23.彼女かのじょ
赤ちゃんは、誰に教わったわけでもないのに本能で母乳を飲み、泣いて訴え意思を伝える。
おもちゃみたいに小さな手でも、触れたものを力強く握るし、あくびまでしっかりし、いっちょまえの声で泣く。こんなに小さくても必死で生きていると思うとじん、と胸が熱くなる。
まさか、赤ちゃんがこんなに可愛いなんて思わなかった。
自分が生まれた時のことなんて考えたくはないけれど、私のように捨てられいらない子でも、きっとあんな風に全力で泣き、生きていることを訴えていたんだろうな、とふと思う。
「瑳、もう帰るのか?」
実家の玄関先で兄に呼び止められる。
「学校の帰りに少し寄っただけだから」
「そうか」
30分くらいしか経っていないけれど、彩加さんも疲れているだろうし、母も兄も初めてのことできっと大変なはずだ。
「ありがとう。すごく可愛いかった。どっちかっていうと彩加さん似だよね」
できるだけ普通に返したのに、兄の表情は浮かない。
「遠慮すんなよ」
「遠慮なんてしてないよ。私、これから約束あるし」
「…じゃぁどうして、抱っこしてくれなかった?まさかまた、他人だからとか言うんじゃないだろうな?」
「違うよ。あまりに小さくて怖いって言うか…」
「瑳は俺の大事な妹だ」
「兄さん…」
「それなのにずっと瑳を縛ってばかりで」
「そんなことないって」
「送るから、少し話そう」
最近は天気も良く傘のいらない日が続いているけれど、まだまだ吐く息は白く吸い込む空気は冷たい。
今日は英先生のインタビュー記事が載った雑誌の発売日だし、書店に先生の新刊の売れ行き具合を確かめに行きたかったのに、「アパートまで送る」と言って兄が無理やり付いて来たせいでまっすぐアパートに帰るはめになりそうだ。
兄妹でこうして近所を歩くなんて何年ぶりだろう?照れ臭いんだか気まずいんだかよくわからなくなる。
向かい合っているよりもまだいいけれど。
「今日はありがとな、来てくれて」
車道側を歩く兄が、長い沈黙を破る。
「うんん」
正直、無理にでも用事を作り、実家には帰らないつもりでいた。けれど先日、英先生の話を聞いて逃げてばかりではいられないと思った。
怖くても、より関係が悪化したとしても向き合いぶつかり合った方がいいと気づいた。
「…俺、驚いたんだ」
そして兄は並んで歩きながらゆっくりと話し出す。
「瑳が、部屋が散らかっているとか夜に友達と約束があるなんて言うとは。そんなこと今までなかったし。瑳はいつもなんていうか、優等生って感じで」
「…うん」
「蘭館で瑳が言ったことも」
「うん。ごめんね」
『全部自分で決めたことなの。バイトもやめない。家にも帰らない』
『御影さんは関係ない。兄さんはもっと関係ない!』
たくさん傷つけた。
「違うよ。瑳が自分の意見をちゃんと言ってくれて良かった。御影って奴が言ったこと…やっと理解した」
「兄さん…」
歩きながらちらりと兄をみると、さっきの浮かない表情はもうなかった。
「俺が瑳を勝手に良い子にしようとしてたんだなって。その道から外れようとする瑳は見ないようにしてきたから。でも瑳を他人だと思ってたからじゃないんだ」
兄は突然立ち止まった。続いて私も足を止める。
「わかってる。私も兄さんのために良い子でいたかったわけじゃないの。大切だから…失いたくないから、嫌われたくないから…」
言葉にする度、思うように声が通らず語尾が失速する。御影さんも言っていた、兄なら私をちゃんとわかってくれると。でも言わなきゃ話し合わなきゃ伝わらないこともあるから。
「悪い子になったら、本当は私が他人だってことを思い出してしまうかもしれないって」
「なんだそれ…わけがわからない」
そう言いながらも、兄はしっかりと私を見てくれている。
ちゃんとわかっていたけれど、でも、
「怖かった‥」
いつ、突き放されるかと。
他人だと言われる前に、自分から離れてしまえば楽だから。
「俺そんなに怖いか?」
「違う…」
「だったら、もっと頼れ。彩加や子どもにも遠慮すんな」
「でも、彩加さんたちは、兄さんの大事な家族、だから」
