第26話 「 However hard it is , I have to do it 」



 高校に入学して1年強が経過した。その間明日香は出席日数ギリギリにしか出席していない。


 学校には療養のためと届け出ている。しかし実際は違う。今は昔と違い、健康そのものだ。


 では何故か。


 簡単だ。単純に行くのがバカらしいからだ。


 教師は対面と体裁ばかりを気にして、生徒とまともに向かい合おうとしない。たまに若い教師が自分なりの『教育』を振りかざして生徒と向き合おうとするが、結局のところ型に嵌めようとしているだけだ。


 口を開けば『協調性を持て』『空気を読め』『いじめられる方にも問題がある』などと判で押したようなことを言う。


 昔から明日香は思っていた。例えばあるグループが悪い方向に進もうとする時、それを諌めるために反対意見を言うのは悪いことなのだろうか、と。


 だが教師は、そんな明日香を否定する。


 社会性を育ませると言う教師の立場からすれば仕方ないのだが、明日香には納得いかなかった。


 そして同級生は、そんな明日香を敬遠する。


 あからさまな態度は取らない。おくびにも出さない。だが、影口を叩かれているのは判っている。教室に入った時の、空気が一瞬固まる感覚。明日香はこれを被害妄想だとは思っていない。長年経験を積んだならではの、磨かれた感覚だと思っている。


 ただし明日香の方も、同級生と親しくするつもりはなかった。


 明日香の通う女子校には大別して3つの人種がいる。


 まず話すことは男と化粧品と流行ファッションばかり。低脳が制服を着ているような人衆だ。教室が女ばかりなので平気で大股を広げたり、夏の暑い日にはスカートを団扇うちわ代わりにしていたりと、品性の欠片もない。


 この学校は名家の子女ばかりが集まった格式高い名門だったはずだが、どうなっているのだろうかと明日香は思っていた。経営難で、高い学費さえ払える生徒ならば、誰彼構わず入学させているのだろうか。


 一応お嬢様学校という手前、髪を染めたり制服を改造したりする派手な生徒がいないのが救いといえば救いか。


 2つ目のグループは、やたらと格式や家柄などを口にする、いかにも『お嬢様』然として人種。


 どこぞの大使館のパーティに招かれたとか、将来はどこそこの家に嫁ぐとか、毒にも薬にもならない話題ばかり。見栄が制服を着れば、こうなるだろうという見本だ。


 ちなみに入学当初は彼女たちも明日香に近寄ってきた。ところが水瀬家は、金はあっても歴史がない家柄。格式偏重の彼女達と明日香では話の合いようがなかった。中には明日香を成金とさげすむ考えの者もいた。明日香の方も鼻持ちならない彼女達に辟易していたので、ちょうど良かったとも言える。


 最後はその他の人種だ。特筆すべきことなどない、平凡が制服を着ているような者だ。もっとも、それが現代日本の『普通』なのだが。誰とも衝突せず、かと言って馴れ合わず、影のようにひっそりと学校生活を送っている。


 明日香はこのどれにも属せなかったし、そのつもりもなかった。


 そんな明日香と仲良く付き合ってくれた友達はもういない。


 辛うじて普通に接していた中学時代の同級生達も、進学と同時に疎遠になってしまった。


 そのような事情で、明日香は自然と引きこもることが多くなった。


 自室でする事といえば、ネット徘徊と自習くらいだ(勉強が嫌いになったわけではないので、自習でテストの点数は高い水準を保っていた)。


 ネットは海だった。


 ありとあらゆる情報の波に乗り、明日香は泳いでいた。


 泳ぎながら、彼女はネットの海を同じように泳ぐ人たちを観察していた。


 匿名性の陰に隠れて好き放題無責任な発言や暴言をする者(どうせ対面したり実名を公表したらいえないくせに)。


 ボランティアや環境問題に取り組む著名人や実業家(結局は自分の利益につながるからやるんだ。偽善者達め!)。


 甘い言葉で鴨を待つ詐欺広告。自慢ばかりのブログ。稚拙で非常識な行為を垂れ流すSNS。


 ネット世界も現実世界も、人の業に変わりは無い。みんな好き勝手に自分の事ばかりだ。


(それは私も同じか。)


