ロマンシングストーリー

猫柳蝉丸

本編

『犬』の『なな』は『猿』の『もも』と今日も『喧嘩』している。

 何度目の『喧嘩』か『なな』は覚えていない。

 それこそ思い出そうとすると気が遠くなるくらい前から、『なな』は『もも』と『喧嘩』し続けている。『喧嘩』を始めたきっかけも記憶していない。『なな』はとにかくひたすら習慣的に『もも』と毎日『喧嘩』するのを忘れない。

 たまにどうして『もも』と『喧嘩』しているのだろう、と妙な気分になる事はあるけれど、『なな』は『犬』だからそんな気分もすぐに忘れてしまう。『もも』に与えられた『痛い』を思い出すと、とにかく『なな』は『もも』の事が憎たらしくなってしまうのだ。だから『もも』と『喧嘩』するのは正しい事なのだと信じている。

 正しさを信じられるのは『ご主人様』が『もも』との『喧嘩』を止めないからだ。いや、むしろ『もも』を痛め付けると嬉しそうな顔で『なな』の頭を撫でてくれる。『なな』は『ご主人様』に頭を撫でられるのが好きだった。いい匂いがしていて綺麗で優しい『ご主人様』が好きだった。『もも』と『喧嘩』する理由はそれだけで十分過ぎた。

 だから、『犬』の『なな』は今日も『猿』の『もも』と『喧嘩』している。いつも『ご主人様』に連れて来られる、砂が敷き詰められた広くて丸くて『ご主人様』以外に誰も人間が居ない場所で。何度も何度も『なな』や『もも』の血や汗やおしっこや折れた爪なんかが撒き散らされた神聖な場所で。

『なな』は『もも』と距離を取って唸る。別に威嚇ではない。今更、威嚇が通用するような『もも』でもない。それでも唸るのは『ご主人様』が喜んでくれるからだ。『なな』には何故だか分からないけれど、『ご主人様』は『なな』が這い蹲って唸る姿が大好きみたいだった。だから『なな』は今日も唸っているのだ。後で『ご主人様』に存分に、気が済むまで撫でてもらうために。

『もも』は面倒臭そうに『なな』の様子を見ている。『なな』が唸る姿など見飽きているという事なのだろう。大体、『もも』の身体は『なな』よりずっと大きかった。今まで何度『なな』が襲い掛かっても軽く腕を振って弾き返すのが常だった。『猿』の『オス』なのだ。『犬』の『メス』である『なな』との体格や体力の差はとてもとても大きかった。

 それでも『なな』は負けない。『喧嘩』を喜んでくれる『ご主人様』のために。

『もも』が欠伸したのを見計らって、『なな』は『もも』に『前足』から勢いよく飛び掛かった。『犬』の『喧嘩』の『黄金パターン』だ。滅多に成功する事は無いけれど、上手くいけば『猿』の『もも』だってただでは済まない。これまで何度か『もも』の首筋を噛んでやった事だってある。

『もも』は動揺しなかった。ひょっとしたらさっきの欠伸は『なな』の飛び掛かりを誘う為の演技だったのかもしれない。それくらい冷静に『もも』が『なな』の飛び掛かりを避けると、いつも通りに大きく腕を振って『なな』を砂に叩き付けた。

「きゃんっ!」と『犬』らしい『なな』の悲鳴が上がる。

『なな』としてはそれほど力を込めたわけでもなかったのかもしれない。弱々しい『なな』を面倒臭く撃退しただけだったのかもしれない。それでも『なな』は痛かった。全身が『痛い』の状態に変わって、『もも』の事が『嫌い』から『憎い』に書き換えられた。勝てないにしても今日こそ『もも』の首の肉を大きく噛みちぎってやる。そう思った。

『なな』はもう一度『もも』から距離を取って四足で這い蹲る。力を溜める。

 今度こそ『もも』に『痛い』を浴びせ掛けてやる。

 そうして『なな』が再び『もも』に飛び掛かろうとした瞬間、見た事も無い黒い何かが『コロシアム』と『ご主人様』が呼んでいるこの場所に唐突に姿を現した。

 大きさは『なな』の倍くらいはあった。黒く見えたのが『ご主人様』が着ている服というものだと『なな』が気付くまで多少の時間が掛かった。服を着ているのであれば、ヒトという生き物なのだろうと気付くのにも。

 けれど、ヒトは唐突に姿を現したのにも関わらず身動きもしなかった。ただ自分の目で見た物を疑っているような様子だった。『なな』と『もも』に向けて吐き捨てるように、現実を確認するように呟いていた。

