24.祝福しゅくふく
じりじりと、追い詰められる。
後退りしたそのかかとがぶつかり、完全に部屋の隅に追い込まれたことを知る。
弾みで、突きつけられていたナイフの先端が喉元を掠め、息を呑む。
痛みは感じない。しかし、もうだめだと覚悟を決め彼の目を見ると、怯えたように震える瞳。溢れだす涙。
『俺はなんてことをしてしまったんだ。なぜ…』
彼ならまだ大丈夫。きっとやり直せる。
『愛や関心ないところに憎しみは生まれないわ』
『え…』
『どうしようもなく愛していたから、裏切られ行き場のない愛が憎しみへと変わってしまったのね』
そして彼は凶器を捨て、私を仰け反るほどに強く抱き締めた……
力一杯に抱き締められ、痛いし苦しくなる。
「か、上谷さん…痛いです」
「あ、ごめんゆずちゃん」
「あ~カットカット!」
蓮沼先生の朗読が終わり、カットがかかる。
「せっかく創作意欲が湧いてきたのにちゃんとやっとくれよ~使えないな上谷は。でもまぁこんな感じだな」
「すみません」
イラつきながらも黙々と手帳に書き綴る蓮沼先生の手が、
「却下却下~」
と突然飛んできた英先生のダメ出しに固まる。
「何だと?若造は黙ってろ」
「いやいや、これはないですよ。蓮沼先生」
蘭館の一室で執筆していた蓮沼先生にご指名を頂き、先生の愚痴を聞いているうちに、いつの間にか担当編集の上谷さんと新作小説のラストシーンを演じるはめになっていた。
大雑把だがようやく概要が固まってきたというのに、そこに突然英先生のダメ出しが入りまた話がややこしくなっていく。
「蓮沼先生~名探偵マリアの最後の最後で、主人公が犯人と駆け落ちなんてありえませんよ!」
「どうせ読んだことはないだろう?若造が」
「まぁ…でもおかしいですよ」
「どこがだ?」
「ゆずの背中見てくださいよ。先生の言う通り壁際に追い込まれているのに、最後仰け反るほどに、って…無理ですよ」
「そーいう細かいことは編集がなんとかするだろ」
「さすが蓮沼先生」
豪快に笑う先生をみて、肩を落とす上谷さん。
「上谷さん、大変そうですね」
「まぁがんばるよ」
上谷さんは、蓮沼先生の担当になって誰もがすぐに根をあげると思っていたみたいだけれど、意外とうまくいっているようだった。
「蓮沼先生、このペースで閉めきり間に合いそうですか?」
「間に合うに決まっているだろう?」
「良かったです~」
「誰に言い寄られても落ちなかったマリアが最終的に犯人と逃避行なんていいと思うがなぁ?上谷」
「は、はい‥」
「いやいや、却下却下!」
とすかさず英先生。
以前より、二人の間にピリピリ感はないけれど、英先生の蓮沼先生弄りにはこっちがひやひやする。
「あ!英先生、もしかしてその『却下却下』って…御影さんの真似ですか?」
「あ、わかる?そうだよ。人を小バカにしたような瞳をして言うんだよね~似ているだろ?」
「そーなんですよ!そっくりです」
「おい、勝手に盛り上がるんじゃないよ、そこ」
蓮沼先生が、そこ、と言ったのは上谷さんと英先生。ふたりは何故か楽しそう。
「そもそもなぜ英がいるんだ?わたしはゆずを呼んだだけだぞ」
「いいじゃないですか。お気になさらずに」
「気にせずにいられるか!」
「蓮沼先生まぁ落ち着いてください」
上谷さんは自然と間に入ってふたりを宥める。
「ゆずちゃんは華の女子大生になったばかりなんですよ!もっと楽しくいきましょうよ」
「お、そうだったな。大学生か、どおりで最近ぐっと綺麗になった気がするなぁ。男でもできたか?」
「え?」
「あ、今動揺した」
「していません」
執筆中は飲まないと決めている蓮沼先生の空いたグラスに烏龍茶を注ぎ、英先生にはビールを。
「そうかなぁ、なんか怪しい」
「蓮沼先生それ、今時の若者にはセクハラですよ」
「わたしとゆずの間にそんなものは存在しないんだ!な、ゆず」
「そ、そうですね」
愛想笑いもそろそろ疲れてきた時、ノックと同時に部屋の外から声がした。
「蓮沼先生、御影です。失礼してもよろしいでしょうか」
それだけで、この胸は勝手に高鳴る。誰にも悟られないように平静を装う。
「御影?何の用だ」
「申し訳ありませんが、英先生を探しておりまして…こちらにいらっしゃってませんでしょうか?」