 息苦しい。


 明日香は溺れかけていた。


 決して狭い部屋では無いが、いま明日香が『自分の居場所テリトリー』と思えるのは、ベッドとパソコンの前だけだ。


 そんな狭い場所で、自分一人。


 考え方も視野も狭くなり、も狭くなる。


「はぁ」と一息つく。


 ちゅんちゅん、ちちち。無邪気な鳥のさえずりに誘われ、ディスプレイから窓へ視線を転じる。


 薄暗い部屋、くっきりとした空を見上げる。


 清澄なる青に、ぽっかりと雲の白が浮かんでいる。


 急に、自分は何をしているんだろうという寂寞じゃくまくに見舞われた。


 社会に対して何の貢献もしていない。自分のために有益な行為をするわけでも無い。


 無気力な毎日。無意味な毎日。


 そんな自分に、生きる価値があるのだろうか。


 益体のない考えばかりが頭によぎる。


 そんなある日、が現れた。


 いつものようにパソコンに向かっていると、メールボックスに未読メールがあった。


 ドメインの前は『tacchin-meteodriver』となっていた。迷惑メール業者ではなさそうだ。


 明日香は細い眉をひそめた。


 珍しい―――を通り越して有り得ない。


 このメールアドレスは、友人の杏以外は誰も知らないし、そもそも設定してあるだけでほぼ使用していない。


 間違いメールだろうか?


 悪いとは思いつつも、内容を確認するためにメールをクリックする。


「⁉︎」


 彼女の顔に驚愕が張り付く。


「なによ、コレ……」


 メールは明日香宛で間違いなかった。


 しかし、その内容は何かの間違いではないかと思えるほど信じられないものだった。


__________________



 2時間後、彼女は自宅から3ブロック離れた公園にいた。


 1人で、誰にも知らせず、こっそりと。


 それが相手からの指示だった。


 公園の入り口から遊歩道を奥へと進んでいく。少し離れた場所にはアスレチックゾーンがあり、そこから流れてくる子供達の声を聞きながら歩き続けると、野球ができそうなほどの広さのグラウンドが見えてきた。


 ゴクリ、と明日香の白い喉が鳴った。


 やがてグラウンドに辿り着くと、明日香は辺りを見渡した。


「―――っ!」


 いた。


 グラウンドの片隅にあるベンチ。そこに座して待つ1人の男の姿があった。


 野球帽を目深に被り、マスクをかけた如何にも不審者然とした風体である。


 明日香も年頃の少女として、このような怪しい人物に近づくのは二の足を踏んでしまう。だが回れ右をしたい気持ちを堪えて男の元へ向かう。


「あの……」


 おずおずと声をかける明日香。


「ああ〜、やっと来たか〜。ケヒヒヒ」


 男は不自然なほど甲高い声で応じた。この人物に間違いないようだ。


「あの……私にメールを送ってきたのって、あなたですよね?何で、あの事を知ってるんですか⁉︎」


 質問の後半は、つい語気が荒くなってしまった。


 しかしそれは明日香にとって、仕方のない事だった。は明日香としか知らない秘密。それを知っているこの男は何者なのだと、警戒心が明日香の口をついて出たのだ。


「まぁまぁ、落ち着けよ。ヒヒ。それについては後で話してやるから。それより、お前にきてもらったのは、ちょっとやってもらいたい事があるからなんだよ」


「何で私が、見ず知らずのアンタの頼みを聞かなきゃいけないのよ」


 丁寧な態度を取る必要性を感じなくなった彼女は、悪態をついた。


 色々と疑問は多かったが、これ以上かかずらうは危険そうだと判断してきびすを返そうとした。


「いいのか、そんな事を言って? 俺を怒らせるとどうなるか判らないぜぇ? キシシシシ」


 厭な目つきで嘲笑う男。その不気味さに明日香はたじろぎつつも、帰りかけた足を止めてしまう。


「なによ。脅す気?」


 勝気に睨む明日香だが、誰にも話していないを何故か知っている男の話を、ひとまず最後まで聞いてみる事にした。


 内容を聞いて判断しても遅くはない。


 如何にしてを知り得たのか、後で話すと言っていた。


 それに、まだ他に飛鳥のプライベートな情報を握っていないかどうかも探る必要があると考え直したのだ。


「脅す⁉︎ 馬鹿言うなっ!タッちんはそんな卑怯はしないぞ‼︎」


 急に感情のメーターが振り切れた男の剣幕に鼻白む明日香。大人の男性にこんな風に怒鳴られたのは初体験なので、内心萎縮しつつもどうにか落ち着かせようと声をかけようとしたが、


「……少し落ち着きなよ。早く話を進めようよ」


 横合いから、男を制止する声が発せられた。


 明日香がその方を向くと、そこには外国人の小柄な人物がいた。


 年頃は明日香よりも少し下だろうか。黒いオーバーオールの上に青いスタジアムジャンパーを着ている。


 黒のニットキャップが被されているのは耳を覆い隠すまで伸ばされた銀鼠シルバーグレイの髪。右目には大きな眼帯をしている。


(男の子、だよね?)


