三章五話 湖上の返歌

 日曜日の空は、遠く、高く、青かった。

 大鳥島自然公園には、待ち合わせ時間の十分前に着いた。だけど、今日もやっぱり村山くんのほうが早い。彼は文庫本を読んでいた。

「ごめん。待たせちゃったね!」

「いえ。俺も来たばかりですよ」

「ふふん」とニヤニヤしている私に、

「……俺、誰かを待っている時間が好きなんです」と彼は顔を赤らめた。

「それ、ちょっと分かるかも」

「市原さん。せっかくなのでアレに乗りませんか?」

 村山くんが指差したそれは、ボートだった。


「今日は来てくれてありがとうございます」

「どういたしまして。手紙ばっちり読んだから」

 ピースする私に、彼は苦笑いした。「俺はいまさらながら後悔していますよ」

「そうなの?」

「一字一句嘘偽りのない手紙ですが、あれを自分が書いたかと思うと……めちゃくちゃ長くなりましたし」

「ううん。手紙とっても嬉しかったよ。だって私のためにあれだけ書いてくれたんでしょ?」

「そこは否定しませんが……」

「それにさ、村山くんがいつもどんなことを考えているのか知らないことがいっぱいあったんだなぁって。私のことをどう思っていたのかとか……」彼の顔を下から覗き込んだ。「口が悪くて、考えなしにものを喋るだっけ?」

「あ、いや、それは!」途端に慌て出した。

「もしかして――いつもの若気の至りってやつ?」

「そういうことにしといてください。……ほんとすみません」

「いいよ。私だって村山くんにあんなことやこんなこと思ってるし」

「それはどういう意味で……?」

「教えなーい」あっかんべーだ!

「あ」

「どしたの?」

「いや…市原さん……やっぱり可愛いなって……」

 こういうとき、なんて返せばいいんだろう? 目眩がするほど恥ずかしいんだけど。


「――お互い遠回りしましたけど、なんだかんだで収まるところに収まったような気がしますね。こういうのを『雨降って地固まる』って言うんでしょうか」

「そだね」風が水面を滑るようにして吹き、前髪を心地よく揺らした。――もう春だ。

「ところで、このボートは岸に戻れるのかな?」

「すみません……」

 ぶきっちょな村山くんが漕ぐボートは、あれよあれよと岸から離れ、ずいぶんと変なところまで来てしまった。よぅく目を凝らさないと元いた場所が見えない。

「帰りは私が漕ごうか?」というか、私が漕ぐ。

「ですね。俺が漕ぐと向こう岸まで行ってしまいそうです」向こう岸ならまだいいんだけどね。

「任せといて」私は胸を叩く。「超特急で漕いじゃうから」

「なるだけ安全運転でお願いします。ボートが転覆したら洒落にならないですから」

「そだねー。へへ」それはそれで二人の思い出になりそう。

「せっかくですから景色を楽しんで帰りましょう」村山くんが言った。

「真っ直ぐ進むばかりがすべてじゃないです。道に迷うのも遠回りするのも寄り道するのも――市原さんとなら素敵な一ページですよ」そう言って微笑んだ。

「私も、村山くんとなら素敵な一ページになると思う」自分で言って自分で照れた。「なんてね」と笑って誤魔化してみるけど、この気持ちに嘘はなかった。

「もう少しだけボートを漕いでもいいですか?」

「今度は真っ直ぐお願いね」

「善処はします」

 さっきよりいくらか滑らかにボートが進む。

 丁度湖の真ん中に来たぐらいだろうか。村山くんが不意に「ちょっと諳んじてもいいですか?」と言った。

「どうしたの急に?」また変なこと言い出したぞ。「ゲーテとかニーチェ?」ゲーテもニーチェもよく知らないけど。それっぽく言う。村山くんならあり得そう。

「いえ。俺のは日本風です。一夜漬けなので完璧かどうかは分かりません。どちらかと言えば自信ありません」

「この日のために備えてきたってわけ?」この人は次から次にもう。くすぐったくなる。

「この日のためにです」

「いいよ。聞いててあげる――どうぞ」

 彼は諳んじたのは、中原中也の『湖上』という詩だった。


 ポッカリ月が出ましたら、

 舟を浮べて出掛けませう。

 波はヒタヒタ打つでせう、

 風も少しはあるでせう。


 沖に出たらば暗いでせう、

 櫂(かい)から滴垂る水の音は

 昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、

 ――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。


 月は聴き耳立てるでせう、

 すこしは降りても来るでせう、

 われら接唇(くちづけ)する時に

 月は頭上にあるでせう。


 あなたはなほも、語るでせう、

 よしないことや拗言(すねごと)や、

 洩らさず私は聴くでせう、

 ――けれど漕ぐ手はやめないで。


 ポッカリ月が出ましたら、

 舟を浮べて出掛けませう、

 波はヒタヒタ打つでせう、

 風も少しはあるでせう。


「――昼の月ってのも、悪くないと思いません?」

 白い月は私達の頭上にあった。

 私はようやく「や、やるじゃん!」と口を開いた。

「まさかこんな隠し技を持っていただなんて思わなかったよ。み、見直しちゃった。あは、あはは」さすがの私もいまのはくらっと来た。

 バシバシ! バシバシ!

「……市原さん、力強過ぎですよ」

「あはは。ごめんごめん。つい」やば。思いきり叩き過ぎた。

「たぶん腫れてますよ、これ……」

「いいじゃんいいじゃん。男が細かいこと気にしないの。ほら、今度は私がボート漕ぐから。オール頂戴」

「誤魔化しましたね?」


 ボートはすいすい進む。

 風を切る。水を走る。私は「おー」と何度か声を上げたりしていた。

「いい気持ち! 私、なかなかいい感じじゃない?」

「うちの学校にボート部があったら全国大会に行けそうですね」

「かもねー……ん、どったの?」

 村山くんが私の顔をじっと見ていた。

「見惚れてたんです。楽しそうにしている市原さんは魅力的だなぁって」

「わとと!」右手に力が入って、ボートが変な具合に曲がった。

「こらぁ! だから不意打ちでそういうこと言い出すなって!」

「すみません。思ったことをそのまま口にしてしまいました。……きっと市原さんの影響ですよ」

「村山くんさ。ときどき、私の反応見て楽しんでない?」

「かもしれません。市原さんのこと見ていると楽しいんです」

「人を見世物みたいに……」ま、悪い気はしないけど。「変わったよね、村山くん」

「市原さんのおかげです」

 もし、彼の言うことが本当だったら――

「私も変われるかな? ちょっとずつでも――村山くんみたいに」

「もちろんです。いまのままでも十分魅力的ですけど、市原さんはもっともっと素敵な女性になると思います」

「村山くん……」

「素敵になってゆくあなたを、俺は、一番近い場所で見ていたいです。だから――」

 二人の未来がどうなるかなんて誰にも分からない。

 数分後、ボートが引っくり返っていたっておかしくない。

 一ヶ月後には彼と大喧嘩をしているかもしれない。

 それでも、いつか早苗が言っていた。

 ――みんながみんな少女漫画の最終回みたいに幸せになれればいいのに。

 たとえどんな未来が待っていたって、私はこのときをずっと忘れない。

「私にも」

 月は聴き耳立てるでせう すこしは降りても来るでせう

「言わせて」 

 湖上の返歌を。涙に揺れながら、そっとあなただけに――

 われら接唇する時に 月は頭上にあるでせう

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