「バカだな…瑳もだろ」
ごく自然に差し出された両の掌。もう何年もそうしていないはずのに、私は戸惑うことなく掌を重ね、ぎゅっと握り合う。仲直りの証。
「彩加よりも瑳の方が先に、俺の家族になってくれた先輩だろ?」
「兄さん」
「あ、前から思ってたけど…その、兄さんって言うのやめてほしいんだけど」
「え?」
「昔は紘兄って呼んでくれてたのに」
「え!今さらちょっと」
手を離そうとしても、ニコニコ笑顔の兄にまた捕まる。
「じゃ呼べるようになるまで実家に帰ってくるか?」
「な!わかったよ、こ、紘、兄」
「よし。じゃぁこのまま手を繋いで帰ろうか」
「はい?」
そういえば、そうだった。
あの言葉だけが先行し忘れていたけれど、兄はいつも私の傍にいてくれた。会うたび文句を言われ口うるさいけれど、それはいつも私のため。
「ごめんね」
傷つきたくないからと勝手に彼らを避け、勝手にひとりだと思い込み膝を抱えて感傷に浸り、けれど淋しくて他の何かにすがりたくてさ迷って…恥ずかしい。
父母や兄だってちゃんといつもそこにいてくれたのに。
「これがいわゆる反抗期ってやつだろ?」
「いや、違うと思うけど」
「更正完了」
「兄さん、聞いてる?」
「聞こえない。瑳!兄さんじゃなくて?」
「あ、えっと…こ、」
言いかけた時、突然鳴り響いたけたたましい音楽にかきけされた。
「あ~こんな時に」
兄は慌てて手を離しポケットからスマホを取り出す。
「クソダヌキだ。ちょっとごめんな」
クソダヌキとはたぶん兄の会社の社長さん。蘭館の常連さんでとてもいい人なのにその呼び方。
「ごめん、瑳。クソダヌキがすぐ会社に来いって…せっかく兄妹水入らずなのにな」
「今日休みじゃなかったの?」
「そうだよ。せっかくの有給休暇なのに、あのクソダヌキ~」
「社長をタヌキ呼ばわりはやめたほうがいいよ」
「はいはい。そういえばクソ社長、また“ゆずちゃん”に会いたいってさ。俺の大事な妹だって言ってるのに」
「えー!妹だって言ったの?」
「は?マズかった?」
「兄さんこそ大丈夫だった?妹がコンパニオンしてるなんて、評判とかに関わるんじゃ」
「そんなの関係ない。社長は仕事させすぎで本当にクソだけど、そういうところは寛大な人だから」
「だったらいいけど」
「瑳のこと、細やかな気遣いのできる優しい子だってべた褒めしてた」
「だから兄さんは、バイト続けても良いって言ってくれたの?」
「それもあるけど…」
「なに?」
「実は、御影って人から連絡があって…」
「え?」
「俺はあの時、訴えられる覚悟で名刺を渡したんだけど、その気はないからと。だからその代わり、瑳がバイトを続けたいと言ったらそのようにしてくれないかってお願いされた」
「御影さんに?」
「あぁ。…そもそもあの人を殴ったのも変なこと言って挑発してきたからなのに。でもまさかお願いされるなんて思いもしなかったよ」
「そういえばあの時、御影さんに何を言われたの?」
なぜ私をコンパニオンに誘ったのかと兄が聞いた時、
『だって妹さんってすごく、……』
と御影さんが何かを耳打ちしたが、私には聞こえなかった。
「それは…」
言い淀み少し照れ臭そうに視線を遠くに巡らせてから、
「…瑳が、すごく良い体してるからどうとかって。もしかしてあいつと…」
「は?体?えー?違うよ!わ、私、御影さんに見せたりしてないよ!」
ボソボソ言う兄を思いっきり否定する。
「だよな、わかってるよ。瑳を庇うためだったんだろうな…今ならわかるけど、あの時はカッとなって」
「え…私を庇う?」
「あの人、瑳のバイトのオーナーみたいなものなんだろ?」
「オーナーっていうか…」
蘭館もブルーローズも元を辿れば王手社社長の奥様の経営で、その娘と良い仲の御影さんは将来的にオーナーみたいなものかもしれない。
「まぁ、そんなとこかな」
「電話がきた時、最初は俺もぶざけんなって思って。あんたみたいな奴がいるところに大事な妹を預けられるかって言ったんだけど…『大事な商品に手を出すわけない』って。もちろん客にも手出しはさせないから安心してくれって言われた。…嫌な奴だけど信用はできるかなって思って。殴ったこと瑳からも謝っといてくれるか?」
