第26話 大人

 俗に言う大人になったということなのか。翌朝の私は、自分のベッドの上で窓から降り注ぐ朝日を薄目で眺めながら、そんなことを考えていた。


 つい先ほどまで隣で眠っていた男性はいない。午前中に講義があるということで、大学へ向かっている最中なはずだ。本当は私も同じなのだけれど、ベッドから出る気にはなれなかった。横たわらせている肉体には、まだかすかな気だるさが残っている。原因は睡眠不足だけではない。他に幾つもの理由が存在した。


 想像していたシチュエーションとは大きく違った。けれど私は大人の女性になった。これだけがすべてではないけれど、なんとなくそんな気がした。ファーストキスと同時にこのような展開になるとは、夢にも思っていなかった。そんなつもりはなかったのに、場を支配していた雰囲気に逆らえなかったのだ。


 これが状況に流されるというものなのだろう。文字だけではわからない独特な空気が、昨夜の私の部屋に充満していた。だからといって、嫌な気分になっているわけではない。積極的に勝負を仕掛けようと思っていなくとも、結果的に好意を抱いている男性に初めてを捧げられた。


 事の顛末を聞けば、幾人かは「ふしだらだ」と私を軽蔑するだろう。何せ、交際中だった男性と別れた直後の出来事だったのだ。自分自身でも、同様の感想を所持している。


 それでも、どことなく満ち足りた気分になっているのが不思議だった。頭から毛布をかぶると、昨夜の出来事が閉じられた瞼の裏に浮かんでくる。顔から火が出そうなくらい羞恥で頬を真っ赤にしているのに、口元が少しだけ緩む。まさかこの私が、男性と肌を重ねられるなんて想像していなかった。


 振り返りたくもない中学や高校生活を考えれば、まともな恋愛を経験できているのが奇跡みたいだった。しかし決して夢ではなく、私は確かな現実を生きている。


「……私も、大学へ行こうかな……」


 ふと急に新しい彼氏になった掛井広大の顔が見たくなった。思い立ったら即行動とばかりに、ベッドから降りると衣服を身に着ける。大学に入ってから本格的に覚えた化粧を施し、出発の準備を整える。


「広大君はきちんと大学へ行っているかな」


 そんな独り言を呟きながら、恋人とひと晩を過ごした部屋を出る。外に出てドアの鍵を閉めていると、背中に太陽の光が寄り添ってくる。どうやら、今日も良い天気になりそうだ。


   *


 やってきた大学の教室内が、私の登場とともに一気にザワつきだす。特に何をしたわけでもないので、逆にこちらが驚く。現在は講義の合間の休憩時間であり、静かな雰囲気の中にいきなり乱入し、自ら注目を集めたりもしていない。普通に入室しただけだった。


 にもかかわらず、まるで人気の俳優でも来たかのような騒ぎっぷりである。ますますわけがわからなくなり、挙動不審に私は顔をあちこちに向ける。一定しない視線の中に、ふと見慣れた顔が映る。新しく恋人になった掛井広大ではなく、最近一緒に出かけたりする女性たちだった。


「もしかして……杏里ちゃん?」


 女性の中のひとりが、恐る恐るといった感じで声をかけてくる。何を当たり前の質問をしているのだろうと不思議がりながらも、私は「そうだよ」と応じた。


「やっぱりィ!」


 興奮か驚愕か。どちらにせよ、女性陣が私を東雲杏里本人だと知って、興奮しているのだけは確かだ。これで騒ぎの理由が、ますます不明になった。迷宮入りする一歩手前ぐらいの感じである。


「もしかして、整形したの?」


 何かを聞きたそうにしながらも、まごまごすること数分。複数の友人女性の中で、ひとりが代表するように質問してきた。ここでようやく私はハッとする。新たに二度目の整形手術を行っており、以前の私とは大きく変わっている。昨夜の出来事のインパクトが強烈すぎたため、そちらの方をすっかり忘れていた。


 風貌は変わっているものの、どことなく見覚えのある名残を所持している。そんな女性が教室へ入ってきたのだから、ある程度の騒ぎになるのはむしろ当たり前だった。


「うん……似合わないかな」

「そんなことないよ。凄く可愛くなってる」


 友人の女性たちと一緒に、いつも使っている席まで移動する。道中も周囲の人間たちが、好奇の視線でじろじろと私を見てきた。無言ではあっても、何かを指摘されているみたいで、どうにも居心地が悪い。考えてみれば、整形したと公表するような真似をしたのは今回が初めてだった。


 1回目の時は誰にも知られないようにしていたため、この場にいる学生たちもその事実を知らない。私自身もそのつもりだったのだから、この点についての問題は一切なかった。ゆえに1回目の整形を終えた時点の私が、教室にいる面々にとっては本物の東雲杏里になる。そして名前も顔も知っている女性が、いきなり整形手術を施して目の前に現れた。


 興味を覚えるのも無理はなく、とりわけ友人の女性たちは熱心にどの部位を直したのかなどを尋ねてくる。別に隠す必要もないので、私はひとつひとつ丁寧に答えていく。そのうちに新しい彼氏である掛井広大が教室へ戻ってきた。どうやら、今の今までどこかへ出かけていたみたいだった。