「おぉ、いるぞ。入れ入れ」
先生が上機嫌で御影さんを迎え入れたのは、きっと目障りな英先生を排除できると思ったからだろう。
いないと言って、とジェスチャーで必死に伝えようとしていた英先生の努力も虚しく、御影さんは怖い顔で入ってきた。
「お探し致しましたよ、英頼斗大先生」
「み、御影くん…いつになくご丁寧で…」
「閉めきりは本日でしたよね?おまけに打ち合わせをすっぽかしてくださいまして…」
「あははは」
「下らない話をしている暇があったら仕事してください!」
「く、下らない話ではないですよね、蓮沼先生?」
「ん?な、何だったかな?」
突然話をフラれ動揺を隠せない先生。蓮沼先生もまた御影さんが苦手で、出来れば関わりたくないのだろう。
「やだなぁ。ゆずちゃんが最近綺麗になったって話をしてたじゃないですか」
「そーだった。ゆずが大学に入った途端男ができたらしいんだよ」
「は、蓮沼先生!」
御影さんの前でどうしてそんなこと、と慌てる様子をみて英先生が楽しそうに笑う。
「まったく蓮沼先生は野暮なことを…普通の男ならこんなに可愛い子を放っておくわけないですよ?ねぇ、御影くん?」
「はい?」
「女の子が急に綺麗になるなんて、男の影響しか考えられないですよ。…あー新婚さんの前でこんな話してもね?ごめんごめん」
「…まだ正式に婚姻はしていませんが」
「そうだったなー御影おめでとう」
「ですからまだ…」
準備は進んでいるみたいだけれど、正式なことはまだだと説明していた御影さんの話なんて、先生たちはまったく聞いていないようだった。
「先生方に話してもムダでしたね。…英先生!今すぐ打ち合わせに行っていただけますか」
「いや、でも…」
「今、すぐに、お願いします」
「はい」
ショボくれながら部屋を出ていった英先生を見届けてから、御影さんは私を見た。
「ゆず、君はもう時間だ。ミルクから連れ戻すよう言われた」
「え?」
「待ってくれ御影、ゆずは延長だ延長。ミルクにそう伝えてくれ」
「蓮沼先生はゆずがいると余計に執筆が進まないのではないですか?…それに彼女は大変人気がありますので後がつまってるんです。申し訳ありません…後は上谷、しっかりやれよ」
蓮沼先生と上谷さんを残してさっさと部屋を出て行ってしまった御影さんを追いかける。
「待ってください!」
「ん?」
御影さんはすぐに足を止め私を振り返る。
「どうした?」
「私、このあと何もなかったと思うんですが」
「そうだったか?でも蓮沼先生は静かな方がはかどるから放っておけ」
「はい…」
「まだ、何か?」
「あの…英先生は、今後の執筆の話をしていましたか?」
「いや、特に。何か気になることでも?」
「…いえ、なんでもありません」
「そうか?ミルクが送るって言ってたから早く行け。…もし、英先生を待っているつもりならそう伝えておくが」
「いいえ、帰ります」
「そうか。…君は」
「え?」
何か言いにくそうに一度目を泳がせた御影さん。再度尋ねると、
「君は、英先生の…朱希さんのこと…知っているのか?」
「はい」
「そうか。なら、いいんだ」
「そうですか?では失礼します」
頭を下げてから帰ろうと踵を返すと、今度は御影さんが私を呼んだ。
「この前は、助かったよ」
「え?」
「風邪薬」
御影さんは、私を呼び止めておきながら一瞬こっちを見ただけでもう背を向けてしまった。
「あ…いいえ、余計なことして。なんか、逆にすみませんでした」
おかげで真っ赤になった顔を見られなくて済んだけれど。
「そんなことはない」
「…そういえば、私、兄と仲直りできたんです。御影さんのおかげです。ありがとうございました」
「いいや、俺は何も」
「やっと言えました。それから…ご結婚、おめでとうございます」
ちゃんと言えた。
「だから、まだだと言っているだろ」
「本当に、良かった…」
今なら素直に祝福できる気がする。
今ならきっと引き返せる。
大丈夫。
「御影さん…幸せ、ですか?」
「はぁ?大人をからかうな」
「からかってなんかいません。どうなんですか?」
私の質問を、笑顔で肯定してくれるのなら。
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