第3話 一人ぼっちの目覚めに

 まどろみの中、顔に熱を感じた。見ると、窓から朝日が覗いて目をくらませた。思わず身を固める。しかし、相変わらず太陽の光が強く指して、まぶたの裏まで赤く染めた。上半身だけ起こして眩しくないところまで逃げこんで、ふっと一息つく。


 大きくて、心地よいベッドと、それを覆うカーテン。傍らには、バラのような彫刻の入った木製の家具、木製の壁。

 全体的に落ち着いた雰囲気の、よくある普通の部屋のようだけれど。


 一拍遅れてようやく、変だと気付いた。見覚えのあるものが、何一つない。

 ここはわたしの部屋だっただろうか?

 窓の外に見える花畑は、いったいどこのものだろう。


「あれ……? なに、ここ……」


 あれはわたしのランプ? 花瓶に飾った花は誰が活けたもの?

 分からない。


 急に他人の家に現れてしまったような、居心地の悪さがある。わたしが今かぶっていた毛布は、勝手に触っていい物だっただろうか?


「わたしのじゃない。わたしの部屋、どこいったの……?」


 いや、それ以前に。わたしの部屋はどんな場所だっただろう?

 わたしは何を持っていて、何を大事にしていたんだっけ。


 どうしよう、何も思い出せない。

 どうしてここに居るんだろう。いつから、眠っていたのだろう。


「分かんない……何も。あれ? なんで、なんで?」


 疑問符ばかりが頭に浮かぶ。何も思い出せることなんてないのに、「何?」がどこまでも積重なってだんだん混乱してきた。


 わたしって、どんな人間だったっけ。


「…………怖い」


 自分のことさえ何一つ分からないことが、怖い。

 わたしは果たして、いい人間だったか、悪い人間だったか。何をしたらいいのだろう。

 辺りにある物全部が、敵に見える。そう考えだすともう、身動きが取れなくなってしまった。心細さがどこまでも強くなって、悲しくなる。


 こんなに苦しんでるのに、助けてくれる人は誰も居ない。

 ……わたしは、一人ぼっちだ。


「なんなの……助けて……誰か、ママ、ママァ……」


 いっそ泣きそうになって、うずくまる。時間が過ぎるほど息苦しくなって、そのまま押しつぶされてしまいそうだ。


 お願いだから、誰か何か教えて。誰か、わたしを助けて……。


「おはよう」


 不意に声がかかって、ドキリとする。

 いつの間にか開かれたドアの向こうに、顔の整った女の人が立っていた。

 多分、怖い人ではないみたいだ。彼女のその柔らかな声色にほんの少し、救われる。


「いっぱい寝てたねー……どうしたの、何か、怖いの?」


 震えているわたしの様子に気付き、思いやるように言いながらベッドの端に腰掛けた。意外と距離が近くて、思わず毛布を引き寄せて身を引いてしまう。

 ……この家の人だろうか。


 別に泥棒をしようだとか、悪さするつもりは無いけれど、いけないところを見つかってしまった気がして、申し訳なくなってくる。


「あなた、誰ですか? わたし何も覚えて無くて……ここって、どこですか……?」


 空っぽの頭から、なんとか言いたいことだけを引き出していく。


 なにはともあれ、彼女なら何か教えてくれるかもしれない。

 期待して見やると、彼女は何も言わず、整ったその顔の形を、何か悲しむような表情へと歪めていた。

 ……何かマズイことを言ってしまっただろうか。これでも今のわたしには精一杯の言葉だったのだけど、彼女を悲しませたみたいだ。

 初対面からこんなだなんて。気まずくて、いたたまれなくなる。


「何も、覚えてることはないの? なにか一つくらいはあるんでしょ? 楽しかった事とか、幸せな思い出が。ねぇ……」


「いえ、あの、わたし。ごめんなさい……何か知っているなら、教えてほしいんです。なんでわたし記憶が消えてしまってるんでしょうか……?」



 できることなら、わたしからも前向きになれる事を言いたいけれど、気の利いたことなんて何も思いつかない。気まずさばかりが濃ゆくなる。


 うつむく彼女の表情は、より一層悲しみを深めている。眉をひそめて、痛みをこらえるように歯を食いしばっているのが分かって、萎縮してしまう。


 ただそんな表情もつかの間、スッと顔を上げた頃には口元を微かに和ませていて、それがわたしの胸をホッと安心させてくれた。

 ……気遣ってくれたのだろうか?