 中性的な顔立ちだったが、ジャンパーのポケットに両手を突っ込みながらガムをくちゃくちゃ噛んでいる仕草から、明日香は少年だと結論づけた。


「んぁ? レオじゃないか。何だよ、来ちゃったのかぁ?」


 レオと呼ばれた乱入者は、フンと鼻を鳴らして答える。


「そりゃ来るよ。君は優秀な技術者だけど、交渉者ネゴシエーターではないからね。こういう時、日本語でなんて言ったっけ?―――ああ、『餅は餅屋』か。僕も交渉は専門ではないけど、協力できることもあるだろう」


「わかったよぅ」


 不承不承という感じで落ち着きを取り戻したマスク男。


 どうやら明らかに年下のレオに逆らえないような雰囲気である。


「初めまして、ミナセ・アスカ。僕はレオナルドというものだ。そしてこちらは……名前はなんだったかな?」


「タッちんだよ!」


「失礼、そうだった。ミナセ・アスカ、突然呼び出してすまない。僕たちは君に用がある」


 用があると言いながらも、まるきり興味なさそうな醒めた目で明日香に語りかけるレオ。


「わかった。何だか判らないけど、とりあえず話だけは聞くわ。話しなさいよ」


「うん、実はね、キミにやってもらいたい事があるんだ」


「それはさっき聞いた。で、何をすればいいのよ?」


「そうだね。やってもらいたい事とは、キミの利益にも関係ある事なんだ」


 そういってタッちんの方へ視線を向け、発言を促すレオ。あくまでも自分はサポート。主体はタッちんだという事らしい。


「お前、頭悪そうだから順序立てて、てーねいに説明してやるよ。ありがたく思えよ。キシシシシ」


 イラっとした明日香。だがここで癇癪かんしゃくを起こして仕方ないので堪える事にした。


「まずボクちんは、すごい事ができるんだぞ。魔法が使えると言っていいな。それでボクちんはこの世界に衝撃を与えようと思ってるんだよ。もの凄い、な。んで、何がしたいかっつーと、お前、死んでる人間が生き返ったらすごいと思わねぇか?」


 この男は急に何を言い出したのか?


 明日香は口をポカンと開けて、この男は狂人かもしれないと思った。


「アンタ何言ってんの? 魔法? 生き返る? 人をわざわざ呼び出しておいて、揶揄からかってんの?本当に帰るわよ?」


「キシシシシ。バカだなぁ。これ見ても、そんなこと言ってられるかなぁ?」


 タッちんが言うと、隣に立っていたレオは、スタジャンのポケットからスマホを取り出し操作しだした。


 操作が終わったらしく、再びスタジャンに手を突っ込む。


 プーッとガムを風船状に膨らませると、


 パンっ!


 同時に、世界に異変が生じた。


 レオの目の前の空間が揺らぎが生じ、その揺らぎがやがて人の輪郭を作り出した。


 いや、人なのかどうなのか明日香には判断しかねた。何故ならば、


(なにアレ、翼?)


 そう、決して人間のシルエットには描かれない、大きく広げた蝙蝠のような翼があったのだ。


 揺らぎはシルエットだけでなく、やがて細部までを現していった。


「―――っ!」


 絶句する明日香。むべなるかな、なにもないところに突如として《翼を持った人型の何か》が現れたのだから。


 黒髪長身の―――レオとは違い、明らかに―――男性である。


 だが、紅玉をはめ込んだような眼と、背に展開する黒い翼は明らかに人間ではない。人間ではあり得ない。


 飛鳥の知識を総動員して、あえて近似の存在を探すとすれば―――《悪魔》。


 へたり込む明日香に興味なさそうな視線を向け、レオはパチンと指を鳴らす。


 その音に反応し、黒翼の存在は翼を軽く震わせた。


「―――ひっ!」


 思わず明日香の喉から、短い悲鳴が漏れた。


 彼女の周囲の地面から、半透明の人間がタケノコが生えるように現れたからだ。


 それも、数十もの人影が。


「キシシ、驚いてる!驚いてるゥゥゥ!キシャシャシャシャシャ!」


 報復して哄笑をあげるタッちん。


「……ああ、驚かせたみたいだね。すまない。ただ、と彼の力を見てもらわない事には円滑に話が進まないと思ってね」


 そういってレオは、黒翼の存在を指差し、


「紹介するよ。彼の名はメフィスト。キミに理解できる言葉でいえば、《悪魔》だ。詳細は理解が及ばないだろうから省かせてもらうよ。ただ、ボクの協力者とだけ認識してもらえればいいだろう」