「あれ、やっぱり講義を受けに来たの?」


 フレンドリー感溢れる態度で、掛井広大が私の隣へ座る。いきなりの密着ぶりに、周囲の人間から小さなザワめきが起こる。


「うん。黙って部屋にいるのも、暇だったし」


 多少の気恥ずかしさを覚えながらも、普通に言葉を返す私の顔を、友人の女性たちが興味津々といった様子で覗き込んでくる。


「なんか2人、すっごく親密になってない?」

「あ、私もそう思った。絶対、気のせいなんかじゃないよね」


 いきなりの指摘にどう応じたものか悩んでいると、隣に座っている掛井広大が実にあっさり私たちの関係を暴露した。


「実は昨日から付き合ってんだよね。もうラブラブ」


 このような展開に慣れてない私は「本当?」と尋ねられても、顔を真っ赤にして頷くぐらいしかできなかった。代わりに隣の掛井広大が得意満面に、友人たちの質問に受け答えしている。


「もしかして、杏里ちゃんが整形した理由って掛井のため?」

「本当に? 彼氏を愛する一途な乙女心ってやつ?」


 そういうわけではないのだけれど、ここで「違います。元彼のためです」なんて説明したら、事態がややこしくなるだけだ。糸原満と別れて、掛井広大と交際を開始したのは事実なので、とりあえずは友人女性たちの発言に乗るような形で肯定の返事をする。


「すっごーい。でもさ、杏里ちゃんって、年上の彼氏と付き合ってなかった?」

「あ、だよね。確か、前に一度会ったことある」


 以前に糸原さんとデートしていた時、偶然に友人女性たち及び掛井広大と出くわしたことがあった。そんなに古い出来事ではないので、その場にいた人間は皆覚えているはずだ。


 こんな状況下で「私はずっとフリーだったよ」と嘘をつけるはずもないので、素直に別れた事実を皆に教える。


「ま、要するに俺が無理やり奪い取ったのさ。

 自分で自分の魅力が恐ろしくなるな」


「うわ。掛井、キモっ。私だったら、付き合うの無理だわー」


 友人女性のからかいを含んだツッコみに掛井広大が「うるせえよ」と返せば、場の雰囲気がすかさず明るくなる。


 同時に私は新しい彼氏へ感謝の念を覚えた。元彼と別れた直後に、すぐさま新しい男と付き合う。尻軽女と侮蔑されてもおかしくないだけに、そうした空気に包まれるのを極端に恐れていた。


 しかし掛井広大の発言で、周囲の興味はすでに彼へ移った。きっと私を気遣ってくれたのだろう。そう思うと、自然に涙が溢れそうになる。


「杏里ちゃん。本当に掛井なんかでよかったの?」


 またもや冗談半分で聞いてくる友人女性に、私は心から「うんっ」と返事をした。


   *


 すっかりラブラブなカップルという印象を持たれた私と掛井広大は、並んで大学の講義を受けていた。講義中にもかかわらず、時折些細な悪戯をされたりする。相手男性をたしなめながらも、新鮮な感覚にテンションが上がる。目立てば叩かれる存在にすぎなかった私が、良くも悪くも教室内の脚光を浴びるようになった。文字どおり生まれ変わったみたいな気分だった。


 受けるべき講義は午前中にしかなかったので、終わればあとは帰宅するのも自由になる。それを知っている友人女性たちがお茶に誘ってくれる。


「残念。これから、杏里は俺とデートだからさ」


 応じようと思っていた矢先、掛井広大がアカンベーするみたいに舌を出しながら、同級生たちの誘いを勝手にすべて断ってしまった。


 後ろから抱きつくような形で、私の上半身に手を回してくる。その様子を見せられた友人の女性たちは、やや呆れた口調で「本当にラブラブね」と降参気味に呟いた。


「ご、ごめんね。また今度ね」


 そう言うしかない私は、友人に手を振りながら、新しい恋人の掛井広大とともに退室する。先ほどの対応ひとつを見ても、元彼の糸原満と大きく異なっていた。さっきの現場に糸原満がいたら、間違いなく自分のことは気にしないで、友達と遊んでくればいいと私の背中を押してくれたはずだ。


 気を遣ってくれてるのがわかり、交際当時の私も相手の優しさだと判断していた。しかし、こうした強引なのも悪くない。掛井広大と恋仲になって、そんな思考が大勢を占めるようになっていた。元々が内向的な私には、もしかしたら草食系と呼ばれる男性よりも、掛井広大みたいな肉食系なタイプが合っているのかもしれない。


「これから、どうしよっか」


 大学を出て繁華街を歩きながら、私は隣にいる彼氏へ問いかけた。今日はバイトもなく、スケジュールも空いているので好きなだけ相手へ合わせられた。


 尋ねられた掛井広大はさも当然のように、私の部屋へ向かうと答えた。日付が変わるまで一緒に過ごした場所だと思えば、頬が熱をもってくる。街中で余計なことを考えるなと言われても、勝手に昨晩の濃厚なシーンが脳裏に蘇ってくる。


「じゃ、じゃあ、お昼の材料でも買って帰ろうか。

 広大君も、お腹……空いたでしょ」


「俺? 大丈夫だよ。杏里をたくさん食べるから」


 下ネタというのと無縁だった私は、相手が何を言ってるのか、最初わからなかった。ポカンとしてるこちらの表情を見て、掛井広大がニヤリとする。


「つまり、こういうこと」


 日中の繁華街。当然のごとく、周囲にはたくさんの人が歩いている。その中で気づけば、私の唇に掛井広大の唇が重ねられていた。

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