ、もう逃げようニア。あいつ強すぎるし、大きすぎるんだよ。せっかく一緒になれたのにわざわざ戦う必要ない」


 あの人喰いは強い。ただ地面に潜って出てくるだけでも、とんでもない破壊力だった。

 人喰い魔女と戦った時でさえ、規模はあれほどじゃなかった。

 ましてニアが正気の今、勝ち目は無い。


「んー? 心配無いよフィオ。全部終わらせてあげるって、言ったでしょ?」

「違うってば! ニアはまだアイツが暴れてるとこ見てないからそんな……」

 ぽん、と言葉を遮るように優しい手が頭に置かれた。

 騒ぐ子供を落ち着かせるように表面を撫でて、それどころじゃないのにまた胸がふわふわとしたものに包まれる。


「平気だよ。人喰い相手なら手加減も要らないしね」

「――手加減?」

「少し待っててね。ちょっと行ってくるから」

「あっ、ニア!」


 天に届きそうな程巨大な人喰いに向かって、散歩するみたいにニアが歩き出す。

 いつもの穏やかな笑顔をこちらへ向けて。


「大丈夫。お姉ちゃん実はけっこう力持ちなんだから」


 そんな、花畑を手入れする時のような事を言って、ニアが魔力を巡らせた。

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