「んでだな、メフィストこいつは幽霊とか霊魂とか、そういった《死後の人間》を操れんだぜ。すごいだろぉ、キシシシシ!」


 幽霊。


 確かにそう言われれば、そう見える。


 地面から音もなく湧出してきた数十もの人影は、皆、生気のない貌をしていて、目は虚ろ。口元もだらしなく開いている。何より全員、半透明で後ろの景色が透けて見える。


 飛鳥の中の《幽霊》には足がないと言う固定観念があったが、しかし目の前の人影には全員、足があるようだ。


 あまりの事に茫然自失としていた明日香だったが、ふと目の前のはタチの悪い立体映像で、やはり自分は―――誰が何の為にかはさておいて―――ちょっとスケールが大き目のドッキリにでも引っかかったのではないかと思い至り、我に返った。


 だが、違う。


 この不気味な存在達は、希薄ながらもを持っている。


 それは手に取れるようなものではないし、確固はっきりとは言えない。だが、かつて生命として存在していた残滓―――生を諦めきれない執念のようなもの―――を明日香は感じた。


 だから、ただの立体映像ではあり得ない。


 そこまで思い至った時、内腿に生暖かい感覚が纏わり付いてきた。


「んん? おいコイツ、漏らしやがった!キシシシシ、漏らしたぁっ!キシシシシ!」


「笑っちゃ可哀想だよ。無理もないんじゃないかな、ただの少女だったら。むしろ失神しないだけ大したものだと思うよ」


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」


 顔をうつむかせたまま、両手でスカートをギュッと掴んで引き伸ばそうとする明日香。


 羞恥のあまり、ボロボロと涙が零れる。


 恐怖と恥辱で恐慌をきたす寸前の明日香。その精神を引き止めたのは、レオの一言だった。


「キミは母親を生き返らせたくはないかい?」


「―――っ⁉︎」


 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


 だが、『母親』と言う言葉には反応した。


「……どう言う事?」


 震える声で、辛うじて絞り出した。


 レオは相変わらずガムをくちゃくちゃと口内で弄びながら、答える。


「僕たちの目的は、『死した人間を蘇らせる事』だ。いま見てもらったように、僕たちは『霊魂』―――人の魂を扱える。だが残念ながら、滅びた肉体を復元させることはできなかった。、ね。この―――」


 そこでレオはタッちんを指差し 


「―――タッちんは、技術者でね、つい最近、とある物質を手に入れたんだ。その後で僕と知り合ったんだけれど、それを見て僕も驚いたよ。何といっても隕石だ。この地球上にはない物質なんだよ。僕はこの物質を調査した。すると、ひとつの可能性が浮かんできたんだ。もしかしたらこの物質を使えば、死者を蘇らせる事が可能ではないかってね。ちなみに僕も、こう見えて技術者の端くれなんだ。僕の魔術的なノウハウと、タッちんの独創的な感性を組み合わせて試行錯誤した結果、素晴らしい装置が完成した。白眉とも言える代物だ。その装置を使い、死者の肉体を再び形作ることができるかもしれない。そしてその肉体に、メフィストが呼び出した霊魂を入れれば、死した者が再び現世に復活する―――と、こう言う次第だ。いや、ひとつ訂正しよう。先ほど完成したといったけれど、それは正確じゃないね。何故ならば、たったひとつ欠けている要素があるんだ。それは起動する為のエネルギー。例えば、どんなに優れたスーパーコンピュータでも電気がなければ無用の長物。自動車にしても、ガソリンがなければただの鉄の箱だ。

 そこでミナセ・アスカ、キミの出番だ」


 今度は、未だほうけた貌のままの明日香を指差すレオ。


「この装置に必要なエネルギーは人の生命力。それも、純粋な感情の波動を持った生命力だ。残念なことに、僕やタッちんではその要件を満たすことができないんだ。それに較べるとキミはとても純粋な波動―――想いを秘めている。この数日間、隠れてキミを観察させてもらったけれど、おかげで確信が持てた。キミならとても良質な媒体となるよ。