「……そうね。うん。どこから話したらいいのか難しいけれど。とにかく、あなたのことについては、後でゆっくりお話でもしながら、詳しく教えるわ。じゃあ、記憶が無くなってしまった理由から話しましょう……ねぇ、人喰いって、覚えてる?」


「……人喰いのことなら、知ってます」


 過去の思い出などは忘れてしまったけれど、言葉だとか、その意味ならおおよそ覚えている。

 人喰い。人間を襲い、人間を食べる、わたしたち人間の、天敵だ。



「私達が住んでいた村がね、その人喰いに襲われたのよ。つい先日、ホントに昨日のことだけど」


「……」


「あなたはその人喰いに食べられかけたのよ。これも多分、覚えてないわよね」


「……はい。ぜんぜん、覚えてないです。そっか、わたし人喰いに」


 昨日、自分が食べられかけて、死にかけていたなんて。なんで今生きてられるのか不思議なくらいだ。続けて彼女は語る。



「きっとその時に、あなたの記憶はほとんど食べられてしまったのでしょう」


「私が村に遅れて駆けつけると、あなたが人喰いに襲われているところだったわ。魔法を使って人喰いを倒して、なんとか命だけは助けられたのだけど」


「やっぱりほんの少し、遅かったのね。そう……やっぱり、間に合ってなかったんだ……」


「ごめんなさいね。ごめんなさい……」



 声色が次第に沈んでいく。話の最後の方はもう顔をうつむけていて、表情も見えなくなっていた。


 あぁ、あぁそうか。

 記憶は食われた。わたしは人喰いに、記憶を食べられてしまっていたのか。

 奴らにとって本当に美味しいと思えるものは、人間の太ももや耳など生の肉じゃなく、記憶にこそあると言っていた。舌で感じるところを超えて、何より美味しいものらしい。それはこの世に生きる人間なら誰もが教わる、誰もが知っている、人喰いについての性質だ。


 それだけ聞いても、正直まだ頭は追いつかないし、実感も湧かないけれど。なんとなく、腑に落ちた。



 そうかこれが、人喰いに食われるということか。


「じゃあ、他の人たちはもう……わたしの、ママは……」


 声が自然と震えだす。言い切る前に、彼女の腕がわたしの頭を抱き寄せた。

 鎖骨のくぼんだあたりにわたしのあご先がぴったりとおさまって、不思議と落ち着く。


 顔を下げてあごを食い込ませると、向こうからも少し押し返してくる。お互いに欠けてしまったものを、少しでも埋めていくように。


「今は、それ以上考えなくていい。後は落ち着いてから、ゆっくりお話しましょう。約束ね。だから今は、もういいのよ」


 彼女の声も、悲しみに満たされていて、それ以上何も言えなくなった。結局のところ、わたしはまだ何も思い出せない、自分のことは何も分かってないけれど。



「ねぇフィオネラ。わたしはもう誰も失いたくない。あなたまで、失いたくないの。だからしばらくの間だけでもいい。人喰いが辺りに居なくなるまで。あたなの傷が癒えるまででいいから。ここで一緒に。私をお姉ちゃんだと思って、一緒に暮らしましょう」


 そんなことを言う彼女の声はどこか必死で、提案というより、むしろお願いされているみたいだった。

 必死に祈るように、身を寄せてきて。どこからか鼻の奥にツンとした痛みが入った。


「……うん」


 全く覚えてもいない相手に、これほどすがってしまうわたしは、すこし考えが浅すぎるだろうか。

 けれど、一緒に暮らそうというその言葉には、これからの事を前向きに思わせるだけの力があった。

 彼女を信じてもいいと、そう思わせるだけの必死さがあった。


 どのみちもう、その手を振り払うことは、わたしには無理だった。

 一人ぼっちで目が覚めて、ただ震えるだけのわたしを迎えに来きたのは、彼女だけだったのだから。


 底なしに冷え込んで、凍りついて、動きさえ止めてしまいそうなわたしの心を溶かすのに十分な温かさを、彼女だけが持ってきてくれたのだから。

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