第25話 キスの味

 なにやら急にドキドキしてきた。洗面台にある鏡で自分の顔を確認してみると、見事なまでに真っ赤になっていた。


 ただの男友達と家で普通にお喋りするだけ。それ以外は何もない。鏡の中にいる私へ小さな声で語りかける。そのあとで一度だけ大きく頷いてみる。まだ心臓はドキドキしているが、多少なりとも動揺は落ち着いてきたみたいだ。


 それにしても、大好きな彼氏に振られたばかりなのに、どうしてこんな状態になっているのだろう。もしかしたら東雲杏里という女性は、自分で思っているよりも浮気性なのかもしれない。


 すでに恋人関係は解消されているのだから、正確には浮気にはならないのだけれど、それでもなんとなく気分はもやもやする。しかし、いつまでも洗面台で鏡の中の自分と会話をしているわけにはいかない。部屋では掛井広大がコーヒーを待っているのだ。


 沸いたお湯で手早くインスタントコーヒーを作ると、2人分のマグカップを持って私は部屋へ戻った。コーヒーカップから上がっている湯気の向こうに、部屋の中で座っている男性の姿が見える。初めて来たはずなのに、まるでそこにいるのが当たり前みたいに馴染んでいる。なんだかとても不思議だったけれど、これも相手男性の持つ特性のひとつなんだろうと思えば妙に納得できた。


「お待たせ」


 内心の動揺を表に出さないようにしながら、私はテーブルの上にコーヒーカップを置いた。すぐに掛井広大から「ありがとう」というお礼の言葉が返ってきた。


「美味い。さすが杏里ちゃん。コーヒーの淹れ方も完璧だね」

「完璧って、誰でも作れるインスタントだよ」

「いや、俺には隠せないよ。なにせ、違いのわかる男だからね」


 いつもどおりの軽口が、私の部屋でも当たり前のように炸裂する。たまにウザいと感じたりもするけれど、今日に限っては安心感を与えてくれる。


 私が意識しすぎているだけで、相手男性にすれば異性の部屋で2人きりでお喋りをするのは慣れっこなのかもしれない。そう考えると、急速に気分が楽になった。


「ところでさ……」


 楽しくお喋りを楽しんでいた時、ふと掛井広大が真剣な顔つきになった。真面目な話をしようとしてるのだとわかり、ほんの少しだけ緊張する。けれどいくら待っていても、相手男性は台詞の続きを口にしようとしない。やや重い沈黙が部屋の中に流れる。


「いや、やめておくよ。こういう時に言うのは、なんか……卑怯な気がする」


 ちょっとだけ切なそうに笑う掛井広大の顔を見た時、私は自分の胸がキュンとするのを感じた。


 顔面が熱くなって、まともに相手の顔が見られなくなる。自分がどうなってるのか、訳がわからない。しっかりするのよ、東雲杏里。自分で自分を叱責してみるけど、どのくらい効果があったかは不明だった。


 相手はただの男友達なのだから、変に意識する必要はないのよ。何度繰り返したかわからない説明を、心の中でもう一度だけ自分自身へ向けて行う。


 掛井広大の気持ちはすでに知っている。信じられないことだけれど、私を好きだと言ってくれた。恋人には困らなさそうな外見をしているのに、東雲杏里という女性を一途に想ってくれている。


 どうしてこんな私なんかをと、卑屈さに飲み込まれそうになるも、途中で踏みとどまる。これもすべて、自分を変えようと頑張った結果でありご褒美なのだ。綺麗になればなるほど幸せになれる。それだけを道標に、ここまで進んできた。それが予期せぬ事態により、正解なのかどうか考えさせられるはめになった。


 一生懸命に美しくなったはずなのに、大好きだった彼氏に別れを告げられた。揺らぎかけた自信を、回復させてくれたのが他ならぬ掛井広大だった。彼と出会って以来、同性の友人も数多く増えた。自分なりの評価だけれど、ファッションセンスも磨かれた。足を踏み入れた新たな世界は私を満足させてくれている。


 けれど糸原満さんは、住んでいる世界が違うと発言した。綺麗になる前は同じだったのだとしたら、なんという皮肉だろう。しかし私は、後戻りだけはするつもりがなかった。だとすれば、どんなに好き合っていても、別れは回避できなかったのかもしれない。そこまで考えて、私はハッとする。


 偶然であった男友達に抱きついて号泣するほどの傷心を抱えていたのに、早くも過去の思い出に変えようとしている。あまりの切り替えの早さに、自分自身でも驚きを隠せない。それもこれも、掛井広大がいてくれたからだろうか。けれど確証がないのもあり、あと1歩が踏み出せない。なにより、自分自身が尻軽女になったみたいで嫌だった。


「うん……言わない方が……いいのかもしれない」


 舞い降りた長く深い沈黙の果てに、私はそんな台詞を呟いていた。彼にありったけの想いを今ぶつけられると、とても拒めそうになかった。このまま仲の良い友人でいるためには、時に口にするべきでない言葉も存在する。あとは無言で、私は両手で持っているコーヒーカップに口をつける。


「そうだね。そう……しようか……」


 小さな小さな声だった。そよ風が吹きぬけたみたいに私の耳を通り過ぎたあと、部屋にはここ数分で急速に仲良くなった沈黙が再び訪ねてきていた。


 なんともいえない雰囲気の中、気まずいかどうかもわからない沈黙が私と掛井広大との間に流れる。何か明るい話題で場の空気を変えようと思うのだけれど、効果的なひと言が見つからない。


