第16話 朝と刃
また、ママの夢を見た。
まだとても幼くて、足がヨロヨロとおぼつかないわたしを、ママは慈しむように抱き上げてくれた。
触れ合った肌はスベスベとして、とても安心できて。また今日も一つ、尊い記憶を取り戻せたことが嬉しかった。
――――――――――――――――――――――――――――
最初に聞こえたのは、スゥスゥと聞き慣れたニアの寝息。
目の前に見えたのは、人喰いの恐ろしい唇。
サァっと血の気が引く。しかし声を上げるわけにはいかない。
起こしては、いけない。
できるだけ振動を立てないよう、体をゆっくりと起こす。脱がされたはずの寝間着は、いつの間にかまた着せられている。気絶した後にニアが整えたのか。
気付かれないよう、慎重に身を起こして自分用の小さなカバンへと向かう。中に放って置かれたナイフを見つけ、わずかな音も立てぬよう手に取った。
昨日スレイから受け取ったナイフだ。『
背後のベッドには、最強最悪とされる人喰いの魔女。
これで助けを呼んだからといって、スレイが勝てるかなんて分からない。犠牲を増やすだけかもしれない。けれど、他にどうしろと言うのか。
わたし一人の『ヒズミの魔法』なんかまだまだ未熟で、逃げることさえできないだろう。それなら。万が一でも助かる可能性があるのなら、今すぐでもこのナイフを抜くべきで……。
「話を聞いて。フィオ」
背後から、声がかかる。ビックリして息を呑んだ。
振り向くと、ニアは既に目を覚ましベッドの横に立ってこちらを見ていた。
「昨日の事。私、謝りたくて。ごめんなさい、フィオ。本当にごめんなさい」
ニアはナイフを取り上げるでもなく、また昨日みたいに無理やり押さえつけることもせずに、ただ謝ってきた。手を胸の前で組み、まるで神様に祈るようにギュッと握っている。
……正直、困惑した。今、何を言われているのか、ニアが何を考えているのかさっぱり分からない。
昨日の事はだって、許すとか許さないとか。そもそも話を聞くか聞かないか以前に。
ニアは人喰いで、わたしは弱くて、だから。わたしが食われるか食われないかという、そういう状況のはずで。
オリが溜まるたびに腹を満たせる、便利な食材として今は生かされているだけで。いつ命ごと食い尽くされるか分からない相手に、そうやって許しを請われるなんて思いもしなかった。
騙そうとしている? とにかく油断はできない。スレイのナイフを胸の前で握りしめ、いつでも抜けるよう見せつける。
おかしい事がいっぱいだ。そういえば、わたしにはなんで昨日の記憶が残っている?
「なんで昨日の事、記憶を食べて消さなかったの。人喰いのニアならできるんでしょ? そうやって都合の悪い記憶を食べてしまえば、わたしを何も知らない、バカな家畜にしてしまえば楽に飼えたのに。なんで」
ニアの顔が泣きそうに歪んだ。ごく当たり前の事を言っただけのはずだけれど、今のわたしの言葉のどこに、そんな表情をさせるものがあったのだろう。
「家畜なんて、そんな。わたしはフィオの事、そういうつもりで見てない。あなたが想像している通り、私は、人喰いよ。昨日だって、食欲を止められなくなってしまって、あなたにいっぱい酷いことしてしまって……。だけど、家畜なんて。それだけは違うの! 私には何よりもフィオが大事! これだけは本当よ! 記憶を奪わなかったのは、こうして直接謝りたかったからなの。都合よくあなたの記憶を操ったりしたら、この先ずっと一緒に居る権利は無いと思ったから。だからごめんなさい。ごめんね、フィオ……」
声を切なく引き絞り、ニアが訴えかけてきた。最後の方はその場で膝をついて、頭をこちらへと垂らして。相変わらず祈るように手を握り、何度も謝ってくる。
「……なにそれ」
ニアの必死な姿に対し、わたしの頭はなぜかスゥっと冷めていった。なんというか、白けてしまった。
話を聞いて。なんて言われて聞いてしまったけれど、結局はそういうことか。素直に自分が『人喰い』だと白状したのだけは意外だったけど、結局はそうやってまた嘘をつくわけか。