「どうしてこんな小さな子供が裸で戦っているんだ……」

 ヒトが何を言っているのか『なな』には分からなかった。『なな』は『犬』で『もも』は『猿』なのだ。裸で『喧嘩』するのは当たり前なのだ。『犬』と『猿』は『喧嘩』する『運命』なのだ。それ以外に何の理由が必要だろう。『ご主人様』がそう言っていたのだから、『なな』と『もも』の『喧嘩』は絶対なのだ。

 ともあれこの『コロシアム』に『ご主人様』以外のヒトは居てはならなかった。この場所はそれだけ神聖な場所なのだと『なな』は教えられていた。突然現れたヒトに飛び掛かろうと『なな』は唸り声を上げ始める。

 ヒトは驚いた様子でその手の中に握っていた何かを『なな』に向けた。『ご主人様』も持っている、黒くて硬くて『なな』に何度か『痛い』と『眠い』を飛ばしてくる何かだ。『ピストル』と『ご主人様』は確か呼んでいたはずだった。

『痛い』と『眠い』が恐くて身を竦めた瞬間、『なな』は『もも』に組み敷かれていた。

 こんな時に『喧嘩』の続きなのかと思いかけたけれど、そうではないらしかった。『もも』がその身体で『ピストル』から『なな』を庇ってくれているのだと『なな』が気付くのには、それなりの時間が掛かってしまった。

 こんな時ではあるけれど、『なな』は不意に懐かしくなってしまう。昔……、ずっとずっと昔、『なな』は『もも』にこうして組み敷かれ、いや、抱き締められた事があるような気がする。その時は『もも』も『猿』のくせに服なんか着ていて、『なな』もまた服を着ていたような気がする。『なな』ではない別の名前で呼ばれていたような気もする。気がするだけで正確には全く思い出せないけれども。

「この……外道がっ!」

『なな』は『もも』に組み敷かれながらも、ヒトが『ご主人様』に『ピストル』を向けているのが目に入った。声色から判断するに、ヒトは『ご主人様』に怒りを向けているようだった。『なな』にはその怒りの理由が分からない。どうしてヒトは怒っているのだろう。『ご主人様』が何をしたというのだろう。

 そんな事より『ご主人様』を守らねばならなかった。『なな』の仕事は『もも』と『喧嘩』する事と『ご主人様』を守る事だと何度も何度も言われ続けているのだ。『なな』は『ご主人様』に言われた事を守らなければならない。

「外道……? 素敵な光景だと思わない?」

『ご主人様』が優しく微笑んでいる。そう思った瞬間には『もも』がヒトの『ピストル』を持った方の腕に飛び掛かっていた。『もも』だって『ご主人様』を守るように言われているはずだから当たり前だった。『なな』も負けじとヒトの残った腕に飛び掛かった。

「やめろ……っ! 俺はおまえ達の救出に……っ!」

 ヒトが何かを呻いていたがどうでもいい事だった。『なな』と『もも』は『ご主人様』を守らなければならない。普段『喧嘩』ばかりしている『二匹』だけれど、こういう時こそ力を合わせなければならない事くらいは分かっている。

「ほら、素敵な光景でしょう……?」

 視界の隅に『ご主人様』がヒトに『ピストル』を向けているのが見える。『ご主人様』が『黒蠅』と呼んでいるその『ピストル』が大きな音と『痛い』を飛ばしてくる。ヒトの頭に大きな穴を空ける。そうしてヒトはあっと言う間に動かなくなった。

 守れたのだ、『なな』と『もも』は。大切な『ご主人様』を。

 満足気に『もも』が頷くと、嬉しくなった『なな』は『もも』の頬を舐めていた。

『ご主人様』も嬉しそうに優しく微笑んでいた。



     ●



『なな』もたまに見るしわくちゃの顔のヒト――確か『後藤』と呼ばれている――がもう動かなくなったヒトの後始末をすると、苦々しげな表情を『ご主人様』に向けた。

「お戯れは程々でお願い致します、奥様」

「分かっているわ、『後藤』。だから護身にピストルを持っていたのじゃない」

「警報の電源を切っておくのもおやめ下さい。賊が侵入したのに気付くのが遅れました」

「何か被害はあったのかしら?」

「幸い三名ほど負傷しただけでした。賊は五名全員始末致しましたが。しかし、『秘密結社』が動き出しているのかもしれません。どうかどうかご自愛を」

「考えておくわ、『後藤』」

 特に面白くもなさそうに『ご主人様』が呟く。

『後藤』はそれを見て大きく溜息を吐いたようだった。

『なな』は知っている。『ご主人様』がこの生活に飽きているのを知っている。毎日何か楽しい事が起こらないか期待しながらも、暇で暇で仕方がない事を知っている。それで『なな』と『もも』の『喧嘩』を見物して楽しんでいる事を知っている。