 そして、ここからがキミにとって重要な話になる。キミへの報酬だ。今説明した通り、僕たちは死者を蘇らせることが出来る。その可能性が非常に高い。その一環として、キミの亡くなった母上を生き返らせてあげよう。」


 ここでレオは一旦言葉を切って、目の前の少女を見つめた。

 明日香は何も考えられなかった。正確に言えば、レオの言葉は聞こえていたが、先ほどのショックのために思考能力が吹き飛んでいたのだ。


 だが幸か不幸か、通常であれば常識や固定観念が邪魔をして素直に受けめられなかったはずのレオの話は、吹き飛んでしまった思考能力―――論理のバリケードに阻害されることなく、乾ききった真綿にじわりじわりと水が染み込むがごとく、明日香の脳内に広がっていった。


 レオの話のほとんどは明日香の理解の範疇を超えていた。だた、


 母親が生き返る。


 それだけはしっかりと理解できた。


 信じるか信じないかと言う次元の議論は、彼女の中ではすでに飛び越されている。


 だから明日香の震える口唇からは


「私は、何をすればいいの……?」


 という言葉しか出てこなかった。


「簡単だよ。ここにキミが手を入れて念じれば良い。『私はやる』ってね。抽象的な指示で申し訳ないけれど、まぁやれば解るよ」


 そういってレオは懐から―――今日日珍しい―――羽ペンを取り出した。


「ああ、そうだ。いい忘れていた。キミが生命力を提供してくれるよいうことは、その分キミが衰弱していくということでもある。というか、最悪死ぬこともあるよ。もちろんそうなる前にはキミと母上を会わせてあげられるだろう」


 土壇場で、なんてカードを切ってくるのだ。


 しかし、明日香のはらはもう決まっている。


「私が死ぬとして、どれくらい保つの?」


「やってみないと判らないけど……僕の計算と計画では半年ほどだろうね」


「半年……か。いいわ、やる」


 この時にはもうすっかり涙は乾き、明日香の瞳には力強い輝きが戻っていた。


 明日香の答えに、レオは初めて口の端を歪ませて笑みを作った。


 嗜虐を酷薄というベールで隠そうとすれば、このような貌になるだろう。悪魔の笑みとは、このようなものを言うのかと明日香は思った。


 レオは古びた羽ペンを虚空にかざすと、ペン先が淡く光を帯びた。


 光のインクを弾きながら、羽ペンは明日香には解読不能の外国の文字を描き出した。


 光の文字は意味のある文章を成したのか、ひときわ強い光を発して消え、その代わりに奇妙な図柄が現れた。


「この魔法陣の中央に手を入れて。左右どっちでもいいよ」


 促されて明日香は、恐る恐る右手を魔法陣に近づけた。


 魔法陣を通り抜けるとき、少しだけ暖かさを感じた―――そして、頭でも心臓でもない、明日香のが結ばれた。


 この時の明日香には知る由もないことだが、肉体としての腕を通して精神体としての腕に、タッちんが作った装置の魔術回路が繋がったのだ。


 明日香は自分の中に概念としてのスイッチがあることを覚った。


 あるのは母への想い。そして後悔の払拭。


 母ともう一度会えるのならば、母がこの世に戻ってくるならば、全てが元に戻る。


 


(私はやる。やってみせる。)


 強く念じた瞬間、魔術回路と明日香との間に、すっと通り道が開けた感覚がした。


「成功したようだね―――って、よく考えたら僕がほとんど説明してるじゃないか」


 レオに軽く睨まれたタッちんは、叱られた子犬のように首を竦めた。


「……まぁ、いいか」 と溜息を吐いて、タッちんから視線を外したレオは、「もういいよ、メフィスト」


 退がるよう命じられた悪魔と称された異形の存在は、大きく黒翼を羽ばたかせると、虚空へと溶けていった。


 同時に、グラウンドを埋め尽くしていた霊の群れも雲散霧消していた。


「じゃあ、僕たちはもう去るよ。キミとの約束を果たすときは、またこちらから連絡するよ」


 レオは踵を返すと、スタスタと公園を出て行き、タッちんはアヒルの子よろしく、そのあとを追って行った。


 濡れて風に冷やされた下着やスカートの不快な感触も、くらい使命感に突き動かされている現在の明日香には、熱を冷ます濡れタオルのようにしか感じられず、逆に有難いくらいだった。






 

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