「う、うん」
「じゃぁアパートまで送るから」
「いいって。兄さん仕事なんでしょ?私本屋さん寄るから、兄さんも行って」
「なんかまた兄さんになってるし」
「あ…。今度赤ちゃん抱っこさせてね、紘兄」
結局、兄は社長から再び催促の電話がくるまで書店に向かう私についてきた。
仲直りできたのは嬉しいが、本はゆっくりとひとりで選びたかったから、ようやくほっとした。
書店では、英先生の新刊『ペトリコール』の下巻が先日発売されたばかりで特集が組まれていて、一番目立つ場所に山積みになっている。ドーンとメインとなる場所にあるというだけでなく、人目を引くポップなどの効果もあってか小さな人だかりができていて近寄りがたい。
もう何度も読み返したけれど、書店や図書館に行けば必ず英先生のコーナーをチェックする癖がついているためとりあえず本棚の影から売れ行きを見守ることにした。
一冊、また一冊と誰かが手に取る度に自分の事のように嬉しくなる。
すると、
「こそこそ何してるの?」
背後から囁くように声をかけられ、悲鳴さえあげなかったが、驚きすぎて思わず体が跳ね上がる。振り返ると、よれっとしたジャケットにサングラスのちょっと危険な感じの漂う高身長の男性がいた。
誰だっけ、と眉をひそめたのがわかったのか、彼はサングラスをはずして、
「僕だよ、わからないのかい?残念だな」
「は、はな」
「しーッ!」
バレたら面倒だから。と制され、書店の隅の方へ移動した。逆にサングラスで書店をうろつく方が目立つ気がするけれど…
「英先生?全然わからなかったです。びっくりしましたよ」
「僕もだよ。ゆずちゃんとこんなところで会えるなんて。何してたの?」
「え?私は…英先生の新刊の売れ行きをチェックに。楽しみのひとつなんです。先生はどうしたんですか」
「さすが英頼斗のファンだね。僕は打ち合わせがあって王手社に行ってた帰り。ゆずちゃんが入っていくのを見かけたから急いで車を停めて来たってわけ」
「そうだったんですか」
「なんか、今日テンション高いね。良いことでもあったの?」
「わかります?」
「わかるよーデート?どうりでゆずちゃん、連絡くれないわけだよねー」
「え?」
「だって、さっきイケメンと一緒だったじゃん」
「はい?あーあれは、兄です」
「えーお兄さん?似てないね」
「まぁ血の繋がりはないので」
「あ、ごめん」
「大丈夫ですよ。もう気にするのやめたんです。先生のおかげです。ありがとうございました」
「え?」
「ちょっと兄とケンカして避けてたんですけど、先生のおかげで、会う決心がつきました。御影さんも協力してくれて、仲直りできたというか…今度会ったら御影さんにもお礼言わないと」
「ふーん、怜がねぇ。でも良かったね。…あ、この前はごめんね。変な話して」
「いいえ。私なんかに話してくださったのに、気の効いたことひとつも言えなくて…」
朱希さんとの関係を聞いてから初めて先生と会ったけれど、今までと変わらない様子で安心した。
もしかしたら、もう小説を書かないと言うかもしれないと心配だった。
「あ!そーいえば今日、怜が風邪で休んでいて頼んでおいた資料を貰えなかったんだよ。だから、今からマンションまで取りに行こうと思ってたんだ」
「御影さんが風邪ですか?」
「そーなんだよ~珍しいよね。ゆずちゃんも一緒に行く?」
玄関先で資料をもらうだけだからと、英先生の車で御影さんのマンションに向かった。
先生は御影さんとプライベートな付き合いもあるのか、スムースにエレベーターに乗り『5』のボタンを押した。
「先生、御影さんに連絡してあるんですか?」
「まぁね。でも普通、編集の御影の方が届けに来なきゃいけないのに大先生様が自ら足を運んでやってるんだからね。感謝してもらわなきゃ」
書店ではだいぶ時間をつかい、途中薬局にも寄ってもらったせいでもうすっかり夕方。
「何でも買ってやるとは言ったけど、まさか他の作家の本まで買わされるとはね」
「あ、すみません!私無神経で」