 時間ばかりが悪戯に過ぎていき、時計の針の音だけがリズミカルに部屋へ響く。緊張で汗が額に浮かび、前髪を強く引き寄せている。喉はからからなのに、コーヒーカップを両手で持ったままで、中身を飲もうとも考えられない。


 生まれて初めてともいえる異質な状況下で、恋愛初心者の私ができるのは無言で座っている程度。完全に相手任せだ。その掛井広大も、どこか遠い目をしながら口をつぐんでいる。


「駄目だ。やっぱり、我慢できない」


 久方ぶりに室内へ木霊した声の持ち主は掛井広大だった。突然の発言に戸惑いながら、私は「え?」と顔を上げる。


 その瞬間に掛井広大の両腕が伸びてきて、キツく抱きしめられた。なにもかもがいきなりだったので、抵抗も何もなく私は唖然とする。


「こ、広大君……コーヒーがこぼれちゃうよ……」


 やっとの思いで出てきた台詞がそれだった。なんだか情けなくなるも、他に適当な言葉を思いつけなかった。私の訴えを受けた掛井広大は「ごめん」と謝ってくれたが、両腕はしっかりと私の身体を捕まえたままだった。


 本来なら「止めて」と拒絶して、相手の腕を振り払うべきなのかもしれない。けれど掛井広大からもたらされる温もりが、傷ついた心を優しく包んでくれる。何故だか、涙が溢れそうになる。理由はまったくわからない。自然とそうなっていた。もしかしたら、私は掛井広大という男性に癒されているのかもしれない。


 あくまで想像でしかないけれど、妙な自信がある。熱烈に想いを告白してくれた男性。そして新たに整形をした私をも素直に受け入れてくれた。綺麗になる私を認めてくれて、なおかつ好きだと言ってくれる。糸原満さんへの想いを引きずりながらも、着実に掛井広大の真っ直ぐな想いに惹かれていく。


「俺、杏里ちゃんが好きだ。彼氏と別れたばかりで、傷ついている時に言うのは間違ってるとわかってる。でも、どうしても! 想いを伝えたかった……」


 いつにない真剣な表情が、相手の本気度を教えてくれる。こうなれば、もう私も逃げるわけにはいかなかった。もちろん返事を待ってもらうという選択肢もある。けれど、私にはそれが不誠実なように感じられた。


 糸原満さんとの関係はもう終わっている。ならばいつまでも昨日を思ってメソメソしてるよりかは、明日を見るべきだと考える。


「わかったよ、広大君。それなら、私と……付き合おう」


 流れの中での交際承諾となった。私がそんな返答をすると思ってなかったのだろう。当の掛井広大は想いが叶ったというのに、ポカンとしていた。


 ややしてから、ようやく発言の意味を知ったように掛井広大が心からの笑顔を浮かべた。私を抱きしめる両腕により力が込められ、少し痛いくらいだった。


「ちょ、ちょっと、広大君。痛いってば」

「あ、ご、ごめん。でも、これが俺の杏里ちゃんへの愛情の量だよ」


 先ほどまでの真剣さはどこへやら。いつの間にか、いつもの不誠実そうなお調子者の性格が相手男性に戻っていた。けれど私は知っている。掛井広大という男性の真面目な一面を。私だけが知っている。


 共有する秘密みたいな感情は、余計に彼との関係が特別であると思わせる。まるで最初から、こうなるのが運命だったみたいだ。


 糸原満さんと別れた直後に、新しい彼氏を作る。傍目から見れば、尻軽女もいいところだ。周囲の反応は、掛井広大との関係が露見する前の段階で、ある程度の予想はついた。せっかく体形も顔も変え、新しい人生を大学入学後に歩んだ。なのに指摘点は違えど、結局は後ろ指を差される日々を送るはめになるかもしれない。


 掛井広大に返事をする前からわかってはいた。だからこそ、相手男性が口にしようとしていた台詞を一度は拒絶した。これまでの人生で積み上げられた常識から、いけないことだという通告も受けた。にもかかわらず、私の決断は非常識と非難されるべきものだった。本当なら「考えさせてほしい」と決断を引き伸ばし、ある程度の期間を開けたところで告白を承諾するのがベターな選択肢だった。


 実際にそうするつもりだった。しかし開かれた口から出たのは、交際を即決する返事だったのだ。半ば無意識に出た言葉に戸惑いながらも、私は自分自身が知らず知らずのうちに、掛井広大というひとりの男性に心惹かれていた事実を思い知らされた。


「調子よすぎ。他の女友達にも、そう言ってるんでしょ」

「んなわけないって。俺はいつでも杏里ちゃんひと筋だからさ。なんなら、証拠を見せるよ」


 そう言って掛井広大は、ゆっくりと動き出す。ただでさえ近くにあった相手男性の顔が、文字どおり私の眼前に迫ってくる。


 ま、まさか、これって……ど、どうするの杏里。いくらなんでも、いきなりこんな展開は……でも、どうしよう。ああ、どうすればいいの。


 頭の中で羅列する言葉は動揺を煽るだけで、何ひとつ解決策を教えてくれない。やがて、とてもとても温かな感触が唇に触れてきた。初めての口づけはレモンの味ではなく、淡いインスタントコーヒーの香りがした。

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