 けれど、『なな』は何も言わない。『なな』は『犬』だから。『犬』は『ご主人様』の言う通りに動いてあげる事こそが役目なのだと知っているから。

「下がりなさい、『後藤』」

『ご主人様』が『後藤』に冷徹に囁く。

『後藤』は一礼だけするとすぐに『コロシアム』から去っていった。『コロシアム』には『ご主人様』と『なな』だけが残された。『もも』は居ない。さっきのヒトに飛び掛かった時に何処かを怪我したらしく、治療のために『猿山』まで運ばれていた。

『後藤』の姿が完全に見えなくってから、『ご主人様』が『なな』を胸の中に抱き止めた。

「素晴らしいわ、『なな』。それに『もも』も。あんな緊急事態に言いつけを守れるなんて、貴方達を買って本当によかったわ。全然高い買い物じゃなかった。貴方達兄妹は本当に本当にわたくしの自慢の所有物よ」

 兄妹という言葉の意味を『なな』は分からなかった。『なな』は『犬』なのだ。別に分かる必要も無かった。『ご主人様』がただ喜んでくれるのならばそれで満足だった。『なな』は嬉しくてただ喉を鳴らす。

「そうだ。今は喋ってもよろしくてよ、『なな』」

 久し振りに『ご主人様』は『なな』に喋るのを許してくれた。

 特に喋る事など無かった。それでも『なな』はせっかくだから喋ってみる事にした。

「さっきのヒトはなんだったのですか、『ごしゅじんさま』……?」

「あのヒトはね、悪いヒトなのよ、『なな』。わたくしと『なな』と『もも』の関係を引き裂こうとしているとてもとても悪いヒト。だからね、あのヒトは死ななくてはならなかったの。でも、あの悪いヒトも少しだけ役に立ってくれたの。それは『なな』と『もも』の『絆』を見せてくれた事よ」

「『きずな』……?」

「そう、そうなのよ。わたくしはいつも『なな』と『もも』に『喧嘩』させていたわ。それは兄妹が『犬』と『猿』として戦う文字通りの犬猿の仲を見たかったからなのだけれど、わたくしがそうだったからと言って、他の兄妹に『喧嘩』なんてさせなくてもよかったのよね。やっぱり兄妹は仲が良いのが一番だものね。だからね、『なな』。貴方はもう『もも』と『喧嘩』しなくてもよろしくてよ」

 そう言われても『なな』は困ってしまう。『なな』は『犬』として『猿』の『もも』と喧嘩してこれまで生きてきた。そういう風に『ご主人様』に小さな頃から『教育』されてきた。今更、『喧嘩』しなくてもいいと言われてもどうしたらいいか分からない。

『ご主人様』もそんな『なな』の気持ちが分かっていたのだろう。優しく微笑んで『なな』の喉を撫でてくれた。

「これからはもっと仲良くすればいいのよ、『なな』。そうね……、例えば『なな』の口と『もも』の口を重ねてみなさい。その後で『もも』の口の中を舐め回してあげるの。きっと『もも』も喜んでくれるわ。顔を真っ赤にして、色んな所を真っ赤にしたりしてね。それからきっと素敵な事が起こるわ」

 それに何の意味があるのかは『なな』には分からなかった。口と口を合わせて何だと言うのだろうか。けれど『ご主人様』がそう言うのなら素敵な事がきっと起こるはずだ。『なな』にはそれで十分だった。ともあれ『もも』ともう『喧嘩』しなくていいのは助かった。これから『痛い』が無くなるだけでも十分に過ごしやすそうだ。

 いつの間にか『なな』は欠伸をしてしまっていた。今日は様々な事が起こり過ぎた。どうにも疲れてしまっているようだった。それに気付いた『ご主人様』が『なな』を胸の中に抱き止めて囁いてくれた。

「いいのよ、お眠りなさい、『なな』。眠ったら後で『犬小屋』まで運んであげるから。今日は本当にお疲れ様、『なな』。わたくしの大好きな所有物……」

 そうして『犬』の『なな』は『ご主人様』の胸の中で眠りに就くのだった。

 まるで。

 母親に抱かれるヒトの子供みたいに。

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