「いいよいいよ、冗談だから」
先生は、買ったばかりの風邪薬一式と本とでパンパンになっている私のカバンを指して、
「 だってそれ全部、怜の担当した本でしょ?」
「えっと…はい、そうです!」
「でもメインは先生のインタビュー記事の雑誌で…」
「わかってるよ」
ふてくされたように頬を膨らませてた先生が、ぷっと吹き出して笑い出す。
「え?」
「やっぱりゆずちゃんはかわいいな。本なんて車に置いてくれば良かったのに。誰も取らないから」
「あ、そうですね」
この前上谷さんに今まで御影さんが担当した本を教えてもらってから、少しずつ集めている。どうしてもハードカバーで集めたいから一気には買えず、とりあえず図書館で借りたり。それが、勉強の合間の私の息抜きになっていた。
でもそれは、編集者としての御影さんを尊敬しているから。彼の担当した本なら間違いはないから。
ただそれだけ。
「あ、着きましたよ、お嬢様」
「ありがとうございます」
良いところのお嬢様みたいに、執事風な先生にエスコートされながらエレベーターを降りる。
御影さんの部屋は降りてすぐ左に曲がった一番奥だったはず。
「ゆずちゃんって怜のマンション来たことあるの?」
「え?ど、どうしてですか」
「だって今、僕は何も言ってないのに自然とこっちに来たでしょう?」
「あ…」
「僕に隠し事はできないね」
「隠していたわけでは…以前、先生を呼び出してご迷惑をかけてしまったあの日に…連れて来られて説教されただけです」
「あーそういえば、色々あって結局ゆずちゃんをひとりで帰したって言ってたね、怜の奴」
「はい。まぁ私が勝手に帰ったんですけど…」
「何かされたの?」
「いえ、違いますよ」
「なんだ。何かあったのなら、僕の手柄だったのに」
手柄ってなんですか、と突っ込んだ私を見て先生はまた楽しそうに笑った。
御影さんは留守なのか、何度かインターホンを鳴らしても反応がなかった。
「風邪だとか言ってどこにでかけているんだあいつは」
「病院ですかね?」
「うーん。せっかく瑳ちゃんが風邪薬買ってきたのにね」
仕方ないから帰るか、と先生が諦めかけた時、
『はい』
ドキッとした。
インターホンから聞こえてきたのは、高めの女性の声だった。
「え?」
先生も驚いたように部屋番号を確認する。
「あ、すみません。ここ、御影の部屋ですよね?」
『はい、そうですが』
「あーびっくりした。間違えたかと思った。わたしは英と言いますが、怜はいます?」
『すみません、怜さんは今具合がよくなくて、まだ眠っていて…』
若い女性の声だし、沙奈瑚さんの声とも違う。
「ですよね~」
たぶん御影さんの婚約者だろう。もうそういう仲なんだな、とわかっていたことなのにちょっと笑えない。風邪薬無駄になっちゃったな。
すると、
『どうした?』
『あ、怜さん?起きて大丈夫なんですか?』
インターホンの向こうからかすかに会話が聞こえる。
『誰か来たのか?』
『英さんという方です』
『は?どうして…ちょっと変わって』
ひどい雑音の後に、
『すみません先生!今行きます』
『怜さん、まだ寝ていないと』
『問題ない』
婚約者と話す御影さんの声。私は何故か咄嗟に英先生の後ろに隠れた。
見たくない。
見られたくない。
薬の入った袋もカバンの奥に押し込む。せめて彼女の声だけだったらまだ耐えられたかもしれないのに。
そしてすぐに、解錠される音と共にドアが開く。
「先生、すみませんでした」
「資料を取りに来たんだけど…」
「明日上谷に届けさせるという話でしたのに…わざわざすみません」
「いや、それと…具合良くないって聞いたから見舞いにね」
私が御影さんにお礼が言いたいと言い出したのに、今私が隠れている状況を察して、先生は何も言わないでいてくれた。
「ま、必要なかったみたいだけどな。というより、むしろ邪魔?まさかもう同棲しているとは」
「違います。早退してきてそのまま眠ってしまって…起きたら彼女が勝手に、」
「いいって、いいって」
起きたら勝手に?それって合鍵を渡し自由に出入りできる仲ってこと?
