偶然天使
三木ゆう子
旅行に行く前は事務手続きが必要
そろそろ宇宙旅行がしたい、とシノがつぶやいたとき、サクラはどうやってそれを聞かなかったことにしようか必死で考えはじめた。まずは作業に集中していればだいじょうぶだろう。それはきっとただの気まぐれなひとりごとであって、自分自身ですら口にしてしまっていたことにも気がつかない、そんな類のもののはずだ。そうであってほしかった。しかし、シノは「宇宙旅行がしたい!」とよく通る声でもういちどはっきり口に出して立ち上がり、サクラのほうをじっと見つめた。これからどうやって寝たふりを真実のように見せるか、考える間もなくシノはサクラの肩に手をおいた。
「ねえ、無視しないでよ。傷つくじゃない」シノがいった。「宇宙旅行、しようよ。もうしばらくしてないよ。このあいだしたのってもうどれくらい前だっけ? そろそろさあ、いっしょに旅行したくなる時期じゃない?」
「したいもなにも、もうわたしたちにはお金がないでしょう?」サクラは事実にすがった。「このあいだ、っていうのは去年の暮れにした土星旅行のことですよね。あなたがそのときに壊した宇宙船の賠償金で、今年度分の予算まで使い切ってしまったじゃないですか」
「お金はさ、大学に頼めばなんとかなるよ」シノが猫のような目を細くして笑った。笑うと目が消えるこの女の顔は苦手だとサクラはいつも感じていた。シノはあっけらかんとつづけた。「事務の人にいえばなんとかね」
「そのお願いをするのはわたしってわけですよね。いやですよ。カナエさんにお願いするといつだってろくなことにならないでしょう」
サクラはそういって、逃げるように研究室をあとにし、呼び止めるシノを振りかえりもせず帰宅した。その後シノからくるメッセージはすべて無視した。どうせいつもの気まぐれだから、放っておけば諦めるだろうとサクラは考えていた。その考えはときどきシノがつくるチョコレートケーキよりもずっと甘かった。それから何日ものあいだ、シノは研究室でサクラを見かけるといつも宇宙旅行の話をして、サクラの机の上に銀河系ツアーのパンフレットを置き、見せつけるように惑星の軌道計算を壁一面の電子黒板に書きつけた。話題は古典的な天体力学に限定され、一万光年離れた星を見つけてサクラの名前をつけた、と真偽の定かではない口説き文句をこしらえ、その寿命を正確に計算してみせた。
「ほらね、美しいだろう」と黒板の数式を眺めながらシノがいった。そんな計算されても知らんがな、とサクラは思ったが、口にするのは負けた気がして、とうとう一週間も過ぎてサクラがシンプレクティック幾何学の諸概念を理解しはじめたころ、忍耐の限界が訪れた。サクラは諦めて、事務のカナエのもとへ行くことにした。つまり、これから何ヶ月も古典幾何学の講義を受講するよりは、そのほうがいくらか精神的健康のためによいものと思われたのだ。
「出張の申請なんですけど、いや、無理にってわけじゃないんです。ただ、シノがどうしても確認だけはしてこい、ということですので」サクラはおずおずとカナエに話しかけた。事務室はせまいもののほかの者は出払っているようで、カナエは座ったままゆったりとくつろいだようすでサクラを見上げた。黒縁メガネをかけていて、髪の毛は茶色に染めている。化粧気は薄く、わたしが身なりをもうすこし整えるのは仕事の場ではないところですよ、と以前カナエは嫌味たらしくサクラに話していた。いつもどおり面倒そうな表情を見て、サクラはすでに後悔しはじめていた。それでも、カナエの口から出たのは意外な言葉だった。
「いや、無理ってことはないけれどね」カナエはなにかコンピュータを操作しながらいった。「たしかにシノさんとサクラさんの研究室の予算はもう雀の涙ほどしかないね。去年の土星出張で大学の宇宙船をまるまるダメにしちゃったからねえ。なんであの人っていつも備品を壊しちゃうんだろうね」
「わたしもそれは苦々しく思っているんですけど、どうにも」サクラは答えた。
「まあ、いって聞くって人じゃないからね。研究者なんてそんなもんだよ」その断定はいかがなものか、とサクラはすこし感じたものの、黙っておくことにした。いわなくていいことは口にしないでおくのが吉だと、シノと行動を共にしていつも感じるのだから。カナエがつづけた。「だからこれは個人的なお願い、ってことなんだけどね」
ほらきた、とサクラは思った。いつもそうだ。カナエはいつも「個人的なお願い」で無理難題をふっかけてくるのだ。シノへの復讐なのか、わたしがきらわれているのかはわからないけど、この人はいつもそう。前のときはなんだったっけ? そう、たしか3000光年先の星にいる破壊星人(というのはシノがつけた種族名だけど)というヘンテコな民族の紛争を解決するハメになったのだ。その民族はいつも内紛をくりかえしていて、所有している兵器の量と質は7回近隣の星ぼしを滅ぼしてなおビッグバンを起こせるほどだった。あのときは命の危険どころか、銀河系の危機を察知して冷や汗をかいた。それでも、シノはあっけらかんとして「大丈夫、きっと天国まではあの殺戮兵器も追いかけてこないよ」などといって笑っていた。それをきいて、お前は地獄行きだよ、とそう思ったのをおぼえている。
「ねえ、きいてる? 目の焦点が合ってないみたいだけど」カナエの言葉にサクラはハッとした。
「すみません、ちょっと先週から古典幾何学の講義を受けていたもので。なんでしょう?」
「あなた、専攻は
たぶん今回も簡単ではないだろう。そのことはサクラがだれよりも知っていた。しかし、話が出た以上はシノにも会話は転送される。この場での断り文句はまったく意味をなさなくなる。
サクラは苦虫を噛み潰したような表情で、「わかりました。日程はシノと話し合って調整します」と答えた。
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