春風ひとつ、想いを揺らして

 ……彼は、春一番が吹くベランダに突然現れた。


 -小学4年生-

 2月19日。6年生を送る会を翌日に控えた今日も、自分の部屋で親が決めた中学受験の為に『速さ』なるものを勉強している。『速さ』というのは約2年後、6年生で習う単元らしいが、お母さん曰く6年生になったら学校の勉強じゃなくて、過去問をしないと合格しない、みたいだ。

 第一志望……と言うのだろうか。そこに行けば良い人生が確約されると両親がいつも言っている中高一貫校は偏差値72の名門校。過去問をやってみても未だに全く解けない。

 ……小2の2月から送っているこの生活、そろそろ飽きてきた。受験当日まではあと2年もあるのに。


「わあ、春一番はやっぱり心地いいなぁ」

「!?」


 ベランダから突然聞こえた年上の男の人の声。うちに兄なんていないし、お父さんの声でもない。第一、あのベランダに立ち入るには私の背後を通らないといけないのだ。人の気配なんてしなかった。恐る恐る声の方を向くと……高校生くらいだろうか、桜色の髪をしたラフな格好の男の人が外の景色を眺めていた。

 この人は誰? 不思議と、怖さよりも好奇心が勝っていた。勉強を中断しベランダに向かう。ガラス越しで話しかける事にした。


「……あなたは、誰なの?」

「ん? あ、やっと声かけてくれたね。僕は歌川うたがわハル」

「いやそうじゃなくて……いやそうでもあるんだけど、なんで此処にいるの?」

「そうだなぁ……妖精、とでも言えばいいのかな」

「妖精……?」


 彼は、まるで脳内に語りかけているように返答してきた。

 この世に妖精なんている訳ない、自然と現実主義者になった私はそう思った。

 でも、それなら彼が此処にいる理由の説明がつかない。妖精みたいなもん、と仮定だ。


「ねえ、あなたは何しにきたの?」

「ハルでいいよ」

「じゃあ、ハルくんはなんで突然此処に来たの?」

「そうだなぁ……」


 なんか、君楽しくなさそうに見えたから。ハルくんはそう言った。

 ……当たり前じゃない。


「当たり前じゃない。親が決めた中学受験なんて楽しい訳がない、楽しめなんて言われてもできっこない」

「中学受験を楽しめなんて言ってないよ、勉強なんて好きじゃない人が大半だから。

 僕が言っているのは勉強以外の生活面。このままだと気が滅入っちゃう」

「……そんな事言われても」


 自分より40センチ程高いハルくんは少し考えた後、何かを閃いたようだった。満面の笑みで語りかけてきた。


「じゃあ、君をちょびっと助ける魔法をかけてあげよう。でも、僕がいるのは春風が吹き終わる4月末まで。僕のいない5月からこの時期までは魔法が解けるからね」

「は、はあ……」

「じゃあいくよ? そーれっ!!」



 -小学5年生-

 ハルくんは、5月に入ると本当に姿を消した。

 彼がかけてくれたあの魔法____『勇気が出せる魔法』は、確かに私の支えになった。

 私が窮屈していたのは、勇気が持てず一歩踏み出せないからというのもある事が分かった。少し、心が開放的になった気がする。


「でしょ?」

「……うん」


 2月19日。翌日には私達5年生主催の6年生を送る会があり、実質最上級生になる。

 そして、受験まであと1年。最近過去問を解き始めたが、合格最低点の7割程度しか得点できない。あと1年で、合格できる程の学力をつけられるだろうか、不安になってきた。

 そして、生活面でも……なんだか、勇気を出しても空回りしている感じがする。


「なんか悩んでるね」

「うん、……勇気を出しても、空回りする事が多くなってきたんだ」

「そうだな……じゃあ、今日はこの魔法をかけようかな。そーれっ!!」



 -小学6年生-

 いつしか、ハルくんと話すのが楽しくなっていた。

 5年の時にハルくんがかけてくれた魔法は、『適応力が高くなる魔法』らしい。前より人の気持ちを考えられるようになったし、過去問を解く時にも役立った。正解の印である赤い丸が快感になり、言われるがまま受ける事になった受験も、自分のためになっているような気がしてきた。

 私の頭の中は、ジグソーパズルのピースがずれていたのかもしれない。ハルくんの魔法に助けられてすっぽり収まったような。

 そして____私は見事、中高一貫校に合格した。制服の採寸や通学鞄の購入も終え、2ヶ月も経てば中学生デビューだ。

 雨水の今日、春一番が吹くベランダに待機していると、どこからともなくハルくんがやってきた。


「ハルくん、受験合格したよ!」

「そう、良かったね」


 頑張ったね、と優しい笑みを浮かべる桜色の彼。どことなく悲しげな感じがした。

 ハルくんの魔法から学んだ勇気を少し出し、問いかけてみることにした。


「……ねえ、何かあるの? ハルくん、いつもとなんか違う気がする」

「あ、気付いちゃったか。勘づかれないようにしたつもりだったんだけどな。

 実は、僕がこの世に現れるのは今日までなんだ。僕ら妖精は、君のような人の前に行って、2回だけ魔法で手助けをするのが役目。本当は去年の春風が吹き終わるまでって決まってるんだけど、お願いして1時間だけ此処に行くのを許してもらった」

「えっ……」


 妖精の世界にも色々ルールがあるのだろう、でも、あと1時間もないなんて……。

 胸がチクリと痛んだ。それと同時に、自分がハルくんに抱いている感情に気づいた。

 いつの間にか、彼を好きになっていた。涙が溢れ落ちる。


「私、ハルくんが好き。もうすぐ会えなくなるなんて寂しいよ……!」

「ありがとう、そう思ってもらえて嬉しいよ。

 じゃあ、一つ答えてもらえるかな。君の名前は?」


 頭をポンポンしてくれた。否、手が触れた感触はなかったから、ポンポンする動きをした、というのが正確だろう。

 最後に名前を聞く、そういえば私の名前を告げてはいなかった。泣きじゃくったまま、人の前では絶対出したくない声を出した。


薦野未子こものみこっ……」

「良い名前だね。……じゃあ、未子。じゃあね」


 ……少しの時間、ハルくんだけが視界に入った。

 風が吹いた。



 -中学1年生-

 中学に入学して、ハルくんのお陰でついた勇気と適応力を駆使して友達を数人作った。授業はハイスピードだけれど、おいてけぼりにはされない程度に頑張り、友達との時間も大切にするようにしている。

 入学してから2週間、段々とこの生活にも慣れてきていた。

 ……そんな時、何処からか黄色い声が聞こえた。


「この声何? めっちゃ黄色いけど」

「未子知らないの!? 今日、高2にイッケメーンな先輩が転入してきたんだよ!! ……あれ、なんかこのクラスに近付いてない? 声が」

「まじか、なんでだろうね……ん!?」


 ……呼吸が止まるかと思った。

 女子生徒に囲まれている『イッケメーン』は桜色の髪をしている。

 まさかそんな事。でも、女子の黄色い声はどんどん近付いて。


「未子!! ……好きです、付き合ってくれませんか!!」



 ……教室の窓から、春風が入ってきた。

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