「はは、なにそれ。わたしが何より大事? 食欲に任せて、あんなにわたしの事を貪ったくせに」
「……ごめんなさい。本当に昨日は酷いことばっかりして。許して。許してほしいの。あなたが居ないと私は、ダメなの。お願い聞いて。私は『人喰い』の自分が怖いの。もう人間は食べたくない。嫌なのに、本当にもう食べたくないのに。それでも自分じゃ止められなくて。そうやって正気を失う自分が恐ろしくて。でもあなたのおかげで今は耐えられてるの。こんな事は私も初めてなのよ。あなたに澱を食べさせてもらってお腹を満たせば、人を襲わなくても我慢できるようになって。だからフィオが居なくちゃ私は心も持たないし、お腹も、もたない。ねぇフィオ。お願いだから居なくならないで。お願いだから一緒に……」
「――もう、うるさい」
頭の中で何かが発火した。今の言葉の中には、わたしの為を思う事なんて一つもなかった。わたしの気持ちに気付こうなんて心遣いは、一つも無かった。
なにが、何が食欲だ。わたしが大事だとか言って、ニアにとってのわたしは所詮、食欲に飲まれて忘れてしまう程度の、小さい存在だってことじゃないか。
「……もういい、もういい! どうせ裏切られたわたしの気持ちなんて、ニアには分かんない! 本当に、お姉ちゃんみたいに思ってたのに! 記憶を奪わなかったのは、まだわたしと一緒に居たいから? 冗談じゃない。いつ食べられるかも知れないのに、また一緒になんて無理! 許して欲しい? 今までずっと優しいフリして、人喰いなの隠して、わたしを助けたとか言って騙して、ただ手元に置いておきたかっただけのくせに。どうせママだって、あなたが、殺して……。そんなの、許せるわけない! 今だってそうやって反省しているフリをして、わたしをまた騙そうとしてるだけ! わたしが魔法使いで、オリが溜まればまたお腹を満たせるから。食材としてすごく便利で、手放したくないってだけでしょ! ニアが言ってることは全部全部ニアにとって都合のいいとこばっかり!」
「それは――」
もういい。こんなのはもうただの茶番だ。どうせ何を言われても信じられない。そんなことより、わたしにとって一番大事なのはどうやって生き延びるかだ。
そのためにできる事は一つ。ナイフを握る手に力を込める。
「"
ニアが何かを呟いた。瞬間、わたしの足元から植物のツタが素早く這い上がった。一本どころじゃなく、何十本も、絡み合うように伸び上がる。
ツタは緑色の葉を生やし、すべての葉の根元から小さい枝のように鈎を生やしている。細い見た目に対して丈夫で、それがお互い絡み合って強度を増している。驚いている間に全身巻き付き、身動きが取れなくなった。
伸びたツタの先端にひときわ大きな鈎があり、それがわたしの手元からナイフをひっかけ取り上げた。
「……本当に、こんなことしか出来なくてごめんね、フィオ。自分のことばっかりで。ダメなお姉ちゃんでゴメン」
相変わらず、何度も謝りながらニアが立ち上がる。
伸びたツタはまるで主人に従うように、取り上げたナイフをニアへと差し出した。
「本当、フィオの言う通りだね。私は自分の事ばっかりで、フィオを裏切ったこと、全然謝って無かったんだ。あなたの気持ちに気付けないなんて、私は本当にバカだね」
ナイフと、そしてどこか中空へと視線を泳がせながらニアが言う。その瞳には力が無くて、まるで心の底から呆れるように、もう何かを諦めてしまったかのように、表情を無感情なものに染めていた。
「……それじゃあこうしましょう。フィオ。私お願いがあるの。最後の、たった一つのお願い」
スッと、手に青い魔力を巡らせて、ニアが自分の首筋にあてがった。その青い魔力は『
「なに……を」
たった一言、言い切るより早くニアは刃物と化した手で自分の首を切り裂いた。
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