「今、資料を持ってきます。どうぞ上がってお待ちください」
「いーよ、ここで。お楽しみ中悪かったよ」
「いえ、それはこれからなんで、お気になさらず」
そんな冗談ともとれるようなふたりの会話なのに、私にはちょっと衝撃的で、しっかり持っていたはずのカバンがドシャッと落ち、一面に中身が散乱した。
「ゆずちゃん大丈夫?」
「え?」
自分で落としておきながらすぐに動けないでいた私の代わりに、散らかった物を拾おうと先生が屈んだ時初めて、御影さんの姿が目に入る。
「瑳?」
何故かどき、とした。何も悪いことはしていないのに。
「君も、居たのか」
充血した目、軽く乱れた髪。急いで羽織ってきたのか胸元まではだけたワイシャツから、引き締まった腹筋辺りまで覗いていて、目のやりどころに困る。
けれど本当に顔色は良くない。
「おい、瑳?大丈夫か?」
「え!は、はい」
先日兄が殴った傷も何ともないようでひと安心していると、
「この本は…」
ハッと我にかえり、御影さんが拾ってくれた本を奪うように受け取る。
「すみません」
ばらまいた本全部が御影さんの担当したものだとわかってしまっただろうか。
「ほら、ゆずちゃん、これ」
結局、風邪薬を全部英先生に拾わせてしまった。先生はそれを、私から御影さんに渡すように気をつかってくれたようだけれど…彼女がいるのに市販薬なんて。
自らの浅はかさに改めて気付かされ、羞恥心で消えてしまいたくなる。
なんて私はバカなんだろう。婚約者がいる人に私が何かをする必要なんてないのに。
もしかしたら、ひとりで倒れているかもなんて。ちゃんと側で看病してくれる人がいるのに、こんな物を持ってくるなんて、恥ずかしい。
「先生、私、これからバイトでした…お先に失礼します!」
「あ、ゆずちゃん!」
先生の呼び止める声も振り切って走った。エレベーターも待たずに階段を降りる。下るだけなら5階からでも…なんて、なめてた。
足がガクガクするせいか、体が揺れる度に熱いものがこみ上げてくる。
御影さんの担当した本ばかり持っているのを見られた上に、お見舞いに風邪薬なんて持って…発想が安易でバカすぎる。
御影さんが言っていたように、ガキだから。
「おっそ」
ようやく1階まで降りたところで、英先生が待っていた。当然エレベーターの方が早い。
「何で逃げるかな。僕たちの年齢差考えてよね」
「先生、すみません…」
息が上がっているせいで、うまく声にならない。
「僕から薬渡しちゃったけど、良かったの?」
「え?あ、はい。すみませんでした」
「御影に言いたいことあったんじゃないの?」
「…いいえ」
「そう?」
「はい。でも、良かった。…ひとりで、苦しんでなくて」
「本当に、そう思う?」
「…はい」
「じゃぁ何で…泣いてるの?」
「え」
ぐっと堪えたはずなのに、ガシガシと頭を撫でられたずみで零れた涙。自覚すると余計に溢れ出る。
もう、ごまかすなんて、無理。
「ほら、」
地下駐車場への階段を指して先生は言う。
「帰ろう?」
「大丈夫、です」
「何が?」
「ひとりで、帰れ、ます」
「そんな顔で?」
「…見ないでください」
「はいはい見ませんよ」
呆れたように言われ怒らせてしまったかと思ったけれど、先生は私を優しく抱き締めてくれた。
「ほらこれで、見えない」
「離して、ください」
「なぜ?」
「だって…」
逃げようと一瞬力を入れてみるものの…
「こんなの…ダメです」
あまりの暖かさに、もっとこうしていられたらと思ってしまう。
「どうして?」
「全然ダメって顔、してないけど」
ずるくて汚い私は、楽な方へ楽な方へと流され人の気持ちまで利用しようとして…最低だ。
「…ねぇ今更だけど、ゆずちゃんの本名、教えてくれない?」
「ゆ、杠葉、瑳…です」
「あぁ、だから、ゆずか。以外と単純だったんだね」
「せ、先生に言われたくありません」
「確かに。瑳ちゃんか…もう御影は知ってるんだね」
私を抱き締める腕に、更に力が入る。
「先生?」
「…瑳ちゃんが高校を卒業するまで言わないつもりだったけど、僕は本気で瑳ちゃんが好きだよ」
「え?…ありがとうございます。でも私、」
「わかっているよ」
先生は私の言わんとしていることを遮るように、私の額にキスをした。
わかってる、と何度も繰り返す先生の声に、ひりひりしていた心が宥められていくように感じた。
抗うこともせず、優しさに浸ってしまったせいで、嫌な感情が溢れてくる。
すぐそばの温もりに身を任せ気持ちを紛らわせてしまえばいいと。
先生の気持ちを利用して自分の傷を癒してしまえばいいと。
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